#1

 

少女は今日も夜を駆ける。



 夜もすっかり更けたころ、明るい茶髪と黒のブレザーを風になびかせながら、一人の少女が街頭の下に立っていた。手には小さな手帳を鉛筆を持っていて、独り言を漏らしながらなにか書き込んでいる。背は平均より少しばかり高く、スカートから伸びる脚はすらりと細い。鍛えられたというより、単純にどこにも無駄な肉のついていないようなしなやかな体つきをしていた。澄んだ深い緑の目は丸く、無邪気なままの色で手帳に書かれていく文字を追っている。

「んー…そういえば、そろそろお米を買わなきゃいけないのよね、市街地まで行くのが面倒で困るわ」

「お嬢さん」

 ふと、そこに声が降った。からからと遊ぶような、低くはない若い男性の声である。
 少女は素直に声に応じて、ほぼ反射的に顔をあげた。

 立っていたのは、フードを目深にかぶった、青い髪の男だった。青い髪はかなり長いのか、持て余すように肩にかかっていて、纏っているパーカーはかなりぶかぶかしているが、そんなに筋肉質ではないことが少女には見て取れた。前髪から覗く灰の瞳はひどく挑発的である。
 その瞳とカチリと目が合ったとき、しまった、と少女は思った。

「…なにかしら」

 応えれば、にやりと持ち上がる口角。

 その挑発的な目には覚えがある。何かしらに快楽を見出し、ゆえにその行為を繰り返してきた犯罪者たちのそれであった。少女にはそれが気配で分かる。厄介だ、と思い、どうやり過ごそうかと一瞬思案したが、この手の輩は快楽への執着が強いため振り払うのは難しい。眉を顰めそうになるのを抑える。
 少女が慣れているのには理由があった。

オレと遊んでよ」

 案の定、愉快そうな声と、焦がれたような瞳。
 男が嬉しそうに目を細めた瞬間、少女の隣で爆発が起こった。

(――…!)

 異能だ。少女はすぐさまそう思った。爆風に髪を掻き乱されながら、男の挙動を注意深く観察する。何かしら合図があるはずだ。何かしら前触れがあるはずだ。それは彼の仕草でもいいし、或いは時間の間隔がパターン化されているなどの規則でもいい。どこかしらに異能を見抜く穴があるはずであると少女は考えた。

 異能。それは世間に恐れられ疎まれ迫害される能力。6歳までに本人があるとき「気付く」のだとされるちから。非科学的で超常な現象。意識や感情と深く結びついた、呪われた才能である。
 少女が慣れているのには理由があった。

「…不躾ね」
「キミこそ、余裕だね」

 少女は後ろへひとつ跳ね、男と距離をとった。
 目は変わらず男へ向けたまま、全身の感覚を研ぎ澄ませ次の一撃に備える。
 男はやはり、楽しそうに笑っているばかりだった。

「久々に楽しめそうだ!」

 男は甲高く、けらけら笑いながらそう言った。その合間にも近くのビルでは爆発が続きやまない。少女は爆風と爆音に目を細めながら、なお慎重に男の仕草ひとつひとつすべてを見落とさないよう、集中が途切れないよう気を張り詰め続けた。
 男はす、と、視線を少女の斜め下へ流した。それを少女は見逃さなかった。
 嫌な予感がして視線の反対側へ飛び退くと、その瞬間少女がさきほどまで立っていたその地面で爆発が起きた。風に体が巻き込まれビル壁に打ち付けられる。痛みに呻いた。
 しかし少女は気付く。物を爆発させている。そして目線が鍵となっている。そう仮定した。空気中でなんの規則もなく意思のみで爆発を起こしたわけではなく、媒体と目線が必要であることに気がついたのだ。

(分かれば、話は早い…!)

