#30


 何度確認しようとやはり、彼は死んでいた。

 麻木は椎葉の死体を持ち帰り、マンションのベッドへ横たえた。血を止めて、何度手を握っても、それが握り返されることはない。それでもその手を握り続けた。
 今日は仕事がある。専門家を失ったためこの情報に信憑性はあまりないが、それでも今日千秋のもとに暗殺者が送り込まれるかもしれないのだ。彼への恩は返さなければならない。まだ動かなければ、動かなければ、千秋にとって必要な、完璧な自分でいなければならない、

 椎葉の手を握る。相変わらずその手は冷たかった。彼はいつも体温が低くて、だから、本当に死んでいるのか分からないくらい、いつも通りの手だった。いつもと違うのは握り返してこないことだけ。やっぱりもう一度脈をはかる。そこには静寂しかない。分かりきっていることなのに、その静寂に包まれるたび絶望した。
 椎葉カオルが死んだ。違う。椎葉カオルを殺した。俺が。麻木鳴海が。

 これが罰か。麻木は納得した。死ぬことよりずっと重い罰だ。俺がひとを殺したことによって椎葉の恩人の宝の人生は狂わされ、だから同じく、俺の人生も狂わなければならなかった。その狂わされた人生を生き抜いたら許してやると、椎葉は言った。けれど許してもらえなくていいと思った。だってその先に椎葉はいない。いないんだ。俺が殺した。もうなにもかもを成し遂げる気力がなかった。俺はもう以前のような、理性で自分を制御して求められた完璧をこなすというような生き方に、まるで興味を失っていた。結果を出すことだけが全てだった。結果だけが。俺じゃない。大事なのは結果があることだった。俺が結果を出したこと、ではない。そんなのは俺じゃなくてもいいことだ。それを今まで、生きる手段として、どう生きればいいか分からない俺が選んだ、一番ひとに必要としてもらえる方法だったから、ずっとこなしてきただけだ。けれどそれができていたのは、なにかに成った俺ではなく、麻木鳴海ただそのものがそこにいることを許した、椎葉の存在があったからだ。彼と言う支柱なくして、「麻木鳴海」は成り立たないのだ。

 ぼうっと窓の外を眺め、夕方になり、夜になった、行かなければならない、あのひとに助けられた俺は、あのひとのために、あのひとの命を守るために完璧を纏って、この部屋か出て行かなければ、そうしなければ、もうこの世のどこにも居場所がなくなってしまう、それなのに、手が、離れない、椎葉の冷えた手を掴んだこの右腕が、動かないんだ、こんな俺は完璧じゃない、これではだめだ、これでは、

 ふと混濁して沈んでいた意識が浮上したころ、時計は夜中の3時を指していた。
 なんの音もしない。麻木鳴海ただひとりしかここにはいない。椎葉の気配すらない。だって死んでいるのだから。ああ、ばかみたいな人生だった。俺は知っていた。だから力なく笑った。なあこれは、生き抜いたといえるのか?きっと彼は俺を許さない。けれどそんな未来すら存在しない。なにもない。なにもなくなるんだ。なんの音もしない。麻木鳴海ただひとりしかここにはいない。

 ああ、おかえり、くらい、言ってやれればよかったのに。ただいまを、彼に言わせてやれなかった。ずっと最善を選んできたつもりが、いちばんたいせつなひととの記憶に、後悔が生まれるなんて。

 麻木の首をナイフが静かに貫いた。麻木の手は椎葉の手を握ったままだ。麻木は笑った。知っていた、暗殺者というものはそういうものだ。その男はその点、本当に完璧だった。気配も足音もひとつもなく、麻木を殺してしまえた。そんなことができるのは、世界でただ、赤間千夏ひとりだけ。

「あんたが…落ちぶれたら、俺は」

 そのさきは聞こえなかった。意識が途切れてしまった。

 いつでも赤間を殺せるという恐怖、それを以ってして、赤間の異能への拒絶反応を抑制していた。体術では麻木に敵わない。だから赤間は、異能を手放せない。拒み切ることができない。そうやって赤間は守られていた、麻木によって、完璧に。

