#10


 彼には母親がいた。それは、気の違ってしまった母親だった

 麻木鳴海。母から貰った、鳴るという字を持つ名前。千という字を継がなかった名前。彼はその名前が嫌いだった、鳴る字が、"喋る"ことが嫌いであったのだ。それは人を傷付け、物を破壊することしかできない力だと、母親が恐怖したゆえだ。

 彼女は、異能がそれはそれは嫌いだった。生まれつきに偏見が強く、更に父を異能犯罪者に殺害されているために、それは軽蔑から憎悪へ変わってしまった。けれどもその身に宿した子、麻木鳴海は、5歳の時に異能を発現させてしまったのである。彼女のなかの必死に保ってきた糸が切れたのは、それを目の当たりにしてしまった瞬間だった。
 言霊を操る異能。それは口にしたことが現実となるものだった。喉さえ鳴れば思ったものが思った通り、理を無視して彼の手の元に現れる。意志さえあれば言うだけで、物質は法則ではなく彼の言葉に従い、動く、壊れる、崩れる。彼の声は、響く凶器だった。

 最初に異能を使ったのは4つのとき。麻木が熱を出して、しかし薬を飲みたくないと駄々をこねた時だった。いやだと拒んだ声と意思に異能が反応して、母が差し出していたコップが砕けた。なぜ、どうして、私が、あなたが。しかし、幼く世界のしくみなど知らぬ麻木には、母が叫び散らすその理由を正しく汲み取ることがなかった。けれども以降、母が狂うのを何度もその目で見るうちに、自然と喋ることをやめるようになっていった。彼女に近寄れもしない自分では、それしかできないのだと知った。喋らなければ、母は悲しみに叫んだりしない。麻木はそう認識した。
 そうしていつか、麻木が異能だったためか、狂った母のせいか、両方か。気が付けば父は姿を消していた。麻木という家に嫁いだ先で、孕んだ子が異能だったために捨てられた母は、"赤間千佳"へと戻ったのだった。しかし彼は、麻木鳴海であり続けることを望んでいる。母にとっては、異能を持つ自分と血の繋がりがあるというその揺るがぬ事実こそが、なによりも毒なのだろうと思ったからだった。

 麻木は口を閉じた。話すことをしなくなった。母は、目が合うとなぜとばかり繰り返し、声を出すと「気味が悪い」と吐き捨てる。そんな日が続いたから、自然と麻木は話すことをやめたし、なるべく彼女を刺激しないよう、視界に入らないよう努めた。けれども母は日に日に衰弱していき、当然育児を放棄されていた麻木も発育が悪く、ふたりは共倒れ寸前という状態だった。その異常に気付き、麻木を赤間千佳から引き離すという判断を下したのは、千佳の弟である赤間千秋だった。

「僕はね、君の母さんの弟なんだ。姉さんは少し疲れていて、休憩が必要なだけだから、少し休んだらまた、一緒に暮らせるさ」

 麻木を引き取りに来た千秋がそう言ったのを、麻木は未だに覚えている。きっとそんな日は2度と来ないだろうに、これは気を遣っているのか阿呆なのかお人好しなのか、と、ただぼんやりと思っただけで、なんの返事もしなかったことも。そしてやはり、千秋が言ったような"また一緒に暮らせる日"なんてものはこなかったし、ついでに言うならば千秋はただのお人好しだった。それも、拍子抜けするくらいの。
 麻木はその頃、いくら甥だとはいえ一度も会ったことのない異能を引き取るだなど、叔父は相当におかしな人なのであろう、と予想がつく程度の歳にはなっていた。真冬、誕生日を迎え9つになったばかりのこと。その歳で随分ひねているものだと、千秋には苦笑されたのだが。千秋は異能に興味と好意を持っていて、ゆえに異能のことを色々と研究しているらしかった。だから麻木のことも嫌な顔ひとつせず引き取ってくれたのだけれど、それは果たして甥に対する愛情なのかは、麻木にはよく分からなかった。

「息子がいるんだ、君にとっては従兄弟だね」

 帰りというべきか、行きというべきか。どちらなのだろうと考えていた。とにかく千秋の車の助手席に乗せられ、随分と荒いその運転に死ぬと思うような車酔いをしたのを覚えている。それから大して聞いていないふりをしてはいたが、彼が話しかけてくれたことも、その内容も。

「ねぇ、鳴海くん、きっと姉さんを、君のお母さんのことを嫌いにならないでやってほしいんだ、僕よりも姉さんの感覚の方が、確かに一般的なそれに近いかもしれないけれど、でもね、彼女はちょっと行きすぎている節がある。君のことが嫌いなんじゃない、異能のことが嫌いなんだよ。だから大丈夫、君を恨んでるんじゃないんだよ、ねえ、鳴海くん、鳴るという字、姉さんは自分で付けたんだ。なら愛せて然るべきと思わないかい?整理する時間があれば、君自身のことを、絶対に受け入れられるさ」

 やはり返事は、しなかった。できなかった。

 そうだ。そうなのだ。母は、異能を恨んで憎んで生きてきた。9年も隣で、否、隣と言えるほど近くに寄れなくとも、それでも見ていれば分かることだった。彼女が恨んでいるのは異能であると、彼女が自分を拒絶するのは自分に異能があるからだと。分かっていた。だからこそ、正しく母の感覚を認識していたからこそ、少しばかりの期待さえも、この胸に芽吹くはずがなかったのだ。母が自分を受け入れられる日など来ないだろう、たとえ気が狂って、また狂って一周回ったとしたって、絶対に自分のことだけは受け入れない。確信していた。分かっていた。

 だから、だからこそ。覚えたその感情は、後悔だった。
 知りながら、限界がくるまで彼女のそばを離れられなかったことへの、後悔。遅かったのか、ああ、遅かったのだろう。驚きでもなく、嘆きでもない。ただ底から湧き上がったのは、腑に落ちる後悔と、静かな罪悪感だった。

 10歳の、春だ。忘れもしないその日、3月24日。

「…鳴海くん、落ち着いて聞いてほしい、君が悪いわけじゃない。姉さん、…君の、お母さんだけど、一昨日の朝、」

亡くなった。

 実際に彼女の死因を千秋から聞いたのは、その数日後だった。言いたくなさそうに俯いて、ひたすら言葉を濁して。あの人はただ、お人好しなのだ。おかげで今、彼の家には捨て猫が溢れかえっているほどに、どうしようもなく、底抜けの、拾いたがり。だから彼は言いたくないと言ったのだ、母の死因を、口にはしたくないと。自分に言って聞かせたくはないと。それなのに自分は言い当ててしまって、ゆえに渋々ながら千秋は状況の詳細を告げ、そして、自分はただ黙って、納得した。

 母を、赤間千佳を殺したのは、紛れもなく自分だった。麻木鳴海が、彼女に首を吊らせるに至らせた原因そのものであることは、疑いようもない事実である。異能という恐怖をこの世に産み落としたこと、それを嘆きながら、きっと彼女は首を括ったのだろう。
 だから今日も、謝りながら眠るのだ。だから今年も、きっと来てほしくなどないだろうに、そこに、彼女の眠る墓に、足を運んでしまうのだ。
 毎年、ただ一言、声もなく彼女に謝るために。




 麻木鳴海には、幼馴染がいた。それは世界で唯一の、たった一人の理解者だった。

 理解者の名前は椎葉カオル。麻木が母親のもとを離れ千秋と共に暮らすようになった9歳の春、中学校までは行ってもらうよと言われ通うことになった市街地の小学校に、彼はいた。

