#15


 嘘でしょう?赤間はボールペンを取り落とした。

「嘘じゃねェよ」

 麻木は冷たく言った。こんな何の意味もない、つまらない嘘を吐くわけがない。椎葉カオルが帰ってきた。たったそれだけのことだ。

「…勘弁してくださいよ、」

 赤間は取り落としたボールペンを拾うでもなく、その手で頭を掻き混ぜた。想像するだけで嫌気がする、疲弊する。椎葉カオル、そのひとのことが、赤間は嫌いだった。だってどうしようにも性格が悪すぎる。どうやったって相容れないと強く思っていた。
 それが帰ってくるまでの麻木鳴海は、いわば抜け殻だった。魂の抜けた、けれど頭だけ鮮明に働く機械のような。横暴で、奔放で、粗暴な役を演じていた。ルイやレイ、赤間などの古くからの知り合いが、揃って麻木をそういう人物だと認識していたからだ。だから一番違和感のないように、麻木鳴海らしさを纏って息をしていた。そういうことが、苦なくできる器用な人だった。それらは全て、千秋の安全のための組織を束ねる術で、麻木は、寄せられた期待と信頼に応えるために生きているだけだった。誰かに望まれなければかたちを保てない人だった。

 赤間がそれに、椎葉カオルに初めて遭遇したのは、6歳のときだった。出会ったことが間違いだったと確信している。
 一目惚れだった。切れ長のひとみ、それを長く縁取る睫。若苗色の髪は柔らかそうに揺れていて、口元にはいつも緩やかな笑みを浮かべて、あの麻木と軽口を言い合っていた。ひどく驚いて、椎葉をとても遠い存在のように感じたことを覚えている。ともかく一目惚れだったのだ。赤間が同性愛者となった、もしくはそうであることに気付いたのは、間違いなく椎葉カオルが原因だった。同性愛者であることに思うところはないが、椎葉と出会ってしまったことはひどく後悔している。

「…生きてたんですね」
「ああ」

 俺も死んだと思ってた。麻木は言う。だって約束を違って3年半になる。6年も姿を見せないどころか文ひとつ寄越さなかったのだ。そう思ったって不思議なことじゃない。けれど帰ってきた。生きていた。信じたくない、椎葉に焦がれすぎたこのひとが見た幻覚なのではないか。正直そういうことにしてしまいたかった。

「あいつ今は、なにを」
「さあな、聞いてない」
「…なにを話したんですか?」
「ファミレスで飯食っただけだ」

 ああ、あんたたちらしいな。赤間は静かにそう思って、その部屋をあとにした。今の麻木はきっと意識がどこか遠くへ向いてしまっている、これ以上話すことはなにもない。
 事実、麻木の頭の中は"空"だった。それが一体何年ぶりか分からない。ずっと何かを延々考え続けていたような気がする。千秋のこと、赤間のこと、椎葉のこと、母のこと。そしてそれら全て踏まえて、自分がどういう立ち振舞いをするのが最善なのかを、ひたすら考えていた。理性と思考で感情を支配して、指の先に至るまで細かく、繊細に、正確に、豪快で高慢で威圧的な麻木鳴海、を、演じ続けていた。そうするのが人生において正解だと思ったからだ。自分の、ではない、千秋の人生のために。
 それらの自分に課していたあらゆる枷からようやく解き放たれたのは、彼が帰ってきたからだ。鍵を持っているのは椎葉カオルただ一人だけで、そうしてあの日、あの霧雨のなか、椎葉は確かに麻木を解放した。異能だからではない、麻木が必要だからではない、或るかたちを望んでいるからではない。いうなれば椎葉にとって、麻木は"必要ない"のだ。必要不可欠な存在ではない。麻木が椎葉の存在を、その人生を左右することはできない。だからこそ麻木には、絶対的に、椎葉が必要だった。必要な存在ではないはずの麻木に、なんのかたちも求めないままで、ただ笑いかけて、拒絶しないで手を引いてくれる、椎葉というひと。そういう存在に、どうしようもなく依存している。

 赤間はそれを知らなかった。
 赤間は人の感情にひどく鈍感だ。麻木と違って、人の思考や感情を読み取ることに長けていない。正しく赤間の血を濃くひいているからこそ、赤間はどうしようもなくそうなのだった。だからあの日、ババを引いてしまった。
 椎葉というひとのことを、その男の性分を。赤間はなにも知らないままで、好きになってしまったのである。

「椎葉さん、」
「はは、何だそれ、呼び捨てでいいって」
「…椎葉、」
「うん」

 そういって男は柔く笑った。今にして思えばなんてやつだと顔を顰めたくなるような出来事だが。
 椎葉と出会ったのは6歳のとき。その男もまだ9歳だった。けれどずいぶん大人に見えたものだった。振舞いや表情が麻木や双子とは全然違っていて、なんだか特別なひとのように思わせた。初めて麻木が椎葉を家に連れてきたその日から、鳴海くんに友達がと喜ぶ父を尻目に、赤間は彼がずっと好きで、いつだって目で追っていた。きっとそれが間違いだったのだろう。

 彼はよく赤間を遊びに誘った。といっても麻木の部屋でゲームをするだけだ。お茶とちょっとした菓子、コントローラーを用意して、3人で夜になっても遊ぶ、ただそれだけ。けれど純粋に楽しい空間だった。そのときだけは麻木になにを命令されても怖くなかったのを覚えている。茶のおかわりを持ってこいだとか、そういうのは椎葉のためにもなるものだったし、何より麻木の纏う空気が刺々しくなかったから。それがなぜなのかを、あのときもっとよく考えるべきだったのだ。

 ある日、夜遅くまでゲームをやっていたとき、麻木がひとり寝落ちてしまった。ベッドに腰かけた状態から、上半身をこてんとベッドに沈ませ、片手はコントローラーを握ったままで、足を投げ出して眠っていた。なあ鳴海、と椎葉が呼びかけたのに返事がなくて、ふと見たときには既にそうだったのである。そうなってようやく時計に目がいって、そしたら椎葉が「もうこんな時間か、片付けないとな」と笑って言ったので、赤間もおとなしく頷いた。椎葉と遊ぶ時間が終わってしまうのは名残惜しいけれど、食い下がるのは迷惑だし、不自然だと思えたからだ。
 ゲームを一式片付けると、椎葉は麻木へ近寄った。