 痛みにガクガクと震えうまく立ち上がれずにいる膝に鞭を打つ。視線さえ追えれば直撃は免れるはずだ。ダメージを受けようと致命傷には至らない。ならば勝機はある。ならば逃げる隙はある。少女は回天の機会を伺っていた。
 男の目がまた動く。少女が肩を預けているビルを見遣っていた。それを確認した瞬間少女は一瞬顔を顰めて、と思うと足元から膨らんだ影が少女をまるまる飲み込んでしまった。一拍遅れてすぐ隣のビル壁が爆破され、足元に穴をあけられた廃ビルは大きく傾き出す。

 影がしゅるしゅると少女の足元へと帰っていく。中から再び現れた少女は無傷であった。それを見た男はひゅうと口笛を吹き、楽しげに目を細めた。しかし少女は傾くビルの中へ入り込み姿を消す。

「…あれ、逃げられた?」

 一転、きょとんとしたあと、視界から外れた獲物に興味はないらしい男は、まぁいいやと残して何事もなかったかのように足をくるりと反転させる。去り際、風に煽られ脱げたフードから顔を出したのは、真っ青で右へ伸びる左右非対称の髪。それを気ままに揺らしながら、男は闇夜へ消えていった。

 

 傾くビルの一角から、窓を突き破り茶髪の少女が勢いよく飛び出してきた。とん、と身軽に着地して、きょろきょろとあたりを見渡すと、はあ、と少し大袈裟な溜息を零す。

「危なかったわねぇ…職業柄あんまり人前で使いたくなかったのだけど、仕方ないかしら」

 足早にその場をあとにしながら、右手を頬に添え少女は呟く。と同時に足元の影が鋭く伸びて円錐状に尖り、物質としてそこに存在することを主張するように月明かりを受け鈍く光った。

 少女の名は渚ナツキ。影を操る異能を持つ情報屋である。

 

#2


 情報屋といっても、仕事内容は人それぞれである。

 

 一般人では迂闊に外も歩けない治安の悪いスラムでは、人やら猫やらを探すのにもかなりの危険が伴うもので、そういった面倒ごとは開かれた情報屋に持ち込まれることが多かった。では開かれていない情報屋とはなにかというと、薬の密売の手引きをしたりだとか、テロリストと手を組んでいたりだとかで、そういう情報屋も少なくない。過去に国民を大混乱に陥れたこともあるために、現在は違法とされている職業である。
 ナツキは大体、探偵の真似事のようなことをして賃金をもらうことの多い、平和を何より好む情報屋であった。それでもスラムである以上危険が伴うのは確かで、それなりの度胸と知恵、そして他でもない戦闘力を問われる場面は多くある。実際、純粋な戦闘力の高さと経験の豊富さによる安定感から、彼女に用心棒のような仕事を頼む一般人も少なくなかった。裏で警察と契約を結んだり、テロの片棒を担いだり、大企業同士の情報戦争に加わったりすることもなく、気ままに、あくまでも平和に過ごそうとしているのがナツキという少女だった。異能を宿していた時点で、世間から迫害され、表で生きていくことのできなくなる荒んだ世界だが、彼女はそれなりにこの世界で楽しく生きていた。なにせ、齢10にも満たないころから情報屋として自衛しながら1人で暮らしているナツキだから、持ち前の前向きさもあいまって、楽しめるだけの余裕があるというわけだった。

 そんな彼女には悪い癖がある。スラムに住んでいながら人に対する警戒心が薄いこと。これは油断などではなくもともとの性分であった。基本的に、目の前の人間に悪意ばかりしかない状態を想像しない。そしてそれは牙を剥かれたら難なくかわしてしまえるだけの能力が培われていることで悪化した。
 加えて彼女は非常に世話焼きだった。それこそどうしようもない性分としてである。そしてそれら2つがあわさると何が起こるかというと、彼女の場合、人を拾うのである。



 スラムのはずれの静かな場所にひっそりと建つアパートがある。そこがナツキの住まいであった。レンガ調の壁は経年劣化が見られるものの古臭くはなく、綺麗な状態で保たれている。そのアパートの2階の端、205号室にナツキの自宅兼事務所はある。依頼人と打ち合わせするのもこの部屋だった。