 麻木は異能が使えなかった。正しくは使わなかった、と言った方がいいだろうけれど、とにもかくにも、彼は喋らなかったのだ。だれかに声を聞かせることを、とっくに諦めていた。
 けれども彼はそれなりに短気だったから、気に食わないことを言う人間は片端から殴ったし、時々蹴った。千秋がしょっちゅう呼び出しを食らっては困ったように笑っていたのを、今も覚えている。少しくらいなら我慢してやってもいい。そう思ったのは、千秋が麻木を咎めも諭しもしないまま、ただ眉を下げて笑っていた時のこと。千秋にそんな顔をさせたいわけではなかった。それから麻木は少しだけ、殴ることを躊躇うようになった。
 けれどその代わりに一度だけ、喋った。言霊でなにかを壊したような記憶があるが、それが何だったか、もう覚えてはいない。以降蜘蛛の子を散らしたように、誰一人として麻木に声をかけなくなった。清々したと思った。

 それは、千秋の迎えが遅れて、教室で寝ていた日のことだった。
 学校に着いたと千秋から連絡が入るのを待って手にしたまま眠っていた携帯が振動して、はたと目を覚ます。教室が真っ赤に染まるくらいに夕焼けが鮮やかで、不意に窓に目をやれば、窓際に人影。もう誰もいないと思っていたものだから驚いた麻木は、しばらく固まってしまって、その間に携帯は静かになった。それが、初めて椎葉カオルの顔をまともに見た日だ。
 真っ赤に燃えて落ちていく夕陽を、頬杖つきながら眺めていたその少年は、柔らかな淡い若苗色の髪を耳の高さで一つに括りあげ、瞳は眩しいくらいに強い牡丹色をしていながらも、どこか気怠げだった。声をかけるつもりはなかったし、彼も麻木のことなど気に留めてはいないようだったから、黙って手早く荷物をまとめ、教室を出る。開けっ放しのまま去ったドアから、夕焼けを見る振りをして一瞬盗み見た彼は、やはり黙って頬杖をついて、落ちる夕陽を眺めるばかりだった。

 その一週間後、麻木は彼の名前を知った。
 よくある話だ、体育の「2人組になって」、で、麻木はいつもあぶれていた。転入生だからと一番後ろにくっつけられた出席番号は31、奇数クラスなのだから当然一人は余るわけだし、麻木自身お行儀よく授業を受けるつもりなど毛程もなかったから、あぶれたままいつも同じ木の下で授業を眺め、気が付けば寝落ちているのが常だった。異能と触れ合いたい人間なんていない。拗ねるでも悲観するでも、寂しいわけでもなく、麻木は世界のしくみに慣れていた。それからようやく、自分は気楽なほうが好きなのだと知った。他人といると相手の感情や思考を知ってしまって、ひどく疲れる。それは恐らく、母の顔色を伺ううち身に付いた、欲しくはなかった能力だ。
 その日はたまたま欠席者がいて、もう一人、あぶれた奴がいた。関わるつもりは全くなくて、いつも通りいつもの木の方に足を向けていたけれど、ぱしと右手の首を掴まれて、反射的に振りほどき、睨みながら振り返る。そこにいたのが、さして驚いてもいなそうな顔をしながら、いてえなんて言う、椎葉カオルで。

「つれねーの、余りもん同士仲良くしようぜ」

 単純な話。そいつにも異能があって、ゆえに麻木と同じようにどうにも年相応の思考を持てず、集団に馴染めなくて、加えて不真面目でいい加減な男だったというだけだ。サボる口実が欲しかったといえば話は早いだろうか。いつも木の下で暢気に寝ている自分が羨ましかったのだと、勝手に名乗った椎葉カオルは言った。最初から馬鹿正直に駆け引き無しで歩み寄ってくるのはそれなりに気が楽でもあった。別に仲良しこよしがしたいわけではないと、そういう瞳をしていたし、口から出てきた言葉も、そう装ったりはしなかったから。だからその日、会話なんてものはほとんどしなかった。彼が一方的に俺に話しかけたばかりで、自分は首を縦やら横やらに振るか無視かのどれか。ひどくつまらないと思われただろうに、けれどなぜか彼は昼も俺と一緒に食べて、帰りはまた寝こけていた自分を、彼は揺り起こしてから帰った。不思議と頭がぼんやりして、拒絶する理由を思いつけなかった。

「へぇ、じゃあ鳴海くんは、やっと友達ができたんだね」

 ああ、またこの人は頓珍漢なことを。
 何気なく、どちらかと言えば拒絶する理由が欲しいがために、そいつのことを千秋に話したのだった。そして返ってきたのは友達という言葉。今の会話のどこにそんな要素があったのかと目を細めれば、知らぬふりの得意な千秋はそんな視線を軽く流して、話を再開させた。

「その子と話してみればいいのに」
「…何でですか」
「鳴海くんみたいなひねてる子の友達は、同じくらいひねてる子じゃないと務まらないからだよ」
「飛躍してます、俺は別にそういうの要らないですから」
「寂しくないのかい?」
「寂しいわけがないです」

なぜ?

 聞かれて、答えられなかったから、それは聞かなかったことにした。根拠なんてない。ただ、そう思おうとしているだけだ。
 寂しいという感覚自体、その頃の自分にはよく分からないことだった。寂しくないことを知らないからだ。けれど千秋と話すたび、人に優しくされるたび、それが離れた時感じるものがきっと寂しさなのだろうと思って、そんなものを覚えてしまったら、きっとそれは苦しいのだと、漠然とそう思えて、だから、「寂しくない」ことを知るのを避けてきた。母親に拒絶されたくないがため、口を閉ざしたあの頃の感覚と、少し似ている。
 そういえば、母さんは元気だろうか。
 元気なわけはないと思ったけれど、それでも回復に向かっていればいいと思って、来るわけのないまた一緒に暮らせる日を、少しだけ想像しようとしたりもした。上手く思い描けなくて首を捻って、ああ、母さんの近くに自分がいるところなんて、そんな知りもしない光景を想像できるわけがなかったと、少しだけ笑う。それが、母親が亡くなる、1年ばかり前のこと。

 次の日、椎葉カオルはまた一昨日に戻ったように、はたと自分に話しかけなくなった。それもそうかと思って、やっぱり寂しくないことを知るのは駄目だと思った。知ってしまったら、きっとこの状況も、寂しく感じてしまうのだろう。そんな脳みそはあんまりにも不便だ。

「なあ」

 けれどその日の放課後、また寝ていた自分の隣の席に座って、自分を揺り起こしながら、椎葉カオルは声をかけてきた。昨日は起こしただけで、なにも言わず手を振ったのに。寝呆ける頭で携帯をちらりと見る。着信履歴はない。会話をするつもりも、なかった。

「お前さ、なんで喋んねーの?」

 ああ、これは好奇心だ。答える義理はないと言うように、また机に伏した。

「異能が嫌いか?それとも異能を使ったら嫌われることが嫌か?」

 ああ、俺の異能を彼は知っているのか。ぐっと右手を握る。どちらなのだろう、分からない。異能を使ったら離れていく人たちの背中を見るのが嫌なのかもしれない。言霊は便利で、自分では嫌いではない、とは思うけれど、でも、母親は気味が悪いと叫んでいたから、きっと気味が悪いんだろうと思う。なんだそれ、へんなの。自分で考えながら、少しだけおかしくなった。
 俺は、本当はなにを思っていきているんだろうか。