「ほら、ちゃんと布団かぶって寝ろよ。また風邪ひくぞ」

 ベッドの側に腰かけて、ちょうど目の高さにある麻木の頭を、ひとつ撫でた。普段は触られようものなら飛び起きる麻木も、すこし身じろいだだけで起きる気配はない。赤間はその光景に釘付けだった。優しく麻木に触れる椎葉の動きひとつひとつが、そのさまが、なんてことはなくただ触れているだけであるはずなのに、ひどく色を感じさせるものだったからだ。なんだか見てはいけないものを見ているような気分にさせた。そして色っぽいその牡丹色の瞳に、意識を奪われていた。

「鳴海、」

 頭をもういちど撫で、そのまま手は首筋へ下りた。親指でそっと輪郭を耳までなぞりあげ、そのまま徐に顔を近付け、首筋に鼻を埋めたところで――椎葉は赤間を見遣った。
 そして、そのままにやり、意地悪く口角を引き上げて、細めた瞳をひどく楽しそうにゆらりと遊ばせた。そうしてその男はなんと言ったか、

「…してほしいか?」

お前も。

 そこで赤間はようやく、自分が遊ばれていたことに気がついた。
 全て当てつけだったのだ。麻木にとって自分が特別な存在であるという事実を見せびらかして、そうして赤間もそうなりたいのかと、たとえ頷いたとしたって絶対に受け入れないくせ問いかけた。熱のこもった目で姿を追っていたことを知っていたから、わざと色っぽい仕草でもって煽り、「けれどお前にはしてやらない」と突きつけて、その反応を見ようと馬鹿にしたのだ。かっと頭に血がのぼって、部屋を飛び出し乱暴にドアを閉めた。そこが麻木の部屋だということすら忘れて。
 それ以降、ひどく単純なつくりをしている赤間は、椎葉カオルという男に嫌悪を抱いて生きてきた。そしてそれを当然分かっている椎葉は、やはり赤間を弄んで笑う。でも俺のこと好きだろうと、そういう目をしていた。そういう人間だ。自分に好意を寄せる人間で遊ぶような男。



(死んだと思っていたのに、)

 麻木には悪いが、清々したと思っていたのだ。とんだ悲報だ。ひとつ舌を打つ。

 懲りない自分はいまだ同性を好いていて、なぜ学習しないのだろうと自分で哀れに思わなくもない。それでも吉川はあんな最低な男とは違う。好意を示せば素直に喜んで笑うし、向けられた好意を利用などしない、同じどころかそれ以上の好意で応えようとしてくれる。抱き寄せる肩は薄く、背中へ回される腕は白くて細い。人形のような造形で、誰より人間らしくめいっぱい笑うのだ。
 幸せだと思った。守るべきものがあるということが。ものを大事にできている自分はまるで人間のようだ。
 あの男の生存を知らされ乱雑だった足取りは、吉川のことを思えば、少しずつ落ち着いていった。

#16


 じゃあ、いってきます。

 そう言って軽く微笑んでみせた少女は、その場でくるりとひと回りして、それを見た鏡見は腹を抱えて笑う。似っ合わないねー、ヘンなの。それでも一頻り笑ったあと、無理やりのように付け足されたのは、いってらっしゃい、という、ぎこちない挨拶だった。その言葉の意味を、その男がどこまで知っているのかは。
 それからもう、ふた月が経った。

「カガミ、カガミ」
「はいはい、なにさ」

 鏡見はマキの調達したパンを歯で千切るように食べながら、てこてこと周辺を動き回るナギに視線はやらず、しかし律儀にも返事を返している。その様子を見て、マキは小さく安堵の息を漏らしていた。今日の鏡見は機嫌がいいように見える。ナギに手をあげたことはないが、突然の思いつきでなにをしだすか分からない。今日のように機嫌が良いと、突発的に異能を振るいたがったりすることもあるため、マキとしては苦労が増えるだけなのだが、ナギと穏やかに会話を紡ぐさまを見るのは嫌いではなかった。
 マキには危機感が足りていなかった。鏡見がナギを殺す未来を、具体的に思い描けずにいる。鏡見が人を殺す遊びをしているのを何度もその目で見ているのに、鏡見に慈悲や情、倫理観の芽生えを期待しているのだ。そうしてきっと、ナギというちからのない少女に、いつか優しく接してくれる日がくるのではないか。そしてそれを絵空事と判断する能力に欠けていた。

 ナギは木製の小さな櫛を手にしていた。幼い少女のてのひらに収まるような、丸みを帯びたコンパクトなもの。そうして左手で鏡見の髪を持ち上げ、梳いてあげる、と言い放った。

「動かないでね!ぶちってなっちゃったら痛いんだよ」
「知ってるよー、気が済んだら起こしてね」

 胡座をかく鏡見の後ろで、膝を立て、鏡見の髪を梳こうとしているらしい。鏡見はやはり機嫌がいいのか、大人しくされるがままになっている、どころか、転寝さえはじめようとしている。事実、鏡見は悪い気はしていなかった。少女との関係を密にして懐かせるほど、不意打ちで殺すことが容易くなる。それはマキを制御しやすくさせることだからだ。そんな枷など関係なく、上神はきっと自分を見捨てられない。そうと知っていても、ここに上下関係があることを、マキに強く示したかったのだ。
 キミの意思でここにいるのではない、キミは俺が支配しているのだ、と。そういう主張がしたかった。

 けれど一方で、見せ付けられたマキ本人は、少々気を緩めていた。和やかな午後だと錯覚したのである。地図を広げ、今までに使った脱出経路や少女から伝えられる警察の動きなどを書き込みながら、むしろいつもより穏やかな気持ちですらいた。そしてそれを鏡見に知られることはない、とも思っている。鏡見はきっと自分の機嫌がいいことを面白く思わないだろう、という、漠然とした認識は何とか持ち合わせているけれど、伝わらないよう気を張り詰めるわけでもなく、どころか動かし方を忘れ去るよう努めたこの表情筋は、放っておいても動くことはないだろうと油断している。けれど鏡見には直感で、マキの考えていることが大体把握できてしまった。張り詰めていない目尻と口元が、柔らかな印象を与えたためだろう。す、と薄く目を開いて、マキと目線をカチリと合わせる。なにも言えずただぼけっと鏡見を見るマキに、悪戯を思いついた子供のようににやりと笑ってみせて、それからちょいちょいと、右手で小さく手招きした。