 赤間の両手は冷えて、冷えて、もう痛みすらなかった。食い潰されるのも、近い。

#31


 その男が落ちぶれるさまを見ていられなかった。

 これは自分のわがままだ。彼が、麻木鳴海が「完璧」を失うさまを見たくなかった。知りたくなかった。

 連絡がつかなかったその日、俺は彼のマンションへ足を運んだ。父に言われてのことだった。ほんとうは彼の部屋へ行くのはひどく躊躇われたのだが、どうしてもと食い下がられると断れなかった。父が麻木を大切に扱うことがひどく苦手で、長いことそれに向きあっていたくなかった。別に、自分より麻木のほうが、なんて考えがあるわけじゃないし、仮にそんなことがあるならそれは喜ばしくさえある。父の興味関心の要は「異能」だ。そんなやつが俺より彼を愛しく思うならきっと自分は呪縛から逃れることができただろうけれど、現実はそんなことはなく、いつも父の最優先は俺だった。
 そうして遣わされたさき、麻木は椎葉の死体を横たえ俯いていた。よくは見えなかったけれどあの椎葉はたぶん、死んでいた、そのそばを身じろぎすらせず離れない麻木の、目が、開いていることに気付いたとき、心臓が止まったような感覚がした。ひどく、恐ろしく見えた。ひとらしさ、というものが、いのちの気配がまったく絶えてしまった空間だった。群青の瞳はブレることなく、椎葉のどこかを一点に見つめていて、けれど時折ぱちりとまばたくのが、彼が壊れてしまったことを証明するようだった。生きながら、思考がありながら、それらを潰してただ息をしていた。
 その日は見ていられずに黙って部屋を出た。麻木が自分に気付いていたのか、それすら分からない。ただ麻木の、揺れることのない、金の光が散る群青の瞳が、いつものとおり曇って、いつものとおりまばたきながら、息のない椎葉を眺めていたことだけが、脳裏にいやに貼りついて離れなかった。父の千秋には、今は触れないほうがよさそうだと告げ、翌日の仕事もルイに任せることにした。

 けれど彼には仕事のスケジュールが変更になったことを連絡できていない。麻木なら来るかもしれない、と、思っていた。だって彼は完璧だ。完璧を纏って生きているひとだ。恩人である千秋を護衛する仕事を投げ打つはずがないと信じていた。そう思いながらいやに冷える両手をポケットに押しやった。ぎりぎりと痛いほど冷えていた。心配そうに吉川が顔を覗きこんできて、それになんとか笑って応えて、ぽんとひとつその小さな頭を撫でてやる。すると吉川は嬉しそうに目を細めて照れくさそうに笑うから、ふっと緊張が解れた気がした。
 俺は吉川を「愛している」。この世でもっとも大切で、尊いものだと「思っている」。彼を守るためなら「異能に頼ることさえ厭わない」。そこにはなんの他意もない。ほんとうに彼が大事なだけだ。愛しいという感情が腹の底からこみ上げるようだ。それを感じるたび、父に、自分は人として幸せになってやる、と、そう言ってやりたい衝動に襲われる。異能としての才能しか見えていない父が、まるで兵器にするような愛し方で育てた、そういう俺が、人としての価値を掴み取って、愛した人を守るために生きる。清々しかった。良い気味だと思えた。父の期待を裏切ること、それはきっと俺が人間らしくあることだ。それは俺の人生において最も焦がれた望みでもある。だからそれを叶えてくれる吉川が好きだった。大事だった。彼だけはなにがあっても傷つけられない。

 その夜、彼は現れなかった。麻木鳴海は。
 失望、したのだと思う、自分は。けれどそうと理解できないほど大きなショックに脳が麻痺した。ぞわりと冷気が足元から這い上がってきて、内臓が凍てつくように冷えて痛んだ。だって麻木は、彼は、いつだって絶対的で、いつだってそこにいて、俺を脅かしていた。余裕を湛えた笑みで、高みから見下ろして、俺を、制御して、くれていたはずの彼が、その「完璧」が、剥がれて落ちて、同時に麻木鳴海という存在の絶対的な地位が地に落ちた。彼は捨てた、何もかもを放って、ただ、息をするだけの生き物に成り下がった。愕然とした。
 俺は麻木鳴海を慕っていたのだとそのときはっきり分かった。指導者として、支配者として、それから唯一の恐怖として。尊敬していた、頼っていた。彼に道を示されていた。ようやく気付いた。