「俺はさ、俺の異能結構気に入ってんの。持ってなかったら家がどうだったとか、別に考えねーし、多分関係ないし」

 ああ、なんだっけ、座標移動。体育のとき、教室にあった白いチョークを、ぱっとその手に乗せてみせたのを覚えている。位置さえ分かれば、人も物も好きなように移動させられるのだと言う。要するにテレポーターだ。手品みたいで楽しいっちゃ楽しい、のかもしれない、と思った。あとは自分も瞬間移動できるから便利だろうな、とか。

「だからさあ、お前の生き方もったいねえよ」
「…わァったようなことを」
「あ、喋った」
「……お前おちょくってんだろ」
「そう見えるか?」
「見える」
「よく言われる」
「テメェな!」
「はは、なんだよ、思ったより分かりやすいな」
「喧嘩売ってんのか!?」

 ああ、こんなに喋ったのは、果たしていつぶりだろう。当然のように返ってくる言葉たちに怒りはなく、夕焼けを背にした牡丹色は淀みなく麻木の目を捉えたままで、拒絶は浮かばない。そんなことが当然であるものか、目を合わすことはまるで禁忌だったじゃないか。けれど彼はずっと麻木と視線を合わせたままでゆるく笑っている。
こんな簡単なことも、喋ってくんなきゃ分かんなかった。
 笑いながら言った彼がひどくまぶしく見えたのは、夕焼けのせいか、それまで彩度を失っていた世界のせいか。
 今まで自分と進んで関わりたがる人間なんていなかった。それは異能だからだし、千秋が自分を引き取ってくれたのもまた、異能だからだ。自分が異能を受け入れるべきなのか、拒むべきなのか、まだ決めあぐねている。そういう態度は、母と千秋、どちらに対しても恩知らずだと、頭では分かっている。けれど自分で自分の生き方を定めることが、まだ、できなかった。誰かに強いてほしかった。そうすればその生き方をする上での最善を、淀みなく選択できるはずなのに。
 けれど彼が関わってくるのは、異能だから、じゃない。無関心な瞳で無責任なことを言うくちびるが、新鮮だった。
 彼の前でなら。

「俺は椎葉カオル」
「……昨日聞いたけど」
「あ、覚えてたんだ?」

 意地悪く笑った顔と、伸ばされた左手。それを握り返したのは、こんな眩しくては誰かが手を引いてくれなくては歩けもしないと、そう思ったからかもしれない。

 一週間後には朝の挨拶なんかするようになって、そのまた一週間後からはスラムに住んでいるという椎葉と、別れ道まで並んで帰るようになった。初めて放課後に遊んだのはそれから更に一ヶ月経ったころで、二ヶ月経ったときに横に椎葉がいるのが当たり前のようになってきたことに気付く。三ヶ月後、椎葉が家の揉め事で欠席した日、自分がもう寂しくないことを知ってしまっていたことを思い知らされて、次の日登校してきた椎葉を殴ってやろうと思ったら、その左頬が既に腫れていて、やめた。兄と父の喧嘩の飛び火を食らったと言っていた。四ヶ月後には何度か家に泊まりにきたりして、千秋がそれを喜んだのを、どことなく居心地悪く感じた。どんな顔をすればいいか、分からなかった。五ヶ月後にはもう、椎葉に隠し事が、できなくなっていて。嫌いだったこの名前を呼ばれることにすら、彼になら抵抗を感じなくなっていたことを知る。
 そうして、忘れもしない、10歳の3月24日がきた。
 こんな時くらい、素直に泣けばいいんじゃねーの。ぶっきらぼうにそう言った椎葉が頭をくしゃくしゃとかき混ぜてくれなければ、意識を保つことすら難しかったかもしれない。
 その1年後には、もう自分の行動は、彼に筒抜けていた。

 11歳の母の命日に、初めて彼女の墓を訪れた。それまでは恐ろしくて足を向けることができずにいたから、その分まで謝ろうか、いや、顔なんて見たくないだろうに来てしまったことを謝るべきか。そんなことを考えながら、行きがけに買った花の束を、そこにそっと添えた。

「すっげー腑抜けた顔」

 ばしゃり、雨を踏む音。

 腑抜けとはなんだ、バカ。そう声にしたくてもできなかった。母の前だと思うと、喉が詰まって、渇いて、腹から力が抜ける。言霊使いともあろう者が情けない。なにも言えずに上げた顔は、白かっただろうか、青かっただろうか。分からないけれど、椎葉は黙っていつもの気怠げな笑みを浮かべて、そこに立っていた。透明なビニール傘をさして、伸びてきた柔い若苗色の髪をじっとり揺らして、牡丹色の瞳はやっぱり眩しいままで立っていた。薄暗くて灰色ばかりのそこで、まるで椎葉だけが切り抜かれたようだった。

「風邪引くだろうが、帰るぞ」

 膝をついて座り込む自分に伸ばされた左手。自分よりよほど細くて白いのに、なぜだかずっとそれに縋って生きてきたような気がしていた。掴まろうとのろり、腕をあげると、待てないとばかりに強引に腕を引っ掴まれ、ぐんと立ち上がらされる。力の抜けていた体は細い腕に簡単に持ち上げられてしまった。少しだけたたらを踏んで、それから一度だけ視界がぐにゃりとしたけれど、ぐっとまばたいてから両足でしゃんと立つ。けれども立つので精一杯で、それを知っている椎葉は掴んだ腕をそのままに、ゆっくりと歩き出した。こんなにも暗いのでは、誰かが手を引いてくれなければ歩けやしない。そんなことを情けなくも考えた。
 椎葉に無理矢理傘を押し付けられて、いらないと言いたくてもやっぱりまだ声は喉の裏側に貼り付くばかりで、突っぱねる力もなくて、結局椎葉の肩が雨に濡れた。自分はとっくにぐしゃぐしゃなのだから、もうどうだっていいのに。前を行く濡れた若苗色が、重たげに右へ左へ、ゆっくり揺れた。

「バス待つより歩いた方が早そうだなあ」
「…おる、かおる」

 ああ、やっと声が出た。そう思ったらもう止まらない。
 墓地から大分離れたそこで、椎葉の歩みが少し緩まった隙に、足を止めた。

 言いたいことがたくさんあると思ったのだ。それは椎葉にでもあるし、千秋にでもあって、それから母にも。けれどどれひとつだってまともな言葉になってくれない。声は引っ込んで、なにも伝えさせてくれない。喋ってしまえば案外簡単なことなのかもしれないのに、声がそれを許してくれない。楽になどさせはしないと、ゆるくゆるく、着実に、喉を締めつける。
 怖いと思った。今ここで、なにか、なにかを言わなければ、このまま息ができなくなって、死んでしまいそうな気がした。そう思ったら止まらなかった。

「おれ、…俺、どうしたらいい、わかんねェんだよ、カオル」
「…鳴海」
「俺がどうしたいのか、どうしたらいいのか、全部、全然わかんねェ、異能がなかったら本当に、母さんとうまくいったのかとか、でもうまくいかなかったら、異能じゃない俺って千秋さんに必要とされないんじゃないか、とか、」
「鳴海、」
「結局俺は何がしたいのかって、そんなのはなにも、なにも分かってない、俺は感謝してるし、報いたいから、だから千秋さんに必要とされる俺でいたい、異能を受け入れたいはずなのに、でも、母さんに許されたいとも思って、それって両立できないだろ、誰かが、…誰か、手を引いて、くんなきゃ、教えてくんなきゃもう、歩けない、なんて、でも、誰が俺、を、必要としてんのかも、全然、」
「鳴海」