上神
「なんだ?四季」
「いーから。ねーナギちゃん、も一個あるでしょ」
「兄さんのもやってくれるの?いいよ、特別に貸してあげる!」

 招かれ、招かれ、胡座をかく鏡見の前へ。下でくくった髪を解かれ、ろくに手入れもされていないパサついたビビットピンクのそれが、ふわりと風に広がる。手持ち無沙汰なのか、それとも脅して遊びたいのか、気紛れか。マキには鏡見の考えがまったく読めず、けれど困惑しているうちにさっさと鏡見に背を向けるかたちで座らされると、すぐ木製のちいさな櫛が髪を梳いてゆく感覚が背を走った。乱雑なその動きは、櫛が引っかかるたびぐいぐいと遠慮なく髪を引っ張って痛いけれど、元より髪を弄られると眠気を覚える性質であるマキがうつらうつらとし始めるまで、さほど時間はかからなかった。兄さんはね、こうされるの好きなの。へぇ、いいこと聞いた。後ろでそんなやりとりがされているのに口を出す気も起きないくらい、不思議とマキは落ち着いて仕方なかった。

(これは、脅しか…牽制、か、あそびか)

 波に飲まれていく頭で考える。けれど考えたところで分かるはずもなく、頭は使えば使うほど休息を求めた。そういえば人使いの荒い誰かさんのせいで、最近まともに眠れていなかった気がする。けれども自分はそれに慣れた。甘んじた。
 マキが鏡見に馴染むことで、二人の関係が穏やかになっている。それは狂っているかたちだ。分かっている、分かっていながらも、マキは鏡見に期待することを、やめられそうもなかった。気まぐれなこの殺人鬼に、誰かが優しさを教えて、倫理を説かなければならないと思う気持ちが変えられない。そうしてそれはきっと、穏やかな環境において芽生えるものであるはずで、優しい人間関係によって構築されるべきものなのだ。だからマキの選ぶ選択はただひとつしかなかった。鏡見四季を慈しむこと、それ以外に、彼を救う手立てが見つからない。
 流れる静かなこの空気に、マキの瞼は重くなるばかりであった。かくん、落ちる。そう思った瞬間、すぐ後ろから、鏡見の声がした。

「…ほんとダメなやつ」

 四季、と、問い返した、と思ったけれど、眠くてできなかったかもしれない。次にマキが目を覚ましたのはもう夜で、6時間も眠り通していた、というか放ったらかされていたらしい。床で眠っていたぶん体があちこち傷んだが、逆に冴えた頭で、ああ、もうダメだと、なにがともなく思った。
 あの日出て行ったあの少女がいつか帰ってくるころ、自分は生きているのだろうか。

#17


 彼女は優しさでできていた。

「ひな、おはよう」

 隣で眠る小さな肩を揺さぶって起こす。時刻は午前8時。昨夜は遅くまで仕事で忙しかったから、すこしだけ寝過ごしてしまった。いつも太陽と共に起きる少女は、既に眩しい窓の外を見ながら、しっかりしなければと思う。

「ん…いおり、おはようございます」

 目を覚ました少女は、寝ぼけ眼を擦りながら、ふにゃりと笑う。彼女の名前は千ヶ崎ひな。黒とビビットグリーンのツートンの、ふわふわとした長い髪の隙間から、垂れておおきなひとみを覗かせている。ころころとよく変わる表情は愛らしく、よく回る口は澄んだ色を響かせる。
 千ヶ崎を起こした少女――神田いおりは、千ヶ崎を妹のように愛していた。たったひとつしか年の違わない、とても可愛い友人だけれど、神田にとっては間違いなく家族だった。

 狭い官舎には部屋が少ない。さらに同居人はもう一人いるため、神田と千ヶ崎は同じ部屋で眠るようになった。共有される空気は穏やかで甘い。くすぐったいくらいの幸福だった。
 揃ってベッドから起き上がる。神田の寝癖を千ヶ崎がさっと整えた。千ヶ崎は年下のくせ、神田をひどく可愛がった。過保護なのはお互い様だ。千ヶ崎が小さく笑うと、神田もつられて、いつもの無表情を綻ばす。朝はきまってこうだった。神田は髪を触られるのが特別好きで、あたたかい手で梳くようにされることを好んだ。

 リビングに出て、しかしがらんとしたそこを見ると、千ヶ崎は首を傾げる。

「椎葉さんは?」

 それはもうひとりの同居人、兼同僚の名前だった。そこに保護者を加えてもきっと問題ない。神田はおもむろに携帯を取り出して、慣れない手つきで操作する。つい最近までこういったものに触れたことがなかったために、その手つきはたどたどしい。

「残業で遅くなるって」
「また書類溜めてるんでしょう、あのひとはまったく」

 神田がぽつりと呟くと、千ヶ崎は瞳を細めて肩を落とした。椎葉は朝食を作ってくれるから便利なのに。仕方なく冷蔵庫を開いた神田を千ヶ崎が焦って止めた。

「わたしがやりますからいおりは座っててください、ね?」
「そう?でも、悪いよ」
「大丈夫です好きですから!」

 促されて神田は渋々リビングへ引き返した。それを見て千ヶ崎はほっと息をつく。彼女は不器用ではないが、少々その、荒々しすぎる。大胆で大雑把で、味覚も大概頼りにならない。要するに神田の手料理は美味しくない。けれど大好きな神田にそんなことを言えるわけもない千ヶ崎は、料理好きということで通ってしまったのだった。同居人の苦笑いが思い起こされる。