「ナツキ、おかえり…うわ、どうしたの」

 ナツキがそのドアを開き、先ほど爆破の異能を持つ青年との戦闘で負傷した右足を軽く引きずりながら部屋に入ると、心配そうにナツキを出迎える声があった。
 長めの優しい花葉色の髪に、ぼんやりと遠くを見るような焦げ茶の瞳を持ち、深い緑でゆったりと余裕のある厚めのパーカーを羽織った、身長は高くなくナツキと目線もさほど変わらない、細身の少年である。

「ちょっとね、通り魔に遭ったの。暗くてよく見えなかったけれど、鏡見四季だったかもしれないわね」
「あの連続殺人鬼?…そうだとしたら、よく、そんな怪我ですんだね…」
「もしかしたら、よ」

 ナツキは少年の心配そうな目線に軽く微笑んで、右足を庇いながら部屋の奥へと進む。棚から救急箱を取り出すと、「ナツキは不器用だから」といって、少年が手当てを始めた。

「ねえ千代森、今日のご飯は?」
「肉じゃがだよ」
「ふふ、ありがとう。…ねえ、記憶は?」
「…かわらないよ」

 千代森、と呼ばれたその少年は、てきぱきと消毒をすませながらナツキの質問に答えた。

 千代森こそ、ナツキが1年前にした拾いものそのものである。
 用心棒として雇われた先で暗殺者2人と鉢合わせ、その戦闘に巻き込まれてしまったのが千代森だったのだ。暗殺者を追い払ったのち、巻き込んだ侘びにと手当てをする際千代森に記憶が無いことを知り、だったらと同居を始めてしまったのである。記憶が戻り仕事に就くまでの間、情報屋補佐として働いてくれとナツキから持ちかけたのだった。
 そうして記憶喪失の情報屋補佐、千代森香澄は、今日もこうして家事全般をこなしている。ナツキは1人で生きてきたわりにはひどく不器用で、怪我こそしないものの料理する手つきがひどく危なっかしかったり、洗濯物をたたむのもひどくへたくそだったりしたので、彼女が不器用を披露するたび仕事を変わっていたらいつの間にか全般が千代森の手に委ねられたというわけだった。

 そういう理由で始まった奇妙な同居生活は、今のところ何の問題もなく、穏やかな日々を送っている。

 


#3


 それは半年前、肌寒い秋のこと。少年はひとが嫌いだった。

 

(どうして俺はこんなこと)

 少年はふらつく足で考えた。
 明るい茶髪を揺らし、ぐらつく紫の瞳は丸く、その顔は幼かった。少年の名は赤間千夏という。すこし前の夏に16歳になったばかりだった。

(どうして俺はこんなこと)

 しかし彼の思考はそのフレーズを繰り返すばかりで一向に先に進もうとしなかった。どうして、と問いながら、その答えを見つけることを恐れている。言い訳を見つけて肯定するにも、客観視して自身の行いを否定するにも、度胸が足りない。赤間はこれ以上生き方を変えるのが怖いのだ。彼はとにかく変化を恐れた。自分がどうにかなってしまう、その決定権を自分が持っている事実さえ、臆病な彼には重荷すぎた。

 彼は人殺しである。今も手は血に塗れている。より正確に言うならば暗殺者だ。人に雇われ、人を殺す。そうして生きていくのが彼だ。けれど彼には不幸が2つあった。
 1つ目は異能を持って生まれたこと。彼の異能は冷気を操る異能である。何度も人体を内側から凍りつかせて殺した経験があった。異能を持つ時点で、まず普通の人間と同じ生活は送れない。彼は恐れられ、煙たがられ、迫害される立場の人間として生まれてしまった。それは人生の選択肢を大きく損なわせるし、ひどく生きにくくなる枷である。
 2つ目は、父親が赤間千秋であったことだった。彼の父、千秋は、それはそれは変わり者で、異能という現象を心から愛していた。様々な薬品を取り扱う会社を興し、経営者としてとても優秀だった彼は一代で社を非常に大きくしてみせたが、困ったことに彼は研究者気質であったのだ。異能という不思議な才能を見過ごせなかったし、研究チームを設けて日夜研究に没頭しても解明し尽くせない謎に包まれたそれに、毎日心を躍らせていた。その変人ぶりに妻に逃げられても、それでも彼は止まらなかったのである。穏やかな人格者であるが、同時に、確実に、人を殺す才能に価値を見出した、異質な研究者でもあったのだ。当然息子が異能を持って生まれたことをひどく喜んで、当たり前のように研究対象とした。異能を扱う訓練もさせ、人を殺す訓練もさせ、リビングでは等しく父親としての顔で極めて優しく接するくせ、会社では研究者として冷たく息子を観察していた。どちらが表で裏でというわけでもなく、本当にただそういう人間である千秋は、赤間千夏を着実に、人間兵器へと育てていった。