 ぐらり、両肩を強く掴まれて、足元が揺れる。気が付いたらビニール傘はとっくに地面に落ちていた。寒い、母親に追い出されるようにして千秋に引き取られたあの日みたいに、寒かった。肩を掴んだ椎葉の手も、ずっと芯から冷えているみたいだった。

「異能がどうだとかああだとか、そんなのどうだっていいだろ」
「よく、」
「いいんだよ」

 ぎり、骨が軋むくらい、肩を掴む手に力が入って、痛いのに払いのけられない。椎葉の低く刺々しい声に圧倒されたというのもあるのだろうけれど、牡丹色の目が、どうしてだかいつもよりずっとずっと眩しくて、抵抗できなかった。自分よりよほど痛そうな声が、真っ直ぐ胸を貫いて、また痛い。

「めんどくせえことうだうだ言うなら俺が手を引いてやる、それでいいだろ」
「は、」
「異能とか異能じゃないとか、関係ないし知らねーよ、俺は鳴海が鳴海だから今まで付き合ってきたし、これからもそうだ、お前がどう転んだって俺には関係ない。だったら俺が手を引いてやれば問題ないんだろうが」
「いや、え」
「文句あんの」

ああもう、アホらしい、帰るぞバカ。
 どうしてだか、心底冷えた、なのに柔らかい声でそうぶん投げてくれた彼は、また俺の腕を掴んで引っ張って、その俺が呆気にとられて足がもつれるのなんてお構いなしに、ずんずん歩いていった。
 処理に大分、いやかなり手間取って、呆けたまま千秋のもとまで送られて、引き止める間も無くまた怒ったような足取りで、椎葉は帰っていった。彼の言葉をようやく飲み込めたころ、ああ、彼はそういうひとだったのだなと、やっぱり呆けたまま考える。俺がどうなったって、手を引いたままでいてくれると言ったのか。眩しくても暗くても歩けない俺は、きっと椎葉がいないと自分から歩みを進めようとさえしなくて、それなら道に迷いもしないのだろうから、多分大丈夫だろう。ふやけた脳で思う。
 怒るとか、悲しむとか、そういうことから一番遠いところにいる男である椎葉が、まるで俺の色んな感情を肩代わりするみたいに、憤ってくれたこと。そのことがひどく嬉しくて、彼がいてくれれば自分はきっと麻木鳴海のままでいられると、そう思った。

 けれども別れというものは簡単に訪れるもので。
 冷えた家庭が燃え上がった。笑いながらそう言った椎葉の家は、事故で全焼、まさしく燃え尽きたのだという。笑えねえ、とそう呟いたけれど、そうか?なんて、残酷にも目を斜め下へ逸らしながら、呑気な声で受け流された。彼の癖だった、どうでもいいことを話すとき、目線を下へ逸らしながら適当に笑うのは。
 本当になんの執着も残ってはいないようだった。助かったのは、彼ひとりだったというのに。

「結構遠いとこの親戚がさ、俺を引き取りたいんだと。まあそこ農家だから、男手が欲しいんだろーな」
「…大丈夫なのか」
「そりゃあこっちのセリフだよ。…そうだな、2年半で戻る。中学出る歳になったら帰ってきて、こっちで就活でもするわ。どうせ高校なんか行けやしねーからな」

 それが、彼が13歳になったばかりの、秋のはじめのことだった。帰ってくると約束してくれたのだ、淡白な椎葉にしては珍しくも。行くなとは言えなかった、自分のことさえ自分で面倒を見られない、ままならない歳だった。巡り会うには幼すぎたことを、寂しく思った。
 2年半、2年半。ただその数字だけを、何度も頭の中で繰り返した。

 彼とはそれきりだ。

(ほんと、淡白な奴だよ、お前は)

 5月の24日。
 あの日からもう6年が経つ。どころかあと4ヶ月で7年だ。今年も、帰ってこなかった。春を迎えるたび、まるで母の呪いのように体調を崩すのに、それでも体を引き摺るように、墓参りは決して欠かさなかった。もう来るなと言いたいのかもしれない、と思ったけれど、生憎そうもいかなくて、声にならなくても謝らなければ、呪いなんかじゃないこの不調が治ることはないのだろうし、何よりも、彼が自分を見つけてくれるとしたら、きっとここだと思っていた。
 霧雨のなか迎えた月命日に、小さな花束を持ってそこへ行く。母が雨女なのか、自分が雨男なのか、そんな下らないことを考えながら、またその前に膝をついた。千秋は結構まめで、母の墓が汚れていたことは一度もない。あんなに嫌われてたっていうのに、やはりどこまでもお人好しなんだろう。頭が、ガンガンと脳を直接叩かれたように響いて、痛い。彼女の前ではやっぱり声が出なくて、きっと喋るなと言われてるんだろうと、そう笑おうにも表情筋すら動いてくれない。情けない、そう思う頭さえ、どこかぼんやりと遠く、他人事だ。
 俯く頬を、霧雨がしとしとと滑り落ちていく。視界はまた彩度を失って、ぼやけていた。

「すっげー腑抜けた顔」

 ばしゃり、雨を踏む音。

 ビニール傘を手に、しっとり湿気を帯びた柔く淡い若苗色が靡いた。

「風邪引くだろうが、帰るぞ」

 なにも言えず、ただ静かに目を開いてあげたその顔は、白かっただろうか、青かっただろうか。腑抜けた顔をしていた自覚はある、けれど、今はただ腹が奥底から、ふつふつと熱い。
 これは幻覚か、錯覚か。どちらだって構わないと思った。憐れでも愚かでも惨めでも、偶像に縋るほどに恋焦がれたその牡丹色が、また自分を認めるたび気怠げに細まって、呆れたように笑ってくれるんなら。
 ぐんと、力強く自分を立ち上がらせたその左手は、やっぱり自分より細く白くて、けれど記憶にあるそれより幾分か骨ばっていた。揺れる若苗色は、ずっとずっと長く伸びて、そして低い位置でひとつにされている。

 椎葉カオルは穏やかに笑って、立っていた。
 その顔が、次第にはっきり見えてくるにつれ、やはり腹が奥底からふつふつと熱くなる。ああ、そうかこれは、そうだ、俺は、

「誰のせいだおっせェんだよボケ!」

 俺は、麻木鳴海であれる。彼さえいれば。
 可愛げもなく、笑顔を見るなり沸いたのは待たされたことに対する怒りで、任せるままに突き出した拳は、やっぱりいつものように、半笑いでひらりとかわされた。

 初めて母の前で声が出た日のこと。

#11


 赤間がばたばたと荷物をまとめて出て行ったけれど、結局はドアの向こうで麻木と挨拶を交わしている声が聞こえてきた。麻木に対し過剰にびくびくしている赤間は、殴り書きで始末書を済ませ、麻木との接触を避けるべく慌しく会議室から去っていったものの、麻木の出社がいつもより数分早かったようで、結局その目論見は失敗に終わったようだ。その話し声は途絶え、数秒でまたそのドアは開く。誰が来たのかなんて分かっているから目もくれずに報告書にボールペンを走らせていると、案の定、麻木のほうから声がかかった。

「ルイ、お前それまだ出してなかったのか」
「顔が近い、寄るな気持ち悪い」
「そうつれねェこと言うなって、ルーイちゃん」
「貴様…」
「あーもーここで始めるのやめてくださいよ~備品壊れるじゃないっすか」