 そうして用意した食事の最中、ふと珍しく神田が口を開いた。

「ねぇ、ひなは一人旅してるって言ってたけど、家族は心配しないの」

 え、と、千ヶ崎が言葉に詰まる。目をぱちくりさせて、それからゆっくり手元を見遣って、箸を置いた。そのさまに神田は首を傾げる。
 神田は世間に疎かった。異能というもの、この世界のことをあまりにも知らない。頭では知っていても、感覚としては飲み込めていないのだ。彼女は閉鎖的な空間で育ったために、あまり外のしくみを知らないし、疎まれるその才能のため迫害された経験というものも、持ち合わせていない。
 神田も千ヶ崎も、異能を持っていた。それは幸せになれない約束のようだった。

「たぶん、心配なんてしないと思います」

 千ヶ崎にはそう答えるので精一杯だった。
 彼女は一人旅の途中、異能犯罪者に襲われたところを神田と椎葉に保護された。たった数ヶ月前のそれが出会いだ。それ以来千ヶ崎は神田に惚れ込んで、どうせ行くあてのない旅だったからと言いついてきてしまって、結局こうして同じ屋根のしたで暮らしている。神田はその理由に納得してしまった、それなら一緒にいようと言ってしまった。後先なんてなにも考えずに。椎葉が少しばかり頭を痛ませたことを、彼女は知らない。

「でも、私は心配する。もうやめてね」
「もちろんです!いおりのそばを離れることなんてないですよ!」

 ぱっと、千ヶ崎は伏せていた顔をあげて、にこにこと笑ってみせた。そうして瞳を閉じて、頬に安らかな笑みを浮かべたまま続ける。祈るように。

「だってわたしの命はいおりのものです。だからいおりを守るために生きるって決めてるんです」

 淑やかに、彼女は告げた。清らかな幸福に満ちたこの空間に、静かな言葉を落とす。
 神田は少しばかり目を丸くさせて、幾度か瞬いたあと、千ヶ崎でないと見落とすような微かな笑みを浮かべて、千ヶ崎の言葉に答えた。

「……私のお母さんはね、本当のお母さんじゃないの」

 千ヶ崎は静かに瞳を開き、すっと神田を見据える。驚いたり口を挟んだりはせず、ただ黙って聞き入った。少女の言葉をひとつだって聞き逃さないように。

「けれどね、私を育ててくれた、優しくて強くて、自慢のお母さんだった、…ひなも、私の自慢の妹なの。だけど似ていると、すこし、怖くなる」
「…似ている?」
「うん…うまく、言えないけど。お母さんはお母さんじゃないけど、お母さんだった。ひなも、妹じゃないけど、妹で、大切だから、似てるの」
「どうして、怖いんですか?」
「…お母さんは、死んでしまったから」

 千ヶ崎が瞳を丸くして息を呑む。それは、と、言い淀んで、俯いた。
 神田が愛情深いことは知っていた。だって自分をこんなにも大切に思ってくれる、他人なのだ。瞳はいつだって優しいし、拳ですら暖かく、触れる手のひらはいつも柔らかい。だったら彼女はどれだけ、心を痛めただろう。それを思うと、千ヶ崎は胸が締め付けられ、苦しくなった。あいしてくれた家族を失う、なんてことは、ひどく。きゅうと口を結ぶ。神田の瞳は変わらず、強く輝くばかりだった。

「だから、…無茶は、あまりしないでね」
「…はい。ありがとうございます」

 なんて優しいのだろう、なぜこんなにも暖かい愛情というものを、彼女は自分にも分け与えてくれるのだろう。自分はそれを受け取っていいだけの人間であるのだろうか。そんな疑問が微かに頭を過ぎる。けれど確かに、胸の内がゆっくり満たされていくのを感じていた。この人を守りたい、この温もりを失いたくないと強く思った。それはきっと、神田も同じなのだ。だったらきっと、失わないでいられるはずだ。世界とはそうであるべきだ。
 必ず彼女の心を守ろう。力不足な自分にも、守ろうと足掻くことくらいはできる。みっともなくても、格好悪くても、彼女のためなら厭わない。ずるくて臆病な自分にできることがどれだけ小さいことだろうと、もう、わがままは言わない。
 自分はおおきくなってしまった。どうであれ、なってしまったのだ。

「私の本当の気持ち、きっと、いおりだけが知っています」

 瞳を閉じる。さいごに映ったのは、きらきらと宝石のようにきらめく、やさしい甕覗の髪。それだけでよかった。

#18


 ナツキは変わらず穏やかな日々を過ごしている。

 変わったことと言えば、週に一度という高頻度で現れる双子と、赤間と吉川という少年以外に、来訪者がひとり増えたことくらいだった。来訪者、といっていいのかも分からないような訪れ方をするのだが。
 彼の名は麻木鳴海。あの日、路地裏で拾った青年だ。

 彼は頑なにナツキと顔を合わせようとしなかった。
 いつも必ず、ドアを隔てた向こう側にいて、ナツキがドアを開こうとするときつく止めた。開けてしまうともう彼がここに来なくなる気がして、ナツキも大人しくそれに従っていた。

 不思議な人だった。声はふらふらとして頼りなく掠れて、返事をするのに何秒も時間を要することがある。ひどく慎重に言葉を選んでいる様子だった。なにに戸惑っているのだろう。
 彼との会話で赤間の名が出てきたことがあって、どうやら従兄弟であるらしかったので、赤間が家を訪ねてきた時に「彼は言葉選びにひどく慎重ね」と言ったら、顔を真っ青にして「誰だそいつは、麻木さんはそんな人じゃない」と低く唸ったということがあった。それから麻木鳴海というひとの話になって、赤間の口から連ねられる麻木の特徴があまりにイメージと合致せず、終始首を傾げていた。曰く、横暴で完璧主義で結果主義の暴君だ、と、赤間は必死にそう訴えていたのだが、ナツキの中の麻木鳴海とは、淀んだ瞳でだれかを待っていて、優しくて不器用なひと、だった。あまりにも噛み合わない。
 それからというもの、単純な好奇心から彼のことがもっと知りたくて、ドアの向こう側にいる麻木を少しでも長く引き止めようと試みるようになった。他愛無い世間話にも彼はよく付き合ってくれ、穏やかな時間を共有した。物音から察するに、彼はドアに背を預け座り込んでいるようだった。ナツキはいつもドアに手を添えて、左肩でそれに凭れるようにして立って、彼の声を聞いている。
 綺麗な声だと思った。時折弱々しくも聞こえるその声は、けれど芯がひとつ通っていて、小さな波さえ立てずたおやかだった。滑らかで、低く投げやりに吐き捨てるような声さえ、どこか品がある。人の声に聞き入ったことなどなかった。きれいな音だったのだ。

