#5

 

 赤間千夏はひどく自由奔放である。

「レイ、麦茶くれ」
「貴様ふてぶてしすぎるだろう」

 双子の弟、レイの借りているマンションの一室でこんなやりとりがされるのはもはや日常だ。赤間はソファに深く腰掛けて、右足を左の太ももに乗せるというひどく偉そうな格好で、空になったコップを差し出している。クマを作った目をじとりとさせ睨むものの、結局赤間に口では勝てないレイは、しぶしぶとでも要求を飲んでしまうのだった。
 カーペットでは吉川がうつ伏せになって漫画雑誌を読んでいる。雑誌の左側にはポテトチップスの袋が広げられていて、右側にはコップの半分まで注がれた麦茶という完全装備だ。足をゆらゆらと揺らしながら、時折くすくす笑っていた。
 3人で過ごす昼下がりはひどく緩やかである。

「あかまあ、おれお腹すいた」
「ああ、もうそんな時間か…やっべ、」
「どうした」

 赤間は一度ポケットに手を入れたあと、さっと顔を青くして、こう呟いた。

「…財布、会議室に忘れてきた」

 それは赤間千夏にとって、ひどく絶望的な出来事だった。

「…それは可哀想なことで」
「いってらっしゃい」
「お前ら薄情すぎるだろふざけんな」

 レイはすっと目を逸らした。吉川は漫画雑誌に目を戻す。
 会議室。そこに入るには少々度胸を試されるものがあった。会議室に入るためには避けて通れない、赤間千夏限定の恐怖があるのである。

「きっかわあ行ってきてくれよ」
「ヤだよーおれいま忙しいもん」
「レイ行って来い」
「それが人にものを頼む態度か」
「せめて誰かついてこいよなァ!!」

 あ、いまの、似てたなあ。吉川はとある人物を思い浮かべたものの、言うと怒られそうだったから、黙っていた。



 結局レイも吉川も連れられ、戻ってきたのは今朝立ち寄ったばかりの本社。20階建てという市街地でもひときわ目立つそこの18階に、目的地はある。暗殺部隊しか立ち入れないフロアの奥にある会議室。時刻は13時過ぎ、確実に「それ」がいる時間であることを知りながら、赤間はいないでくれと願わずにはいられなかった。

 エレベーターで18階まで上がり、辿り着いたそこで、とりあえずはと会議室の前にとある作業室へ乗り込んだ。赤間はコンコン、とノックを2回したものの、返事は待たず無遠慮にそのドアを開く。おいおい、と後ろでレイの呆れた声がした。

「うわ、びっくりした」
「なあちょっと聞きたいことあんだけど」

 その部屋は常に暗く、山のように詰め込まれたディスプレイが青く光っている。その中心にいるのは橘アキという男だった。垂れ目を大きく開きながら、椅子をくるりと回転させ振り返る。暗殺部隊という枠の中にいながらも、情報管理を任されているこの新人は非戦闘要員である。この作業室で寝泊りしていて、ついでに言うならばとてつもなく怖いもの知らずだった。

「なんすか?今目ぇ離せないんすけどー」
「別にこっち見なくていい。…あの人、今日どうだ?」
「あの人?…ああ、ボスっすか?」
「そう」

 ボス。橘がそういった瞬間、赤間の肩が少しだけ強張ったのを吉川は見ていた。
 橘がボス、と、そう呼ぶ男こそ、赤間が世界で唯一恐怖する人物なのである。
 勿論この組織のボスは、正しく言うならば赤間千秋に他ならない。比喩として使われているそれは、しかし誰が聞いても間違いなくその人を思い浮かべる、的確な表現だった。忙しなく働く千秋に代わってこの暗殺部隊なる組織を取り纏め、仕事を振り分け、報告書に目を通す人物。絶対的な存在である、ボス。

「ボスはー、今日は」
「…おう」
「死ぬほど機嫌悪いっすね」
「レイ、行ってこい」
「俺だって小言を言われるのはご免だ」

 集中できないから、もういいっすか。橘にそう言われ、苦い顔をして作業室を出る。どうしたものかと赤間は腕を組んだ。
 作業室のある廊下の角を曲がり、突き当たりにあるドアの前で頭を抱えた。そのドアの向こうにいる、確実にいる、しかも機嫌が悪いときた。会議室は、彼が仕事場として使用しているこの部屋の中にあるドアを通らなければ入れないのだ。彼は夜遅くまでいて、日付変更線付近にやっと家に帰り、朝は少し遅めに出てきて報告書の処理をするというパターンで動いている。これを逃せば明日の朝までなにも買えないのだ、冷蔵庫は空だし、渚ナツキに集るという手もあるが赤間としてはプライドが許せないので非常に困る。

「じゃんけんで負けた奴がとってこい」
「なぜ貴様の不始末に俺が巻き込まれるんだ」
「そうだよーおれだって怖いもん」
「お前らは面倒くさいだけだろ?俺は怖いんだよ!」
「大体何がそんなに怖いんだ、従兄弟同士だろう」
「いつ殺されるかわかんねえからに決まってるだろ!」
「ころされちゃうの!?」
「殺されちゃうの!これあの人にやられたんだからな!」