 にたり、とその男は笑って俺を呼ぶ。吐き気を感じながら右手でレイピアを抜きかけたが、第三者の声によりそれは中断された。橘アキだ。その声に「なんだアキ、今日はこっちか」と麻木の注意が逸れて、そのままふっと体を離し代表机に向かっていったので、苛立ちを感じながらも渋々剣を収める。
 麻木は機械に弱い。橘が弄っているパソコンが壊れたらどれだけのデータが、とか、修復にはあれやそれやこれといったパーツをどこそこから買わなければ、とか、修復にかかる数日の遅れは数ヶ月に響く致命傷だとか…そういったことを橘から延々と迫るように言われ、結局理解するのを諦めたらしい麻木は、橘がノートパソコンを持って会議室で作業を始めた時だけは暴れなくなった。馬鹿で良かったと心底思う。

 本社の18階、暗殺部隊専用オフィス、その会議室。そこに俺と、情報管理担当の橘アキ、一応の代表を担っている麻木鳴海が揃うことはそう珍しくもないことだ。俺はレイのぶんもまとめて午前中に報告書を書いてしまいたいし、この時間は徹夜明けの息抜きとやらで場所を変え作業をする橘が唯一作業室から出てくる時間帯であり、それから麻木の出社時間でもある。たまたまそういう行動パターンゆえ集まってしまうというだけで、仲がいいなんてわけはない。どちらかといえば険悪だろう、気まぐれな麻木の一言がなければ会話ひとつもない。へらへら笑って後輩面している橘の腹の底も、何となくではあるが伺える。男に興味のない俺にでも分かる程度のそれならば、そこの麻木にはまるごと筒抜けであるに違いない。奴の前で世界は偽れない。
 それらを踏まえれば、やはり平和か険悪かと聞かれたら、険悪のほうがこの状況には正しくあてはまるのだろうと思う。けれど静かな空間で報告書をまとめられるこの時間帯を、俺自身は良く思っている。麻木がそこにいることさえ除けば。

 先ほどのように麻木が俺に絡んでくるのは、奴が俺の潔癖症を知っているがゆえだ。俺は男に触れられたり性的な目で見られたりすることに対し、吐き気を催すほどの嫌悪を抱く。それを初対面で見抜いた麻木は、以後わざとああやって距離を詰めてはからかうのだ。特別な理由などない、ただ麻木がそういう男であるだけだ。人の嫌がることを進んでやりたがる幼稚な人間であるのだ、愚かしい。しょうもないことだとは思うが、俺も長時間そうされるのでは耐え切れず、抜刀して、暴れて、殺し合いになって。今日までその繰り返しだ。麻木が母の怨念とやらに首を絞められ大人しくなる春ももう過ぎたから、これからまた喧しくなることだろう。
 決着がつく日もあれば今日のようにストップがかかる時もある。二人そろって体のあちこちに穴を開けた状態で、長塚、という千秋の旧友であり闇医者である男が開く診療所に雪崩れ込んだ回数も数知れずだ。麻木は長塚に笑って「こんなもん日常のコミュニケーションだ、なァルイ」などとほざくが、冗談じゃない、俺は心底あの男に死んでほしいと願っている。

「ルイ、報告書早く出せ」
「…」
「あとアキ、そこのドアノブ壊れたから備品取り寄せといてくれ」
「あんたらが足で開けるからっすよ足で」
「千夏に言え、あいつは加減ってのを知らねンだ」

 はぁ、と溜息をつく。品性のかけらもない男共の集まりだ、ここは。唯一所作を身につけているのは千秋ぐらいのものだろう。しかしそれに育てられておきながら自然とそれらが身につかないというのも不思議な話だと、赤間や麻木のことを思う。
 こんな日はさっさとナツキのところへでも行って、彼女の淹れるコーヒーをゆったり飲みながら寛ぐに限る。書き終えた2枚の報告書を何も言わず麻木の机へ置き、誰を労うでもなく部屋をあとにする。かけられる言葉も当然なく、響くのはキーボードを軽快に叩く音と、麻木がカチリとボールペンをノックする音だけ。静かな場所は好きだが、麻木がいる時点でここはなるべく立ち寄りたくないところになってしまった。たまには顔を見せてくれと、千秋にはそう言われているのだが。

 もう5月も終わりだ。晴れていて日の高い時間帯にもなると、彼女の家まで歩くのにもしっとりと汗ばむ季節になってきた。あの情報屋の事務所に風鈴が飾られるのはいつごろになるだろうか、そんなことを考えながら歩く。遠く、恐らくはスラムで響いているであろう爆音も、9年もここで過ごせばもうすっかり馴染んだものだ。市街地からスラムへ近づくほどちりちりと肌を焼く、殺気混じった混沌とした有象無象の気配すらも。こんななんでもない日常は、きっとナツキの好むところで、であれば今日もまた、彼女は機嫌よく俺を迎えるのだろう。赤間と吉川の2人が喧しく乗り込んでこないことを密かに願いながら、また一歩、安穏とした日常へ向かって足を進める。

#12


 赤間にとっての麻木とは、ただひたすらに恐ろしいばかりの人であった。

 恐怖の対象、なんて可愛いものではない、恐怖そのものなのである。世界で唯一で、絶対的な恐怖、麻木鳴海。
 赤間は逆らえないのではなく、逆らわないのだ。彼に刃を向けることは、決して不可能なんかじゃない。しようと思えば、今までいくらだって、いつだってすることができたのだ。けれど赤間は麻木に逆らわない。そういう関係を、麻木が強いたためだった。誰の心の揺らぎも絶対に見逃してはくれない彼は、赤間の都合の悪いことも、誰にも知られたくない感情も、すべてを簡単に暴いてしまって、そうしてそこに圧をかけて、絶対とも言える上下関係を構築してみせた。
 麻木鳴海とはそういう男だった。人の心を暴いて支配することに長けていて、そうすることを躊躇わない。赤間千夏は嘘つきだが、麻木を騙せたことなど、きっと一度もない。彼に心を隠せたためしがない。

 スラムの自販機を前に、赤間は低く唸っていた。今日も今日とて麻木にパシられている赤間は、コーヒーを買ってこいという任務を全うすべく、5つほど並んでいるコーヒーたちを睨むように見つめていた。
 くあ、と、後ろで吉川があくびをひとつ。まだあ。

「さっさとしろ」
「…いや、実は好きなメーカーとかあって、俺を試してんじゃねーのかなー…とかさぁ…」
「バカが」

 あ、と、声に出す間もなく、ピッと軽快な音をさせながらレイがボタンを押す。それはちゃんとブラックだったから、まあ、いいかと思い直し、事実文句を言われたこともないのだしと、しゃがんで缶を取り出した。あ、いや、ホットの気分じゃなかったと理不尽にも拗ねられたことはあったような。あったな。とにかく麻木の横暴さ、自由奔放ぶりには、到底ついていけない。
 麻木は甘いものが苦手、そう、苦手だった。砂糖ひとつまみ入ったコーヒーで嘔吐く程度には。昔の話、麻木が飲んでいたコーヒーに、案外これくらいなら気付かねーだろと宣いながら砂糖を一杯入れた阿呆がいた。結果として麻木はトイレで二時間ほど吐き続けた末、その男を5発ほど殴った。殺されなかっただけ有難い話だ、慈悲だ。麻木はそれほどまでに短気で、気に食わないことは徹底して許さない人間なのである。