 そういうわけだから、当然赤間は父が嫌いであった。異能という生きる術を選べない生い立ちのなかで、父親という絶対的な存在に与えられた仕事が「人殺し」。彼は父を心底軽蔑していたし、異能が愛しいというその感性も理解できなかった。赤間は異能が大嫌いだった。拒絶すればするほど冷えて痛む指先も切り落としてしまいたいほどだった。突然変異である異能を精神までもが拒絶したとき、恐らくは防衛反応として、宿した異能に関連する刺激を大袈裟なまでに体が嫌ってしまう場合があると、千秋の研究で仮定付けられているが、父の研究を嫌う赤間はそれを知らずにいる。

(どうして…)

 どうしてこんな状況に甘んじているのか。どうして父は自分に人を殺させるのか。なにもかも赤間は知りたくなかったし、受け入れたくなかった。全て幼さを盾に跳ね返してきた。これからもそうやって逃げ続けながら生きていこうとする意識さえある。今まで嫌なことから目をそらしてきて、それでも今こうして生きているのだから、これからだってきっとうまくいく。根拠なんてなくても、今の赤間は、そう思い込んでやり過ごすしかなかった。

 そうしてふらふらと彷徨うように歩くこと数分。ふと彼の足元に、人が落ちていた。

 落ちていた、という表現がぴったりなそれは、霧雨のなか、哀れに惨めに地に伏していた。秋のスラムのコンクリートはさぞ冷たいだろう。可哀想に、ご愁傷様。もとより他人を気にかける余裕なんてない赤間は、それだけ思って通り過ぎようとした。そもそも生きているのかさえ怪しかったのもある。

「う、…」

 しかしそれは小さく唸った。そして近づくにつれ見えてきた顔は、ひどく白くやつれていて、けれども見事なほどうつくしいつくりをしているではないか。赤間は立ち止まって、しゃがみこみ、その顔を無遠慮に覗いた。少年と思われるそれは、少しきれいなその眉を寄せて、魘されているように震えている。
 よしと赤間は思い立った。ひょいと軽々それを抱え、幾分まともな足取りで帰路を急ぐ。



「赤間、赤間ー?起きて、時間だよ」

 と、そこで意識が浮上する。
 懐かしい夢を見た、と、思った。わずか半年前の出来事ではあるが、それからの日々は毎日が色濃くて、ずいぶん昔のことのように思われたのである。
 自分を揺り起こした人物、かつて人形のように道端に倒れていた少年、吉川裕紀。ひとつ年下の彼は、初めはひどく塞ぎこんでいたのだが、赤間に拾われてからというもの日を追うごとに明るくなり、今ではすっかり眩しい笑顔をふりまいていて、それから時々うるさいくらいにお喋りだ。ここにいること、それを知ってくれているひとがいることが嬉しくてたまらないといったふうに。

「ああ、悪い、…懐かしい夢見てた」
「夢?」
「そう。お前を拾う夢」
「なんだあ、そんなこといいから、ほら、急がなきゃ」

 眉を下げて、吉川は大袈裟に赤間を急かす。彼は赤間を親鳥のように思っているのか、後ろをついて離れないのだった。それこそ、仕事のときでまで。赤間の友人、レイという、とある双子の弟に稽古をつけてもらいながら、暗殺者として修行中である。吉川のことまでにこにこしながら雇ってみせた父をやっぱり赤間は恨んだが、吉川も言い出したら聞かない性分であるため仕方が無かった。父が2つ返事で頷いたのは、吉川も異能であったためだろうから、赤間は余計に面白くない。けれど、吉川は夜に一人でいることを異常なまでに寂しがるため、仕事のたび置いていくのが心苦しく、結局赤間が根負けしたのである。