 冷える脳に、思考は正常を失ってガタついた。とにかく全身が寒くて、冷たくて仕方なかった。彼がいなくなって、いま、組織はどうなっていて、誰が一番力を持っているのか。人を束ねることに長けた人材なんていやしない。きっとこれから組織はみるみる瓦解していく。そして俺の、手綱を握ってくれるひとも消えて、俺が、瓦解していく、きっと、解けて、崩れて、かたちを失くす。手が冷たい。冷たい、冷たい手で、俺は、ナイフを取った。

 彼を消してしまおう。最後くらいはこの手で。これ以上彼が、俺のなかの「麻木鳴海」が、落ちぶれることのないように。絶対的で唯一だった彼を汚されないように。

 それは驚くほど簡単だった。麻木は俺に、気付きすらしなかった、きっと昔の彼なら気付いて、なんてこともないようにひらりとかわして、何の用だ、なんてぶっきらぼうに、振り返りすらせずに。そうだ、それが「麻木鳴海」だ、目の前のこれは彼とは違う生き物だ。俺はそう処理することにした。

 帰り道、足がゆらついて仕方なかった。真っ直ぐに歩けているのかすら分からない。地面がぐにゃり、ぐにゃりとして、しゃんと立てない。視界はガクついて、ブレきっていて、なにも鮮明に映らない。吐き気と、寒気がとにかく酷かった。なにもかもをなかったことにしてしまいたかった。
 せっかく父が育てた、完璧な麻木鳴海、が、消えてしまったら、その次は俺じゃないか。片手間に構われる程度ですんだのは麻木がいたからだ。組織があったからだ。それらがなくなってしまったら、父の興味を最も強くさらうのは俺だ、赤間千夏という兵器の卵だ、異能という才能そのものだけだ。道を示す彼は死んだ。あとは父に手を引かれるだけじゃないか。なんで。どうして。

 震える手でなんとか家にもつれ込む。視界はゆらゆらとして、触覚もぐにゃぐにゃして、脳は凍てついて、自分がなにをどうしているのかよく分からない。とりあえず靴を脱ぐのにかなり手間取って、崩れ落ちてがたがたしていると足音がひとつ、ぱたぱたと忙しなく近付いてきた。

「赤間!…赤間?」

 なんとか拾い上げたそれは、いとしい、いとしい人の声だった。いとしい人、そう、俺を呪いから解き放つ鍵を唯一もつひと、…ひと。のろりと顔をあげると、その顔はいつものように笑ってはいなくて、ただ黙って、俺を見下ろしていた。なんで。どうして。

「…わらって、くれ、よ」

 わらってくれ。
 ようやく放り捨てた靴、抜けた足を床について立ち上がる、けれどやはり世界はぐらついて定まらない。ふらつく足で、とにかく冷えた身体を温めたくて、布団のある寝室へ向かった。一歩、二歩、必死に前へ進もうとして、肩が壁を擦る。彼は肩を貸してもくれないし、応えてもくれない。

「…あかま、ごめんね、」

 ずっ、と、衝撃が胸を突いた。こみ上げてきたものを抵抗できず吐き出すと、それは赤かった、そうか、血だ。壁を伝って崩れ落ちる。冷たいはずのフローリングはいまの俺には暖かく、歪んだ世界はぐわんと曲がって柔らかく俺を受け止めた。衝撃さえない。

「ごめんね、ずっと、大好きだよ」

 振り返る、と、俺の胸に包丁を突き立てた彼が泣いている。ぽたぽた、世界で一番きれいな涙を落として泣いている。拭ってやりたいのに、手が伸びなかった。

「…あり、がとう、」

 最後に動いてくれたのは喉だった。そうだ、俺を解き放つ鍵を唯一持っていた彼は、正しく、俺を解放してくれた。ようやく許された、すべてから脱却することができたのだ。胸は喜びに満ちていた。視界はうまく定まらないけれど、最後の最後まで、「彼」の姿を見ることができて、俺は、俺にしてはいい人生だったと、思えた。