「大体さー、何がそんなにこわ…いの、って、届かない、レイくん押して」
「何がって…見てりゃ分かるだろ?あのなんつーの、オーラ?威圧?なんでも分かってますよーみたいな態度とか、わりとマジで知ってるとことか…」
「そっちじゃないよバカ!!もいっこ右!」
「分かった上でわざと古傷抉ってますしそういうの大好きですっていう顔とか…思い出したら寒気してきた、怖い」
「それってさ、怖いっていうかあの…あれだよね」
「小学生」
「そう、そんな感じ」
「古傷ないヤツにはわかんねーの!」

 じゃあそのお前の古傷、って何。
 当然そうなった空気を振り払うように、何でもねぇよと吐き捨てて、ブラックコーヒーを片手に、ずんずんと会社までの道のりを大股で歩く。ああ、思い出したくないのに。おぞましいあんな記憶、なぜ都合良く消えてなくなってくれないのだろうか。なくなってもまた、植え付けられるのだろうけれど。
 爆笑しながら人の地雷を踏むのが好きなくせ、普段は案外寡黙だ。けれどそういう時のほうがよほど怖いということだけは知っている。冷静な彼の判断力、それに一度、比喩でも何でもなく、本当に殺されかけたのだから。

 覚えてはいない。けれど麻木が言うのなら、見ていた彼が言うのならそうなんだろう。初めて人を殺したのは、仕事でも何でもなく、スラムを歩いていた時だった。

 中学を卒業するまで、暗殺なんて仕事はさせない。それが千秋との約束だった。自分は、なにを善人ぶったことを、言われずとも人殺しなど真っ平だと思っていたものだが、麻木は違った。いつもの表情のまま、けれど右手をかたく握り締めて、なにかに耐えていた。耐えていたそれが何なのかは知らない。それが確か自分が10歳のころ、双子がきて3年経った、麻木は13歳であった頃の話である。千秋は市街地の学校まで、自分と麻木を通わせていた。スラムと市街地の間は特別治安が悪いために律儀にも送迎つきで。当然双子にも声をかけたが面倒だと一蹴されたらしく、それを聞いた麻木が「俺だって面倒だってェの」と、つまらなそうに吐き捨てたのを覚えている。けれども麻木は学校に通っていた。中学の、ほんとうに初めまでなのだが。中退した彼が真っ先にしたのは髪を赤茶に染めることだった。彼は本当は黒髪だったのだけれど。
 とにもかくにもそういう理由で、中学校を卒業するまでは人殺しなどさせないと、それが千秋の言い分だった。卒業したってしねーけどな、と、そう言う自分を千秋は困ったように笑いながら見ていた。そんな顔をしたって、俺のことは研究対象としてしか見えていないくせに、なにを今更。そんなことを思った。

 けれどもその約束が守られることはなかった。破られたのは、麻木と2人、商店街からの帰り道でのことだった。
 人殺しはさせないとはいえ、スラムで生きる以上自分の身は自分で守らねばならないし、そうなれば当然、そういった類の訓練も昔からしていた。護身用だ、と強く何度も言い聞かせられ渡されたナイフも、服の内にある。けれどはたから見れば丸腰の子供がスラムに2人。格好の獲物だと、飛びかかってきたそいつを、俺は殺してしまった、らしい。突然のことに驚いて瞬間の意識が飛んでいるから、らしい、と言うしかないのである。

 意識が飛んだのは殺意を感じ振り向いたときで、意識が戻ってきたのは麻木に首を絞められていたときだった。何が起きたか全く分からなかった、分からなかったが、酸欠で震え痺れる手で必死に彼の腕を掴み、とにかく抵抗した。もがいてもがいて、気が付いたら彼の力はだんだんと、緩やかに弱まってきて、ようやく解放された俺は地面に伏して、咳き込み、噎せて、深呼吸をしようとしながらも浅い呼吸ばかりしか続かなかった。ほやぼや、ちかちかとしていた視界も次第に鮮明になって、空の暗さからさほど時間が経っていたわけではないことを知った。意識を飛ばしていたのはせいぜい数分程度だった。
 麻木のことはその頃から苦手だった。なにをするにも自分が偉いことが前提だったし、口も悪ければ態度も悪い、足癖なんか特に悪い。その上、父が引き取るまでは存在は知ってはいたが会ったことなど一度もなく、正直肉親であるという実感は湧かなかったし、それはきっと麻木もそうなのだろう。横暴な彼になにかと命令されることはあれども、さすがに暴力をふるわれたことまではなかった。錯乱でもしているのか。どちらにせよ、自分の身を自分で守らなげればならない状況なのは間違いない。咄嗟に手を回した服の裏、あるはずの護身刀が、ない。
 え?
 探すように、ふと目だけで、普段より幾分暗く狭く、ブレがちな視界だったが、なんとか辺りを見回した。そしてそこに麻木の斜め後ろにあったのは、死体がひとつ。人の、殺されたものが、そこに確かに、転がっていて、壁には吹き出したと思わしき血飛沫が張り付いて、スラムの冷たいコンクリートの地面に、死体から溢れる血液はあまりに容赦なく広がっていた。麻木をかくり、見上げる、足の先から、腰、手、首、頭、全部どこもかしこも血だらけで、ふ、と一瞬で、タガが外れたような気がした。

「っアンタ!何を…!」
「ああ、」
「なにも、殺す、ことないだろ…!」
「そうだよ、殺さなくたって良かった」
「なんだよそれ!人ごとみてェに!!」

 麻木は一度、死体のほうを振り向いて、僅かに目を細めてからゆっくりこちらへ向き直って、伏せがちな静かな目で、静かな声で、淡々と続けた。
 初めて血を全身に浴びたはずの彼は、ただ、冷静だった。

「…なァ、痛まねェのか、それ」
「、え…へ、ッあ!?」

 ゆうるり。静かな動きで緩やかに彼に指差された先、脇腹、腹の左側に、深くナイフが突き刺さって、貫通しかけていた。飛んでいた間に刺されたのか、襲ってきたやつに、それとも目の前のこの人に、分からない、知りたくもない、けれど気付いてしまえばもう、痛覚はそれを無視できない。声にもならないほどの激痛に襲われ、その場で丸まって呻いた。なぜ、なんで。なんのために。整いかけていた息がまた乱れる。

「飛んでたのか、俺が刺した」
「ッは、…な、ぃ」
「お前が探してたのは、肉塊に刺さってるあれ、あっちがお前のだよ、千夏」
「…っ、ぇ、は…?んで」
「お前が、…ああいや、違うな」

 痛みでまともに頭が働かない。そんなことより早く家か医者かどこかで、とにかくこの血を止めてほしかった、刃物を抜いてほしかった。痛い。その単語だけがひたすら脳内で繰り返され埋まっていく。体内に抉り込まれた異物が内臓を焼くようだ。痛い。苦しい。ひゅ、ひゅうと、喉から情けない音がする。