 吉川は自分の過去について話したがらない。けれどそれは赤間も同じだった。自分の醜い部分を晒したくはない。臭いものには蓋をして、押入れの奥の奥へと押しやって、忘れてしまおう。今が楽しければそれでいいじゃないか。赤間は救われていた。他でもない吉川裕紀という少年に。その明るさと無邪気さに、不謹慎にも、心底、救われていた。

 吉川を拾ったあの日。赤間の手はやはり血に汚れていた。屋敷をひとつまるまる、使用人1人に至るまで確実に殺して回った。この手で、ひとりひとり始末した。その屋敷の持ち主の名は、――。
 蓋をしてしまおう。都合の悪い記憶など、奥にしまったきりにしてしまおう。赤間は吉川を救って、吉川に救われた。吉川は今日もまぶしく笑っている。それでいいだろう。

 

#4

 

 それは平和な昼下がりのこと。

「ナツキ、どうしたんだその怪我は」

 とある双子の片割れ、兄のルイ。水色の髪を揺らしながら、金色の瞳を丸くして、ナツキにそう問いかけた。指差された先には、先日通り魔に襲われた際膝にできた痣。ああ、と、ナツキは右膝を添うように撫でた。

「ちょっとね、通りすがりの異能にやられたの」
「そういう時は俺を呼べと言っているだろう」
「そんなことしてる暇なんてなかったわよ」

 ルイはナツキに対して少々過保護だ。ナツキは人に頼られることこそあれど心配される機会など早々ないため、少しばかりくすぐったい気持ちになる。くすりと微笑みながら、金色の三白眼を優しく見つめ返した。

 ルイと、その双子の弟のレイは、とある企業に雇われて暗殺者をしているという。詳しいことはナツキも知らなかった。偶然ナツキが護衛を頼まれたとある役人が、偶然双子の暗殺のターゲットで、戦闘から始まった関係だったが、お互いの仕事が終わってみると馬があって、こうして余暇を共に過ごすような仲になっている。暗殺とは失敗など許されない仕事であるが、双子もナツキもこうして今生きているのは、実は双子がターゲットだと思い攻撃を仕掛けた相手はレイの確認不足のせいによる人違いで、兄のルイによってその失敗が隠蔽されているからだとは、ナツキは知らない。

 アパートの駐車場スペースでは、レイが千代森に戦闘の訓練をつけている。千代森が頼み込んでいたのはまだ記憶に新しい。2人がああして異能を使った訓練をしているからこのアパートに人が寄り付かないことに、果たして気付いているのだろうか。

「あなたは優しいのね」
「そんなわけはないだろう、優しかったらこんな仕事などしていないだろう」
「仕事を選べるなら私だってこんな仕事しないわ」
「そうか?案外楽しんでいるように見えるが」
「…否定はできないかもしれないわね」
「我々は千秋に、…雇い主に恩がある。俺は選んでこの仕事をしているんだ」
「やっぱり、優しいのね」
「ナツキの考えることはよく分からん」

 ルイはふうと目を細めて肩を落とした。ナツキはただ、穏やかに笑っている。


 ナツキと千代森、ルイとレイが初めて会って戦闘に及んだ翌日の昼下がり、ナツキは市街地に買い物に出て、食材を買い込んだ紙袋を両手で抱えていた。まだ少しばかり暑い、初秋のことだった。
 ふと、走ってきた子供が腰にぶつかってよろけた拍子、紙袋のふちからりんごが転げ落ちた。あ、とナツキが声を漏らして、しかし塞がっている両手にどうしようもなくそのりんごを目で追うと、ぱしと横から伸びてきた手が、地につく前にりんごを受け止めた。腕をなぞって顔を上げると、そこにあったのは昨日戦った金色の瞳。

「お前は、」
「あら、あなた…」
「…」
「…優しいのね」

 ルイが目を丸くする。風が吹いて、彼は困ったように一度視線を彷徨わせたあと、眉を下げたまま微かに笑って、やはり、そんなわけはないだろうと言った。