「ねえ、あなた綺麗な声をしているのね」

 一度、思ったことをそのまま告げたことがあった。話題がちょうど尽きて、けれどまだ彼を引き止めていたかった日に。

「…、笑えねぇ冗談はよせ」

 けれど彼はそう唸ると、それきり黙り込んでしまって、その日はもう喋らなかった。
 もともとナツキの家を訪れるのは不定期ではあったけれど、その日以来なかなか現れることがなく、もう来ないのではないだろうかという不安に駆られたのを覚えている。
 どうしてか彼は、その音が嫌いなようだった。ナツキにはよく分からない。けれど再び彼が訪れた日、きっともうそのことに触れてはならないのだろうことは分かっていた。それを汲み取って黙っていることが正解なのだろうとも。けれどもナツキはどうしても伝えたいと思った。黙っていては、彼には一生伝わらないだろう。それはナツキのお節介でしかなかったけれど、知っていてほしいと思った。

「あなたは自分の声が嫌いなのね」

 案の定、返事はなかった。
 気配が揺れている。きっと彼は動揺していた。息を呑む音さえ聞こえない。なんて分厚いドアなのだろうと思った。本当は今すぐ開け放って、彼の心細さを埋めてしまいたいのに、そんなことも叶わない。
 けれどだからこそ言いたかったのだ。彼には言葉しか伝えられるものがないのだから、余すことなくすべてを伝えてしまいたかった。このままでは手から溢れて零れてしまう。そしてそれは彼に気付かれることもなく、なかったことになってしまうのだろう。ナツキはそれを寂しく思った。自分がではない、麻木がだ。

「でもね、私は好き。あなたが嫌いでいるぶんだけ、好きよ」

 返事は待っていなかった。けれどもし彼がいま言葉を選んでいるのなら、いつまででも待てると思った。
 彼の言葉はいつも綺麗だった。荒々しい口調に反して、ひとつひとつの言葉がとても丁寧だ。赤間はそんなはずはないと言って聞かなかったけれど、それでも事実だ。たどたどしい言葉たちは、ひとつもナツキを傷付けたことなどない。慣れないことをするように、何度も確かめてから口にして、何度でも途中で言い直して、そうして彼が戸惑いながらようやく紡ぐ言葉は、絶対に優しかった。だからナツキも静かに待った。彼の集中を乱さないように、ただその言葉たちを待っていた。その時間を不思議と気まずくは感じず、安らかですらあった。
 何秒、あるいは何分。間をあけて、けれど彼は声を鳴らした。

「……俺は声で、人を殺す、だからあんたに会えないんだ、俺が俺に、許すことができない」
「だったら私が、あなたの分も人を助けるわ」
「そういうことじゃない、」
「それであなたの罪がチャラにはならなくても、私があなたの声を好きでいる資格くらい、手に入れられると思うのだけど」
「……あんた、ほんと、変だ」

 おかしくなりそうだ。麻木はそう言ったきり黙って、けれどしばらく、そこから動かないでいた。

#19

 或る尊ぶべき日々の話。



「返して来なさい」

 それが彼女に一番初めにかけられた言葉だった。
 今でも鮮明に覚えている。兄の怒声より、父の言葉より、母の涙よりよほど鮮やかに。

 家が全焼して親戚に引き取られた先、やはり労働は強いられたものの異能ゆえ家畜のような待遇を受けていた椎葉は、阿呆らしいと早々に見切りをつけ、なんの書き置きなどもなしに、突発的にその家を出た。それから改めて、この座標移動の異能は便利だと、つくづくそう思ったのである。早い話、住処も食糧もなにもなくなった椎葉は、異能を使って窃盗を繰り返し食事を摂っていたのだ。主に狙ったのは、果物などの調理の必要がない手軽なもの。ちらりと店の前を通りすがる際に位置を確認して、離れた山の麓まで来た頃に、それを手元まで移動させる。そんなことを繰り返して生きていた。座標移動の異能には相応の演算能力が必要になるが、幸い数学だけは唯一好きでそればかりを次々学び吸収していた椎葉には、特に苦はなく使いこなせている。

 いつも通り異能で盗んだ梨を片手に山の麓に腰掛けた瞬間、突然脳天に響いた衝撃、次いで先述の声。がつん、視界が震えて脳がびりびりするほどのゲンコツを食らわしてくれたその女性こそ、椎葉が6年近くも世話になったという、聖職者の衣服を纏った恩人だった。

 口をつけていなかったそれを座標移動で返してみせると、女性は少し呆れたような顔をしてから多少強引に腕を引き、ああ突き出されるのかと他人事のように思っていたものの、彼女が進んでいくのは山の奥。なんなんだ、妖怪なのでしょうか、物理的に食われるのか、俺は。冗談半分にそんなことを思った。
 そうして辿り着いたのは、鬱蒼と木々が生い茂る山奥にひっそりと建つ、古めいた教会であった。見ればそれなりの広さのある畑まであって、そばには川が流れている。かなり上まで登ってきたから、きっとその水は澄んでいるのだろう。思っているうちに手を引かれるまま教会の中に連れ込まれ、ああこれなんか面倒なのに捕まってしまったかもしれないと、今更すぎるものの少しだけ後悔していた。

 その小さな教会は、中もやはり廃れていて、椅子などの備品も古く、立っているのがやっとな様子だったが、けれど埃や汚れなどはなかった。こんなところにある古ぼけた教会なのに使われているのだろうか。
 まあお座りなさい、穏やかな口調で促され、頼りないその長椅子に腰掛ける。少し軋んだものの、今にも崩れ落ちそうな風でもない。ゆっくり体重を預け、背凭れに寄りかかる。自分をここまで強引に連れてきた女性は、通路を挟んですぐ隣の椅子に腰をかけると、その赤いひとみが優しくも力強く、椎葉の目を射抜いた。