「…お前が刺されたから俺が殺した。千秋さんには俺が、そう説明する」

 丸くなり唸る自分を無遠慮に担ぎ上げながら、ぼそり、麻木は言った。

「…笑ってんじゃねェよ、戻ってこなかったら、殺してた」

 そこで意識は闇に沈む。血が足りない、眠い、体の感覚が消えていく。なにも分からないまま、眠りに落ちていった。

 麻木は本当に、千秋にそう報告したのだという。なんて恐ろしい人だろうと思う。
 起きて、冷静になって考えて、麻木の言葉を繋げればすぐに分かった。すぐに分かることだった、自分にも、そして千秋にもだ。だからあれは、警告だったのだ。
 襲いかかってきた人間を、護身刀を抜き、刺して、殺した。自分がだ、赤間千夏が。それから何度も何度も切った、肉塊になるまで。しかし止まらない、止まらないから麻木が割って入って、なのに曰く、自分は笑っていたから、こんなことをしながらも笑っていたから、だから、麻木は一度冷水をかぶったように、冷静になったのだろう。そうして今誰が一番危険なのか、どれが一番赤間千秋に身近な脅威なのかを考えて、そして赤間千夏を殺そうと決めた。この脅威を、バケモノを処分してしまわなければ、千秋はいつの日かこの化け物に食い殺されるということを、麻木鳴海は知ってしまった。

 だから怖いのだ。冷静なあのひと。最短で最善を叩き出してしまうひと。
 いつか俺が、バケモノどころか感情さえ失せてしまった兵器に、父の望んだそのかたちにまで落ちてしまったとき、間違いなくあの人に殺されるだろう。きっと自分は真っ先に、誰より何より先にまず、父を殺すのだろうから。それを阻止するためだけに、彼は俺をずっと、見ている。監視だ。制御だ。そんな視線と存在が、いつでも自分を見ている。遠くでじっと静かに見下ろしていて、淡々と心を見透かしている。ぞっとするような冷静さで、殺す準備をしている。それがただ恐ろしくて、仕方なかった。


 記憶をはぐらかすようにまばたきをひとつ。
 結局、本社に麻木の姿はなく、コーヒーは自分で飲んだ。カフェインは頭が痛くなるから苦手だし、どうせ飲むなら甘いほうが好きなのだが、レイにくれてやる気分でもなかったのだ。
 家につくと吉川はそのままキッチンへ消えた。いわく手際の悪いらしい俺は、キッチンへの出入りを半分禁止されている。はっきりと言われたわけではないが邪魔らしい。
 なぜだか家までついてきたレイは、客人のくせ真っ先にソファを陣取った。その左手にはコーヒーカップ。そういや前に来た時、うちにあった安さで選んだようなコーヒーを、インスタントながら気に入って、フランス人とのハーフのくせに、よく飲んでいたのを思い出す。あれ、紅茶が好きなのってイギリスだっけ。なんでもいいか。自分の国の形さえあやふやなのに、他国の文化なんて覚えていられない。地球が丸いと証明されたのは数百年も前らしいけれど、あるらしい空の奥の世界にはまだ行けていないから、国の正しい輪郭さえはっきりとは分からないのだ。そんなところへ行く金があるのなら、多分、異能を狩り尽くすなり手懐けるなり、とにかく目先の問題をどうにかするんだろうけれど、それがどうにもならないから富裕層を隔離して、その囲われたなかでいそいそと文明を発達させようとしているのだろう。自分には関係のないことだ。どうだっていい。

「なんでついてきてんの、なんか用?つか昼寝するからソファあけろ。どけ」
「お前もいよいよ麻木に似てきたな」
「…、やめてくんない」

 けれど大人しくカップ片手に椅子へ移動するレイを睨みながら、ごてんとソファに横になる。特に何をしたわけでもないはずなのにどっと眠気に襲われて、特別寝不足だったとかいうことでもないのに、と頭の隅で思う。
 睨んだレイは、自分の刺さるような視線なんてなんとも思わないらしく、相変わらず涼しい顔で、しゃんと背を伸ばし脚を組み、コーヒーを啜っていた。眠いながらにその姿になんとなく違和感を感じて、ああ、そういえばこいつ左利きだったんだと思い直す。いつも眺めている吉川は右利きだから、多分、そのマグカップを持つ手の違いに違和感を覚えるのだ。左利き、どっかにもう1人いたような気がする、けど、やめよう。頭が痛い。
 レイのそれは、右利きの兄と向かい合って兄の動きをとにかく真似た結果だ、と、いつだか聞いたような気がする。じゃあそのコーヒーは、昔に兄の真似をしてブラックで飲んで噎せていたけれど、今も角砂糖2つのままなのだろうか。それともひとつくらいは減らせたのか。大して興味もないけれど眠い頭はそんなことを考えて、うとうと、眠りに落ちかけている。流石に砂糖の数なんて、匂いじゃあ分からない。俺は砂糖ひとつとミルクを入れるけど、やっぱりコーヒー自体あまり飲まない。好むのは麦茶だ。
 体は脱力しきって、はやく寝かせろと脳にせがんでいた。なにをそんなに疲れているというのだろう。

「…用、というほどの用はない」

 ああ、それ、まだ続いてたの、ほんとに話あったんだ。けれど眠くて、言うのもやめた。ただ、片目の瞼を持ち上げて、ゆるりとレイを見遣る。気がつけばカップは机に置かれて、ソファに寝そべる自分の隣に膝をついていた。

 金色のひとみ。
 兄のルイに比べて幾分、いや、かなり幼いレイは、その幼さゆえに、感情を隠すことをあまりしない。ずる賢く生きてきた俺たちとは、ルイや麻木なんかとは違うんだろう。彼は思ったことがすぐ顔や口に出る側の人間だ。大人ぶって高慢で、毅然としているフリを好むくせ、そのしゃんとした表情はすぐ怒りに崩れるし、綺麗に閉じられていた口も、子供と対等に喧嘩できるくらい、簡単に開いては大きな声を出す。
 俺とは違う。
 俺はすぐに嘘を吐く。へらへら笑って、予防線を張って、表情から感情が漏れないよう努めてきた。しかし完璧ではないから、そこを麻木に見抜かれつつかれるのだということは分かっていても、それでもレイよりはずっと上手く生きてきただろう自信がある。上手い下手の基準がなんなのかは、置いておくとして。

 だけど、だから俺は、たとえば自分のひとみがこんな風に金色だったとして、こんな風に分かりやすく不安に揺らせたりなんかしてやらない。

「…冷えるのか」
「……、ばっかじゃねーの」

 持ち上げていた瞼をおろす。次第に目の前は暗くなって、脳は体に眠る許可を下した。冷えてねーよ。落ちる直前に乱雑に放り捨てた言葉は、しかしレイに安堵の溜め息をこぼさせる。
 俺は、そんな風にしない。きっとそんなことはできない。分かっているんだろうに、なのになんで彼は、こんなことをするのだろう。
 俺は、お前が生きられなくなったとき、そんな風に不安になれるか、分からないというのに。そんな自分に、こんなに不安を覚えているというのに。

「…ほっといてくれよ」

#13


 別に世界が憎いとかそんなんじゃない。オレが世界を壊すことに大した意味はない。ただ楽しい、それだけのことでしかなかった。けれど今日も相変わらず、オレのありもしない悲しみを探しているらしい上神は、穏やかな声でオレに接する。やはりばかな男だと思うばかりだが、使い勝手はいい。それでもオレが求めてるのは安穏とか平和じゃない。もっとピリピリした、そう、スリルのある非日常だ。上神の声はあまりにも、スリルからは程遠い。

「…四季、聞いているか?」
「ぜんぜん」

 地図を広げてなにやら説明していたらしい上神を軽くあしらって窓の外を眺める。今潜伏している廃屋はわりと気に入っていた。いつ途絶えるか分からないがまだライフラインが生きていて快適だし、そこそこ人のいる通りに出るのに3分とかからない。たとえば暴れたい衝動が沸き上がったときすぐに人を殺しにいける。だから好きだ。