#32


 青く澄んだ朝。神田いおりは千ヶ崎ひなの遺体を見つけた。

 それは幼い少女には酷く重い受けとめがたい事実だった。首と胴体が離れた無残な姿、あたりに飛び散る赤黒い血。開いたままのビビットグリーンのひとみをそっと閉じさせると、死体を掻き集め抱きかかえる。書に持ち帰って署長に事情を説明し、数日後には彼女は灰になった。

 ぽつりとも泣けなかった。

 絶望に対しあまりにも無力すぎて、ただ呆然とすることしかできなかった。心が、体が急激に重くなり、なにも手につかない。彼女の開かれたままだったひとみを今でも鮮明に思い出す。そしてもうそのひとみを見ることが叶わないことも。どうして、いつ、なぜ彼女が。
 自分はなぜ彼女を助けてあげられなかったのか。そんなのは決まっている。無力だからだ。母――瀬東のときもそうだった。自分が無力だったあまりなにもしてやれなかった。椎葉が諦めた日を境に、自分も彼女に迫り来る死に抵抗できなくなった。自分ひとりでは彼女のいのちを背負えないと強く感じたのだ。それに彼女はそれでもあのころ毎日笑っていた。私だって笑っていた。見えないところでこっそり流した涙は、彼女には秘密だ。

 千ヶ崎を火葬してから2日経った。もう立ち尽くしてもいられない。自分がなにをすべきなのか整理しなくては。心が痛んでも体は動く。こんな思いをするひとをなくすため、自分は働かなければならないのだ。誰の死に顔ももう、見たくはないのだ。

 瀬東から譲り受けた形見の指輪を箱から取り出し、握りこんで抱きしめるように身に寄せる。ねえ、お母さん、あなたならどうしたの。椎葉に聞けば分かるだろうか。でも彼も帰ってこない。帰ってこないんだ。
 ぽたり、一粒涙が流れた。ああようやく、感情が追いついた。悲しい、悲しいよ、こんなときってどうすればいい。瀬東を亡くしたときは気持ちを整理する時間があって、悲しかったけれど、自分がどう生きればいいかを悩まずにすんだ。椎葉もそばにいてくれた。けれどもう、本当のひとりだ。自分で考えなければならない、全てを。もう余裕がないなんて言って、だれかにすべてを任せっきりにしていい状況じゃない。自分は悲しんでいればいいだけの時期は過ぎた。考えなければ。考えなければ。これからのすべてを。生き方を、その道を。
 けれど思考は悲しいと渦巻くばかりで鮮明にならない。視界だってふやけたまま。思えば官舎にひとりでいるのは初めてだ。いつだって千ヶ崎か椎葉かどちらかが自分のそばにいてくれた。ああほんとうに、ひとりだ。

 あの日も、あの日だって、彼女はいつも自分のそばにいた。千ヶ崎ひなという少女は、優しくて、柔らかく笑って、自分にたくさんの愛情をくれた。自分も彼女をたくさん愛した。妹のように無邪気だった彼女のことを、家族として、どこまでも深く好きだった。大事に、していたのになぁ。寂しさが溢れるばかり。

「…どうにも、ならないね」

 わたしひとりでは。
 ひとりではこの悲しみを、どうにもできない。ならばもう、どうもしないことにしよう。ずっとこの悲しみを引き摺って歩く、そう、歩くのだ。今までと同じように、ただ誰かを守れるように強くなるために、前へ進むしか自分には選択肢がない。本当は、ないわけではないのだろうけれど。逃げることだってきっとできる。でもあなたはきっとそうしない。そうでしょう?指輪をいっそう強く握った。

 家族を何度亡くしても。ほんとうのひとりきりになってしまっても。自分は歩みをとめてはいけない。瀬東のぶんも、千ヶ崎のぶんも、たくさん歩いていかなければならない。そうじゃないと顔向けできない、情けない姿なんて見せたくない。彼女たちが愛してくれた私は、彼女たちを愛する私は、たくさん色んなものを見て、知って、愛したひとたちに胸を張っていられるよう生きていたいのだ。