「私は厄介にも、不老なんて不便な異能をもってしまったらしいのです。発現したのは18の頃、死への恐怖を強く感じた時でした。町の者に顔を覚えられては気味悪がられてしまうので、こうして山に引きこもって、放置されていた教会を住処として借り、出来うる限り自給自足の生活をしているのですよ」

 聖職者と思わしき女性は淡々と、けれど穏やかにそう告げた。
 異能であったことに、特別驚きはしなかった。どうしてだか、もともと自分の周りには異能が多かったし、自分が異能であることを彼女は既に分かっているだろうから、その上で関わってくるということはつまり、そういうことだろうと。異能に怯えないのは同じ異能だけだ。ああいや、千秋さんはちょっと、かなりすごく、特殊だったけれど。

(不老、なんてきっと、寂しいだけの呪いだ)

 静かに話を続ける彼女の、毛先がゆるく編まれているなめらかなプラチナの髪をなにとはなにしに眺めながら、そんなことを思った。その薄い体が、あまりにも頼りなく見えて。

「でも娘がいるんです。畑仕事も手伝ってくれて、畑ではつくれないようなもの、例えば肉や米などを、わざわざここから町に下りて、野菜と引き換えに持ち帰ってきてくれたりもする、優しい子です」
「…娘、って」
「ああ、その子、いおりは捨て子だったのです。それを私がたまたま見つけて育てました、だからね、娘なんです。おかしいでしょう?けれど、楽しいものなのですね、家族がいるというのは」

この見た目では、母というより姉のようなのですけれど。

 彼女の話が尽きることはなかった。穏やかに、ゆるやかに、淡々と、ただただこの教会のこと、彼女を取り巻く環境のこと、彼女が幸せであること。それをただずっと椎葉に話して聞かせ続けた。終ぞ罪を直接言葉で咎められはしなかったけれど、椎葉だってそこまで鈍くはない。彼女が幸せとはなにかなんていう説法を始めたのだ、ということくらいは、分かっていた。彼女は、今までの孤独が、たったひとりの少女の存在で、全て拭われたようだと言う。けれどもそれは孤独ゆえの麻痺だと思った。有体に言えば自分は、彼女に同情にも近い感情を抱いたのだろう。
 哀れだと思った。深く青く尊いものを身に纏っても、家族ができたつもりになっても、彼女がこの世にひとりであることに変わりはない。取り残され続けるだけの存在から変われない。世界に拒絶される異能であるという事実も揺るがない。どこまでいったってきっと孤独だ。麻痺して、ほんの僅かな平穏を、世界がかがやく幸福であると、そう思い込んでしまうだけ。

 そうして成り行きで住まうことになった、というか当然のように「ここにいるでしょう」と言われてしまって、拒否する理由を思いつけず、そのまま居着くことになってしまった教会で、神田いおりと出会ったのだ。

 畑を耕し作った野菜は、形の良いものは町に売りに下りて、米や肉に変えて帰り、残りは料理の材料にした。水は川の澄んだものを汲んで使った。初めは神田との接し方がよく分からなかったが、相手が無口で無表情、加えてぶっきらぼうであることから、自然と気を使うことをやめたし、それは案外いい方向に転がったようだった。
 彼女が実母でないことを知っている神田は、彼女のことをシスターと呼ぼうとしていたけれど、やはり彼女と同じく相手を家族だと、母親のようだと感じているらしく、時々無意識に「お母さん」と呼んでは、恥ずかしそうに顔を伏せた。そう呼ばれた彼女は、そのたびにひどく、ひどく嬉しそうに笑う。自分は彼女を名前で呼ぶこともシスターと呼ぶことも、何となく違和感があって、結局いつも彼女のことはねえさんと呼んでいた。確かにこれでは家族みたいだな、なんて、ぼんやりそう思った。
 かろうじてだが、別に麻木のことを忘れていた訳ではない。3年だか2年だか、約束したその数字は正直うろ覚えだったが、とにかくそんな頃には帰るつもりでいたのは本当だ。だって遅れたらなんてどやされるか、どれだけどつき回されるか分かったものではないと、その頃は麻木の可愛げのなさを、まだ覚えていたのだから。そうしてそのまま2年の年月を、そこで過ごした。

 けれども、不老、とは、不死ではない。
 自分も神田も分かっていたことだった、けれどもどこかで、彼女が死ぬ、なんてことを考えるのを、意図的に避けていた節があった。準備なんかしていなかった。だってまさか不老であるという彼女が、今このタイミングで死ぬだなんて、誰が思うというのだろう。甘えていた。

 穏やかに笑む彼女、聖職者の衣服を纏う、プラチナの髪をもつそのひと、瀬東史織。

 彼女は神田の髪が大層好きだった。切りたいと言う神田の主張を1秒と待たず却下して、神田の髪のきらめくさまを眺めるのと、それからそれを梳く時間がひどく幸せであるのだと、目を細めながらしみじみと言うくらいには。それからついでに、と椎葉の伸びた髪を耳の高さで結うまでが、瀬東の朝の決まりごとだった。高い位置で括りあげられる髪の、櫛で引っ張られるあの感覚は、すこしだけ好きだった。
 すこし、だけ。好きだった。

 日曜の朝には、祈りの言葉なんかを揃って唱えた。教会を住まいとして借りているのですから、一応、なんですけど。声を潜めて、悪戯をする子供のように微笑みながら、瀬東はそんなことを言っていた。曰く250は生きたかもしれないと言うわりに、やはり不老だけあって筋力も衰えておらず畑仕事だってへっちゃらだったし、なにより彼女の拳は痛かった。神田ほどでないにしろ、わりと容赦がなかっただろうと思う。

「ねがわくは、」

 祈りの言葉を紡ぐ彼女の声は、いつも澄んでよく通った。ひどく心地良い。

「殺してはならない」

 そして夜には絵本の代わりに、聖書で神田を寝かしつけたという。アンタ別に信仰心とかないんじゃなかったっけ、なんていう目で彼女を見れば、家族が増えた幸福も主のおかげですから、なんて、遊んだ声で笑った。

「…そう、決して殺してはならないのですよ」

 だって私は、いおりがいなくなるのも、椎葉がいなくなるのも、耐えられませんから。人として絶対に犯してはならない罪です、それも、主にさえ許されるべきでないような、ひどいひどいこと。分かるでしょう。