「ここも時間の問題だ。明後日には移動しなければならない」
「はいよっと」
「…四季、米粒」

 気に入っていたと思ったらこれか、と思いながらも別に思い入れはないので適当に返事をすると、米粒、と言われた。たぶんさっき食べた朝食だ。口の周りを適当に探ると指先に一粒米が引っ付く。そのままぺろりと口に含んだ。
 それを見た上神が笑う。あまりにも静かに、あまりにも穏やかに。窓から差し込む日差しのせいで眩しい。

「…、なに笑ってんの」
「わらっていたか?」

 はあ、と溜息をつく。
 こいつは自分の感情を、職業柄封印しているつもりらしいのだ。オレからしたらそこらの人間よりよっぽど人間臭くて青臭いのに。それでも表情を動かしていないつもりでいる。まぁ事実、上神の表情が変化することなんてのは滅多にない。けれど目は口ほどにものを言うとはよくいったもので、上神の感情というのは大概目を見ればだいたい分かる。
 最近は穏やかな気分でいることが多いように見える。オレはそんな目が嫌いで、よく殴るけれど、でも上神の目に嫌悪が浮かぶさまを、オレはあまり見たことがない。本当はもっと怯えてほしいし、恐怖してほしい。そういう人間を見るのが好きだからだ。こいつのようになにがあっても動じないとか、何をされても優しい目をしていたりとか、そういう得体のしれない人種は苦手だ。人の不幸がオレの幸せなのだから。

 だけど、揺れている。最近はオレまでおかしくなってきたのかもしれない。上神の殴っても蹴っても優しいままの色をした目を見ると、ムカムカして自分を抑えきれない。もっと殴りたくなる。もっと踏み躙りたくなる。もっと不幸になってほしいと思ってしまう。こんなのは初めてだ。だって「殺したい」と思ってない。確かに上神は便利で手放すには惜しいけれど、でも今までだって上神がいなくても好き勝手やってきた。だから別にいなくたっていいんだ。それなのに殺したくならない。上神の存在を、その愛しむような目つきを、本能は激しく拒絶しているにも関わらず、殺したって楽しくないとはっきり分かっている。どうしたらいいか、正直よく分からない。
 きっとこの感情の名前を知ったとき、自分はきっと上神を手放すだろう。そんな気がしてならなかった。

#14


 ぐらぐら、くらくらするの。なんでかな。吉川は言った。
 その紅潮した顔を見た赤間は反対に顔を青くして、熱がある!と散々騒ぎ、俺の部屋をあちらこちらへどたばたと忙しなく走り回った。せっかくの休日だというのにあの二人がいるとくつろぐことすら叶わないと、俺は密かに溜息をつく。



「で、どうなんだ」

 やっと静かになった正午、肩を落としながらソファに腰をおろした赤間に聞く。左手を額にやりだるそうな目つきで俺を見た赤間は、あぁ、と低く呟いて、人の部屋だというのに机の上に足を放り投げると、そのまま静かに話しはじめた。

「8度2分だとよ、…朝はぜんぜん元気だったんだ…気付いてやれなかった」
「アレが馬鹿なだけだ。もう15だろう、体調管理も自己責任だ」
「…あいつの親殺したのは俺なんだよ、俺がかわりに面倒みてやらなきゃ、愛してるのに」

 …愛しているのに。赤間は消え入りそうな声で続けた。難儀な奴だ。
 結局のところ、赤間は吉川を愛せていない。「ひとを愛せる自分」に酔っているだけ、「異能は吉川を守るための手段」と認識したいだけ。赤間自身もそれに気付いている。その上で何度も何度も、まるで自分に言い聞かすように、「吉川のことを愛している」と口にするのだ。そのさまは滑稽なほど痛々しい。
 そしてそれらを俺ではどうにもできないことも分かっている。俺では役者不足なのだ、生きている間は腐れ縁でいてくれるだろうが、それはなんの薬にもならないし、麻木のような毒にもならない。ただただ見ていることしか、できない。歯痒いとすら思わせてくれない人間だ、赤間千夏とは。

「愛しているなら、隣にいてやったらどうなんだ」
「…動揺してるところをあまり吉川に見せたくない」
「粥はできたが」
「……お前が持ってってやってくれ」

 愛しているなら気付けたはずのこと、に、気付けなかった。きっとそれにショックを受けているのだろう。当たり前なのに、愛せていないのだから。目を伏せひとみに睫毛の影を落とす赤間の嘘のような静かさが空間を冷やしていく。溜息さえ零せないほど。



「おい、調子はどうなんだ」

 粥を持ち貸してやった寝室の扉を開ける。すると吉川はへらりと笑いながらこちらを見た。

「あ、れいくん」

 熱に浮かされているのかいつもより喋りがたどたどしい。
 ベッド脇のテーブルに粥と水、解熱剤を置いて、食べるか、と訊ねたが、いらなあい、と返ってきた。近くにあった椅子を引きずってそこへ座る。

「とりあえずなにか一口でも食べないと薬が飲めんぞ」
「うーんそっかあ…そうだよね…」

 聞いているのかいないのか、曖昧な返事が返ってくる。ふうと肩を落とし腕を組んだ。いつもこれくらい静かだったらとちらりと思う。天井をじっと見つめ、考え事をしているようだった。

「赤間のことか」
「…へへ、ばれちゃうよねぇ」

 困ったように眉尻を下げて吉川は笑う。経験上知っている、ここまでくれば吉川は勝手にぺらぺら話し出すことを。幽閉されていたあいだ誰ともできなかった「会話」というものが、今の吉川にとってはひどく楽しいものらしいのだ。

「赤間、不器用だよね」
「まあそうだな」
「…うそ、へたくそ」
「ああ」
「おれ、知ってるんだ、…それでもいいの」
「…そうか」

 かわいそうに、この人形は、自分が「クスリ」であることを知っている。自分がいる限り赤間は兵器と堕ちることはないと分かっている。すべてがそれを失わないための演技だということも。それでも吉川は赤間を愛したいのだという。

「あいしてるって、おれは赤間に言うけど、たぶん、愛せてないんだと思う」
「…ああ」
「でもね、さっき俺のために慌てて走り回ってくれたの、なんか、うれしくなっちゃった」

 そういって吉川はへにゃりと笑う。
 きっとこの少年は、赤間に恋をしている。赤間の偽りの愛と、吉川の不完全な恋。まったくちぐはぐなのに、表面上では「愛してる」「おれもだよ」で成り立ってしまっている。それを歪だとするひともいるだろう。確かに普通ではないかもしれないが、それが彼らの生きる術であるのなら、俺にはそれらを咎められないし、首も突っ込めない。吉川は決して振り向いてくれない赤間に恋をした。いつかその手で殺さなければならないであろう相手に。それでも俺はやはり見ていることしかできないのだ。赤間から吉川を奪えないように、吉川から赤間を奪うこともできない。この荒んだ世界で生きるためには必要な嘘だ。虚構でしかないその上っ面は、彼らの生命線でもある。だからどんな悲劇が訪れるのかを知っていても、やはり、俺にはどうしようもない。
 どうしようもないのだ。

「おれ、赤間のこと、きっと、すきだなぁ、すごく」

 うん、きっと、すごくすき。
 そう言って吉川は静かに瞳を閉じる。その顔には笑顔が浮かんでいた。かわいそうだとさえひとに思わせないほど、吉川裕貴は、強かに生きようとしている。だから俺は、見ていることしかできないのだ。