 いつまでもまどろみのなかにはいられない。明日からはちゃんと、自分の信じた前を向いて歩いていく。でも、だからどうか、今日までは、呆然と立ち止まることを、許してほしい。ぱたぱたと涙が止まらない、前が、見えない。だからどうか、歩けなくても、きっと許してほしい。
 明日には、彼女が愛してくれたわたしに戻ろう。けれど今、この瞬間だけは。押し寄せる悲しみは涙になって流れていく。
 愛していたことは、伝わっていただろうか。こんなにもあなたが好きだったと、あなたは知っているだろうか。ひな、わたしはあなたを愛していたよ。無邪気で、自分に素直で、表情をころころと遊ばせて、眩しいくらいめいっぱい笑って、ふてくされて拗ねるあなたを、そんなあなたをわたしはずっと大好きでいたよ。きっと知っていてほしい。

#33


「…あずさが死んだよ」

 それは鏡見から唐突に告げられた。なんでもない日の朝に。ぽつりと、何でもないことであるかのように。

 それは薄らとは分かっていた。爆音で煙を巻き上げ鏡見を回収したあの日、スラムの冷たいコンクリートに伏していたのは、確かに少女だった。鏡見とあんな路地裏で会話をする少女、なんて、千ヶ崎あずさ以外にはいないだろう。よく見えなかったから死因は分からないが、血があちこちへ大量に跳ねていたのはちらと見えたので覚えている。
 それをまるで何でもないことのように、無表情で鏡見は呟いた。声を落とすこともなく、ただ静かに。それは却って鏡見のこころの揺れを浮き彫りにした。ひとが死ぬところを見るのが大好きな鏡見が、喜ばなかった。千ヶ崎のことだけは仲間と認め、慣れていないのにぎこちなく「いってらっしゃい」なんて挨拶をするほどには、千ヶ崎は鏡見のこころの近くにいたのだ。鏡見は恐らく動揺しているのだろう。人の死に様を見て喜べない自分に。切って捨てられない自分に。人の「死」に初めて、心臓を掴まれた。それが鏡見のなかで整理できていないのだ、おそらくは。

「…キミ、知ってる?あずさの本名」
「ああ、…千ヶ崎ひなだ。あずさは兄の名だな」
「ふぅん」

 そう、千ヶ崎は偽名を使っていた。けれどまるで「あずさ」こそが本当の姿であるかのように振る舞っていた、その遠い日を思い出す。異専の制服に身を包んでくるりと回ったそのときも、「ひなという名を使って潜入してきます」と、淀みなく言った。彼女にとってどちらが本当の顔であるのか、そして本当の名前であるのかは、もう分からない。

 不謹慎にも、千ヶ崎に感謝している自分がいた。唯一仲間と認められた千ヶ崎が死んだことで、鏡見の心は揺れている。今まで他の干渉を一切許さず、自分の立てる波ですべて飲み込み攫うことを好んでいた鏡見の心はいま、他者が生み出した揺らぎや歪みを静かに受け止めている。 そう、鏡見は誰かを大切にしたことも、誰かに大切にされたこともないまま生きてきた。けれど大切にしようとしていた人物がいたことは、千ヶ崎あずさがいたことは事実だ。そうしてそれを失って、鏡見はただ、呆然としている。その感情の名前に戸惑っている。やっと人らしさというものをひとつ取り戻したのだ。俺にとっては喜ばしいことだった。そうしてこのまま誰かに、否、もう誰か、なんて現れもしない他人に期待をするのはやめだ。俺に。そう、鏡見の大嫌いな俺にでも、大切にされ続けたらきっと、鏡見は「ふつうの人間」になれる。倫理観を手にすることができる。そうでしかもう、彼は救えないのだ。愛された経験が、あまりに乏しすぎるのだ、きっと。
 だから俺はもう迷わない。鏡見を、愛して、あなたの存在が大切なのだと根気強く教え込んでいく。俺のことを愛さなくていい、愛さなくていいから、ほかのだれかを愛せるひとに、なってほしいのだ。



(そうか、あずさの本名は、ひなだったのか)