 見透かされたような気がした。
 だからこそ、余計にその言葉だけがじっとりと胸に張り付いて、心臓を重くする。
 俺だって、鳴海が死んだら。そんなことは思い描けて、まあ、あの男が他人にそれを許すようなタマじゃないことは、誰より俺が知っていることではあるけれど。それでもあいつにとって死はそれほど遠い話じゃない。だから人を殺すという罪の重さを、ぼんやりとではあってもそれなりには認識できたし、許されるべきでないという思想には頷くことができたのに。
 それなのにやっぱり、瀬東が死ぬなんてことだけは、考えるのを無理に避け続けていた。そしてそれは恐らく、神田も同じだっただろう。

 初めて得た安寧の地だったのだ。穏やかに過ごせる家族というものを、そこに辿り着いてようやく手に入れたというのに、思考をやめて、逃げた。それだけが、どうしようもなく悔いだった。



 瀬東が倒れたのは、本当に突然だった。
 畑に水を撒いていたとき、どさりと土の上に倒れた。川に水を汲みにいっていた神田も駆けてきて、2人で抱えながら声をかければ、細々しくとも「目眩がしただけですよ」と返事があったから、少しだけ安心した。

 決して裕福な暮らしではなかったが、自給自足の生活ゆえ、食べ物に困っているわけでもなかった。それでも畑に実らない肉や米なんかはいつでも沢山食べられる、という状況でもなくて、瀬東は子供が優先だとそれらを自分や神田に譲ってばかりいたために、きっと貧血を起こしたのだろうと思った。その日から、食糧は必ずきっちり三等分、なんて決まりをつくったものだった。
 けれど半年経てば瀬東が食事を残すことが増え、ふらつくことも多くなっていった。神田と話し合って、粥を作って食べさせたり、畑仕事は2人ですませて彼女を休ませたりもしたが、数ヶ月後には粥さえ戻す日が、ぽつぽつとでも出てくるようになった。彼女は当然、日に日に細くなった。医者を呼ぼうとも言ったが、彼女は首を横に振るばかりで、更にはその金は自分たちの食事分に回せなどと言う。思わず握った拳はなんとか抑えた。

 その数日後、やはり頑なに医者を拒む瀬東とこんな会話をしたのは、神田が畑で野菜を収穫していて、そこにいなかった時だ。

「医者が嫌なら薬買ってくる。突っ込んででも飲ませるからな」
「…椎葉、」
「なに」
「私が寂しいこと、あなた、知っているのでしょう」

 見透かされたような気がした。

 あの日、あの時、家が焼けたのは、本当は事故なんかじゃなかった。
 喚く兄と、怒鳴る父と、ただ隅で泣くばかりの母。いつもの光景を目の端に追いやって、自分の部屋で眠っていた。そうしたら母の悲鳴で目が覚めて、閉めていた戸を開ければ灯油を撒いてライターに手をかける父。心中だった。
 瞬間、あっという間もなく燃え広がる火と、その中心にいる家族を見て、ああきっと、助からないほうが良いと思った。だって跳ねた油が手にかかっただけであんなに痛いのだ。下手に助かってしまう方が辛いだろう。だからあの日、自分だけで外へ出た。かわいそうとも思わなかった。家庭はとっくに崩壊していたのに、各々の勝手な都合のおかげで離れることさえままならなかった人たちだ。あの先があったとして、それは幸福なことではなかっただろう。だからあれは正しかったはずだ。
 見捨てたんじゃない、嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない。ただもがき苦しむ10秒と血を吐くように痛む1年を比較して、嫌いだったんじゃないからこそ、憎らしかったことなんかないからこそ、炎の中から助けられなかっただけだ。それが正しいと思ったからこそだ。

 今回も、きっとそう思ったのだ。一瞬、心のどこかで、不老なんて寂しいだけの呪いなら、このまま死んでしまえばもう、悲しいこともないのだろうかと。彼女を助けようと懸命に世話を焼くその一方で、それが本人の幸福に繋がるかも分からないまま、他人が無理矢理命を繋ぎ止めるということに、違和感を覚えている自分がいる。家族にさえ簡単に見切りをつけられる自分であればともかく、不老である瀬東はあんなにも優しくて、人が好きだから。それなのに、取り残されるばかりの呪いをかけられてしまっているから。だから余計にそう思うのだろう。

「それは、…何となく、だけど」
「ふふ、…200以上、生きて、やっと巡ってきた機会です」
「…寂しかったか」
「とても」
「悲しかったか」
「ええ、ひどく」
「…そうか」

 やっとそんな呪いから、解放される時が来た。本人だってそう思っている。そして自分も、そう思った。

 彼女がこのまま生き永らえて、もし遠い未来に1人で息を引き取るのだとしたら、それはもっと残酷だ。今、彼女を諦めて、看取ることを決めるより、よほど。不老である彼女の未来を、自分は保証できない。1人にしないだなんて、言ってやれないのだ。
 彼女はもう、1人になりたくはなかったのだ。

 勘がいいからなにか察したのか、それとも瀬東となにか話したのか。分からないけれど、誰より瀬東を医者に見せたがっていた神田が、次第に医者も薬も求めなくなった。その代わりに、泣くことが増えた。瀬東がいない食卓で、瀬東がいない畑で、川で、町とを行き来する山道で、神田はなんの前触れもなく、突然ぽろぽろと涙を落とす。それを拭ってやるのは、自分の役目じゃないと思った。だから代わりに、頭を数回叩いてやるばかりだった。自分を受け入れてくれなかった母を失うことさえあんなに辛くて苦しいのだというのなら、愛した家族をなくす神田の気持ちなんて、自分には想像もつかない。言葉をかけてやれない、かけるべきは自分ではないと分かっていた。

 医者も薬もなかったけれど、それでも瀬東は意外と強くて、調子が良い日は体を起こして本を読んだりしていたし、それが日曜に重なれば、朝にはまた一緒に祈りの言葉を唱えた。けれど瀬東が寝たきりの日曜日、祈りの言葉を唱えることはなかった。こんな不平等な世の中だ。神なんてものも、訪れる救いも、幸せなあの世も。そのなにもかもがないことを、自分も神田も知っていた。瀬東だって、きっとそうだ。
 そうして半年たち、1年経ち、2年経ち。瀬東は日に日に衰弱していったけれど、それでも長く生きた。それすら異能のせいなのだろうか。死を恐怖したゆえの不老だというのなら、その異能が死から瀬東を守っているのかもしれない。だとするなら、やはりそれは、呪いに他ならないだろう。