 あのとき口をついて出た、その「あずさ」という名前が嘘だというのは、分かっていた。目の動きとか頼りない声とか、そういったものたちから何となく、ではあったけれど。でも、そうか、あずさとは、兄の名前であったのか。彼女は警察組織に恨みがあると言っていた。警官に兄を殺されたのだと、だから警察組織に復讐がしたいのだと。ならばその意思を継いでやるべきか、否か。自分はただ派手に暴れたいだけで、思想なんてものはないから、暴れられるんならどこでだって一緒だ。せめて仇くらいとってやろうかと思って、けれどやっぱり、やめた。ばかばかしい。どうしてオレはこんなにも死者に執着しているというのか。帰ってこないのだ。もう、二度と帰ってはこないのだ。

 上神はきっと喜んでいるんだろう。オレの脳裏に焼き付いて離れない、千ヶ崎の首が飛んだあの瞬間の、オレの動揺を。かなしみというものに触れ、少しは人間らしくなったのではと期待しているに違いない。けれどオレに言わせてみれば上神の反応があまりにも気味が悪いのだ。千ヶ崎が死んだと確定しても微動だにしない頬、目線。どころか奥底で喜んでいる、まるでオレのように。朱に交われば赤くなるとはこういうことか。
 上神だって感情なんかひとつも持っていないように振る舞っているくせに、オレだけを特別扱いしているのはなぜなのか。それはきっと、上神にとっての感情とは「封印したもの」であって、「取り戻せないもの」ではないからなのだろう。いつでも人間に戻れると思い込んでいる。 けれどそれは間違いだ。千ヶ崎の死体を見ても動じず、オレだけを確実に生かそうと動いたこと。彼女の死を告げられても揺れもしない睫毛と声。彼はとっくに感情を手放してしまっている。それに気付いていないだけだ。手の届くところに置いてあるつもりになっているだけだ。きっともう二度とそれらを取り戻すことは叶わないだろう。ああ本当にばかなおとこだと、目を伏せる。

 瞼の裏でまたあずさの首が飛ぶ。血が跳ねる。ああ、なぜだかオレは、もう御免だと思っているんだ。もう楽しく人を殺せないかもしれない。それでもオレは今まで通り生きるしかない。そうしなければ、――上神がきっと壊れる。例えばオレに倫理観なんてものが芽生えて、優しさもついてきたとしよう。それで上神以外の人間を愛したらどうなるか。上神はもう生きる理由を全て失って虚空となる。生きていられなくなるだろう。そうして生きていたいという感情すら手放してしまうのだ。

 ああ、なんで、オレが上神の面倒なんか見なきゃならないんだ。そうだよ、そんなの本当は分かってる。千ヶ崎を仲間と認めたように。オレを哀れむ上神に腹が立ったように。オレの感情ひとつひとつに喜んでみせる上神が、どうしようもなく目障りで、どうしようもなく、そう、どうしようもなく。その松葉色のひとみに悲しみが浮かぶさまを、見たくないと思っているんだ。だからオレは動揺している。上神は勘違いしているだろうが、生憎オレはまだ、死者に思いを馳せて憂鬱になれるほど優しい人間じゃない。いま生きてそこに、オレのすぐそばにいるキミへの思いに動揺しているんだ。自分は救いようもないばかだと。
 ああオレも、朱に交わってしまった。ばかなおとこだ。

#34


 ひとりの少女が、息を切らしながら駆け込んできた。

「私は、神田いおり。あなたに依頼したいことがある」
「あらあら、まぁとりあえず座って、いまお茶を出すわ」

 その青い制服にナツキは驚きながら、ソファを指しくつろぐよう促す。
 情報屋は違法とされている職業だ。異能くらいしか就かない職業であるため嫌われているということもあるが、かつて国民を大混乱に陥れた歴史があるため本来ならば違法なのだ。警官と裏で繋がり異能犯罪者を追う情報屋は珍しくても確かにいるのだが、ナツキにはない経験だった。警官から依頼を持ちかけられてひとつ困るのは、その依頼を拒否する権利が実質ないことだ。情報屋であることが知れているうえでその取引を持ちかけられているのだから、断れば即お縄、なんてことも想像に難しくない。けれどナツキは大した警戒はなく、少女を事務所にあげ、茶を用意した。訪れた小さな異専の少女に敵意がないこともあるが、ただナツキがそういう性分なのだった。

「あなたが信頼のおける情報屋であること、仲間が記したファイルでよく知っている。だから頼みたいことがある」
「あら、もう調査済みなのね」
「仲間の友人に、貴方の知り合いがいるらしい。その友人については、なにも書かれていなかったけれど」
「異専と繋がってそうな知り合いなんていないのだけれど…まぁ、それで依頼ってなにかしら」

 思い浮かぶ顔ぶれはみな警官とは縁遠い。そういえば、あの双子はいつも唐突に訪れるけれど、タイミング悪くいまやってきてしまったらどう誤魔化そうか。ナツキはそんなことを考えていた。あまり緊張感のない空気に、千代森も異専に職業を知られていることの立場的な危うさを認識できていないようだった。

「鏡見四季を確保したい」
「あの鏡見を?」
「そう。このスラム最大の癌、我々が許すわけにはいかない存在」
「いきなりね、なにか計画はあるの?」
「あいつは神出鬼没で足が掴めない。ひたすら一点で待つ」
「それに協力しろというわけね。…断ったらどうなるのかしら」
「どうもしない。貴女が優良な市民であることもファイルに記されている。迷惑はかけない」
「ふふ、いじわるを言ってごめんなさい。断る理由はないわ。私もここが住み良くなるのは望んでいることだもの」

 ふわりと目尻を緩ませナツキが微笑む。静かな動作で湯のみに口をつけ、にこりと少女を見据えた。神田は相変わらず力強いまなざしでナツキを見つめている。



 神田との打ち合わせの末、三人は別行動をとり、スラムでも人通りの多い場所でしばらく人に紛れ、鏡見が現れるのを待っていた。

「これで三日目…最近はなかなか現れないわね」

 もともと神出鬼没で足取りの掴めない鏡見であるが、最近はなりを潜めているらしい。なかなか姿を現さなかった。
 千代森は記憶がないため、異能の出力が未だ不安定である。彼をひとりにするのは若干不安だったが、千代森たっての希望で別行動をとることになった。そうしたほうが効率がいいのは明らかだが、彼は記憶をなくしてから、ひとりでの戦闘を経験したことがない。もし彼が鏡見と遭遇してしまったとして、鏡見は派手好きであるため暴走が始まればすぐ駆けつけることができるだろうが、それまで千代森が持ちこたえられるかが問題だった。
 いつでも連絡がとれるよう、神田とも連絡先は交換してあるが、距離があった場合どうしてもすぐ援助に、というのは厳しい。このスラムもかなりの広さがある。神出鬼没な殺人鬼がどこにいつ現れるか、誰にも分からない。

「せめて三人の中間地点に現れてくれれば助かるのだけど…そこまで上手いことはいかないでしょうし」

 と、ナツキが独り言を漏らした瞬間、遠くで微かに爆音が響いた。



「そうか、そうか!キミが!生きていた!!」

 鏡見がビルの屋上で通りを見下ろしていた。その場にいたのは、不運にも千代森だった。人ごみに紛れていた千代森が通りに飛び出し、鏡見と対峙する。鏡見は千代森を認めた瞬間、歓喜を露にしてそう叫んだ。
 千代森には彼が言っていることが理解できなかった。当然面識などない、と、思ったけれど、自分はナツキと出会う前の記憶が抜け落ちている。鏡見は千代森と出会ったことにひどく興奮しているようだった。
 千代森は混乱しながらも、とにかく鏡見がここに出現したこと、それを神田やナツキに知らせなければと思った。周囲の市民になるべく被害を出さないため、あえて彼の目の前に立ちはだかって、意識を自分に向けさせる。携帯を取り出し連絡を取ろうとしたが、瞬間すぐ隣で爆発が起きて、吹き飛ばされ携帯を手放してしまった。地に叩きつけられ全身に痛みが走る。歯を食いしばりながら立ち上がって、ここまで派手に爆発を連発させているのだからきっとすぐ2人が気付いてくれるだろうと賭けに出る。とにかく彼をここに留めることに集中して、神田たちが駆けつけれくれるのを待つしかない。他人に頼るしかない自分に不甲斐なさを感じたが、悔しがっている暇すらない。鏡見は相当高揚しているらしく、無差別にあちこちで爆発を起こしている。