「椎葉、…椎葉、そこに、いるのですか」

 それは、半分の月が綺麗な、春の夜のことだった。俺はもうとっくに19になった。
 彼女はもう視力も聴力も衰えて、手にはなにかを掴む力も残っていなくて、咳ばかり増えた。食事なんてもう、摂れる日の方が珍しいくらいで、水で生きているといったって過言じゃあなかった。
 探るように少しだけ動くその右手を掴んだ。さらりと肩から揺れ降りたのは、もう彼女に結ってはもらえなくなった、湯上りで下ろした髪。自分で括りあげてみると案外難しく、不恰好だと神田には笑われた。けれど毎朝結い上げた。長い髪は邪魔で面倒で重い。それなのになんとなく、切る気になれずにいた。
 ああ、ここにいるよ。そう言うと瀬東は嬉しそうに少しだけ笑ったけれど、本当はすこしなんかじゃなくて、昔のようにめいっぱい笑ったつもりなのだろう。もうどの筋肉も衰えて、力なんか入っていない。

「よかった…いおりは」
「今日は俺が見とくからっつって、寝さした」
「あの子は、頑張り屋さんですから、あなたが頃合いをみて、ちゃんと、休ませてあげて、ください」
「…アンタも寝たら」
「怒っているのですか」
「そう、だからもう寝て」
「だめですよ、今日は、まだ」

 ずっとこんな調子だった。毎晩毎晩遺言のようなものを、否、それに他ならない言葉を聞かされるばかり。あんたがいればいいだろう、そんなことを思う日もあった。彼女の意思を尊重すると決めたくせに、随分揺らぎやすい覚悟だ。それでも、死ぬことを穏やかに受け入れることを決めたひとを、ただずっと見つめ続けるだけの日々は、ひどく、苦しかった。

 瀬東を看取ると決めたら、今度は、寂しいのはこっちの番だった。

「わたし、…私は、神さまなんてね、大嫌いだったん、です」
「うん」
「だから、日曜日のあさ、必ず言ってやるんです、いるんなら私を、救ってみせたらどうですか、なんて」
「…うん」

 あれは正しかったはずだ。見捨てたんじゃない、嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない。ただもがき苦しむ10秒と血を吐くように痛む1年を比較して、嫌いだったんじゃないからこそ、憎らしかったことなんかないからこそ、炎の中から助けられなかっただけだ。

「だからね、こんな罰当たりな、…ことをして、こんな格好をしていれば、寿命が縮んだり、とか、ばかですね、寿命なんて、ないんです、わたし」
「……知ってるよ」
「…きっとね、会いに、こられないと思います、あの世なんて、天国も地獄もないと、おもいますから、願望まじりでもありますけれど、わたし、消えてなくなるのでしょうね」
「そう、…ああ、俺も、そう思う」

 嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない、

「……椎葉、髪、のびましたね、それから、いおりも」

 けれど、そうだ。好きだったことなんかなかった。

「あいつの髪、手入れする奴がいねーから、ひでえんだよ、傷んでさ」

 死こそが救済であると、あの時本当にそう思った。今だって思っている、瀬東はもうひとりになってはいけない人だと。生きることが必ずしも幸せに繋がるわけではないと。

「ふふ、ほんとう、あの子はそういうところ、無頓着で、こまりますね」
「俺だって、…俺だってこんなの、邪魔くせえし、嫌いだ」

 同じはずだ、あの日と、同じはずだ。それなのに、こんなにしきりに胸が痛んで仕方ないことを、どうして、なんてもう、言えなかった。今更、知りすぎた。この場所があまりにも心地がよすぎたことを。このひとのことを。
 自分のことを。

「いおりとおんなじこと、言うのですね、本当の、ふふ…兄妹、みたい、邪魔ならわたしが、結って、あげましょう」

 こちらへ。
 言われるまま、頭を低く、低く下げた。彼女の鎖骨のあたりに額をつけて、震えながら髪をいじる手の感触を、ただただ、いつでも思い出せるようにと、黙って感じ入る。髪を結ばれる感覚が、少しだけ好きだった。
 本当に、少しだけ。好きだった。

 耐えられなくて目を閉じる。いつもよりずっと、ずっと時間をかけてようやく結ばれた髪は、いつもよりずっと低い位置で、いつもよりずっとゆるくて、だから、いつまでも顔をあげられなかった。いま目を開いたら自分がどうなるかが、よく、よく分かっていた。こんな時に、泣いた顔を見せるのは嫌だった。
 髪を結うだけで力を使い切った瀬東は、そのまま俺の頭に手を置く。その手は動かなかったけれど、撫でられているのだと分かった。分かった瞬間、やっぱり顔が見たくなって、頭を上げる。忘れてしまわないように。脱力した瀬東の手は、重力に従って、椎葉の首に添いながら落ちてゆく。それを左手で掴んで、強く握ると壊れてしまいそうなくらいの細さに息を飲んで、緩めた。
 もうこの手ではきっと、あんなに痛いげんこつは、飛んでこないのだろう。

「…なぁ」
「…あなたは、そればかり、ですね、なあとか、あんた、とか」
「……ねえさん、」
「ふふ、なんでしょう」

 こんなに細い声ではきっと、あんなに穏やかで柔らかい祈りは、もう、聞けないのだろう。

「…ちゃんとやるよ、後は俺が、全部。神田のことも」

 本当に言いたかった言葉は、結局、最後まで出てこないまま。

「ああ…安心、しました」

 よかった。
 弱く握ったその手は、するりと抜け落ちて、もう。



「椎葉、おはよう…ねぇ、お母さんは」

 襟首で括られた髪は穏やかになびく。
 教会の隣、畑も町も見渡せる、朝日の見える場所。そこに、

「俺は俺が育った所に帰る。待ってる奴もいる、これからのこともある。お前も来るだろ」

 瀬東史織を埋葬した。この手で。