「…生きていたって、どういう、こと」

 痛みに言葉が途切れ途切れになる。けれどいまの千代森にとって、記憶を失う前の自分を知る人物は貴重だった。記憶を取り戻すことができれば、異能を制御できるようになるかもしれない、感覚を取り戻せるかもしれないと、鏡見との会話を試みた。

「え?なに、覚えてないの?ああショックで吹っ飛んだのか、へえ、ムカつくなあ」

 しかしどうやら鏡見の逆鱗に触れてしまったらしい。目つきが変わる。明確な殺意を感じた。いつものような娯楽のための破壊ではなく、千代森を殺すことに目的がシフトしたようだった。千代森の足元で爆発が起きて、華奢な身体は簡単に吹き飛ばされてしまう。頭からビル壁に叩きつけられ、一瞬意識が飛んだ。強い衝撃に肺が痛んでうまく息ができない。身体に鞭を打って立ちあがろうと試みるが、意識と身体が直結しない。その場で呻くことしかできなかった。
 いちかばちか、千代森は異能を放った。電流を操る異能。感覚を未だ掴みきれていないため無差別放電になる可能性もあったが、彼に殺されてしまう前に、すこしでもここで時間を稼ぎたい。これだけ派手に爆破を連発したのだ、きっとナツキと神田が駆けつけてくれる。それまで鏡見をここに留めておかなければ。
 意識を集中させて右腕を振るい電流を放つ。それは蛇行し歪みながらも辛うじて鏡見の足元へ叩きつけられたが、鏡見はひょいとひとつ跳ねて簡単に避ける。にやりと口角を上げた。

「もしかして異能の使い方まで忘れてんの?じゃあ簡単に殺せるね、それはそれでつまんないけど、ようやく積年の恨みを晴らせるわけだ」

 積年の、恨み。千代森には当然心当たりなどない。けれど鏡見の殺気が確かに増していく。まずいな、と、思った、ここまでかもしれない、今の自分では到底敵わない。けれど諦めるわけにもいかなかった、せめて2人のどちらかが到着するまで、どうにか凌いで役に立たなければ。けれどやはり身体には痛みが走り、これ以上彼の攻撃を避けるのは不可能なように思えた。

「でもそれじゃあ面白くないな、忘れられたまま死なれるのは癪だし」

 鏡見がゆったりとした歩調で近付いてくる。もう一度意識を集中させ異能を放ったが、今度は彼を掠めることすらなく、見当違いな方向へ飛んで、弾けた。

「教えてあげるよ、思い出してよ、オレのことさあ。キミ、孤児院にいたの、ほんとに覚えてないわけ?」

 千代森ははっと目を開く。瞬間激しい頭痛に襲われ、あまりの痛みに一瞬視界が暗転し、なにかがフラッシュバックしそうになった。けれどそれを拒絶するように意識が混濁する。視界が回復したとき、鏡見は既に目の前にいて、自分を見下ろしていた。殺気をまとい、けれどちぐはくに笑みを浮かべながら。

「オレがそこを襲ったときに、キミがその異能でオレの異能を相殺してくれたんだよね、ほんっと気に食わない、でもさあ、結果どうなったか覚えてないなんて、都合いいよねえ」

 頭痛がどんどんひどくなっていく。いやだ、思い出したくない、本能が拒絶する。
 ああ、そうだ、自分は異能孤児として保護されていた、そうだ、あの暖かい場所で自分は受け入れられていた、そこに鏡見の襲撃があって、自分は居場所を守るために異能を使って、ああ、そうだ、

 思い出してしまった。

「ねえ、あのときの不愉快さ、今でもはっきり覚えてるよ、獲物を横取りされんのが、あんなにムカつくなんてね」

 そうだ、自分はあのとき冷静さを完全に失ってしまって、ただあの場所を守りたくて、それだけだった、のに。
 俺が。そうだ、感情が制御できなくて、無差別放電をしてしまって、孤児院を、俺が。
 電撃で、燃やし尽くしてしまった。

 一気に記憶を取り戻した、その情報量に耐え切れずに、意識が遠のいていく。そうだ、あの時自分は、自分で自分の居場所を。

「千代森!!」

 失せていく視界と聴覚。最後に拾ったのは、ナツキの声だった。