 赤間がそういって指差したのは、へその左側にある傷跡だった。かつて「ボス」にナイフを深く突き立てられた記憶が蘇り、赤間は肩を竦める。

「なんだってそんなことを」
「…なんでだっけ、」
「知るか!」
「記憶が混濁してんだよ!」

「…うるッせェな」

 ガン。へこんで弾け飛ぶのではと思うような勢いでドアが蹴られたのち、ドア越しのそんな声がひどく低く響いた。3人は一斉に黙り込む。沈黙を破ったのは苦笑いの吉川だった。

「…機嫌、悪いね」
「…帰るか」

 完全に恐怖が勝り財布などどうでもよくなった赤間の提案により、3人は本社を後にした。何しに来たんだという複雑な後悔と沈黙に包まれながら。

 3人の背中を本社の窓から見送る不機嫌な影がひとつ。

 

#6

 

 ああ、どうやら、今日も眠れないらしい。

 兄のルイと二人で暮らしている市街地のオートロックのマンションは、雇い主であると同時に育ての親でもある千秋が手配してくれた部屋で、彼はこうして自分達で稼げるようになるまでは金銭面の面倒まで見てくれていた。だから彼は恩人で、自分はきっとそれを一生忘れはしないだろうし、現に今も彼のために人を殺している。男嫌いで潔癖の兄も多分、そうなのだろう。千秋との物理的な接触こそ避けてはいるものの、嫌っているわけではないし、どころかそれなりに心を許してさえいる。昨日もたまには顔を見せにいかなければな、と呟いていたばかりだ。

 マンションに戻ると兄は既に自室で眠りについていて、ドアを少し開けて様子を見るも起きないあたり、かなり疲れているのだろうと判断して、自分も部屋へ戻った。そうしてベッドへ潜り、目を瞑って、ああやっぱり、今日も眠れないらしいと溜め息をつく。

 あの日からずっと。不眠症だった。原因はよく分からない。これといったストレスや不満、まして悩みなんて一つもないというのに、家を出た日からずっと不眠が続いている。「薬もらえよ」、なんて赤間に言われたこともあったが、グレー、というよりほぼ9割がた黒である仕事をしている身でまともな病院など行けるはずもないし、千秋の旧友である異能の闇医者が開いている診察所は、手術用の麻酔と痛み止めこそあれど睡眠薬など揃えていない。勿論疲れが溜まれば眠れる時もあるが、大抵は3時間と経たず目が覚める。おかげでこの隈とも長い付き合いだ。

 自分なりに原因を考えはした。例えば一般的には異常と言われるこの仕事のことだったり、家を出たその日のことだったり。けれどどちらもそれほどまで深刻かと訊かれると、どうにも首を傾げてしまうところがある。というのもまずひとつ、人を殺すことにあまり罪悪感がない。これは育った環境のせいかもしれないが、麻痺とかそういった類のものでなく、最初っからこんな感覚だったのだ。そして念のために言っておくと別に楽しい訳でもない。ただ生きるためにしなければならない、"仕事"なのだ。雑草を抜くことと、何ら変わりはないのである。だからきっとこれは原因ではない。

 残るひとつは、家を出た、あの日のことだ。しかしこれもまた、はっきりとは頷けない。ショッキングな出来事ではあったし根深く記憶に残って消えることはないのだが、けれど、被害者だったのは自分ではないからだ。

 ルイは毎晩、よく眠れるという。勿論仕事がある日は、十分にというわけにもいかないのだが。

 彼も暗殺という仕事に関しては、全くと言っていいほど自分と近い感覚でこなしている。でも自分よりよほど強いストレスを日々感じ、そして常に忘れられていないはずなのである。自分は、これだけはどうやっても、知らぬふりをできなかった。ルイの側に自分がいる限り、ルイがその呪縛から解き放たれることはない。それは自分が、ルイの弟で、そして男であるから、もう、どうにもしようがないのである。

 目を閉じればいつも思い出す。ルイが燃やした、かつて父と3人で暮らしていた家と、その中心にいる父親の焦げた肌。悲しいのは自分じゃない、憤るべきは自分じゃない。ルイはずっと知らないところで一人で泣いていた。そしてその怒りが暴走した原因は、弟である自分自身だ。兄は、ルイは、父から弟を守るため、家ごとそれを異能で焼き払ったのだ。それこそ、炭さえ残らないほどに。

 その日、見てしまった自分が悪かったのか、それともそれが最善だったのか、むしろ遅かったのかは、今はもう分からない。その日がくるまでは知らなかったのだ、ひとつだって知らなかった、気付いてやれなかったし、またルイも幼いころから、隠しごとがひどく上手かった。

 へんなこえがする。夜中にトイレへ行こうと目を覚まし、廊下から聞こえてきたそれ。確か今から9年前、まだルイも自分も10歳だったはずだ。

 レイはその声のする部屋のドアを開いてしまった。そしてそこでされていたことは、幼い自分には全く理解できない、そして受け入れられないことだった。レイ、お前も来なさいと、ベッドでルイの上に跨っていた父は言った。レイには手を出さない約束だったはずだと兄は叫んだ。しかし父はルイの叫びに応えなかった、それがルイに引き金を引かせたのだろう。この先の記憶はほぼ、砂嵐だ。

 気付けばルイに支えられ、ただ燃え尽きるだけの家を、遠くの丘から見ていた。二人ともただしばらく、数分、もしくは数時間を、ぼんやりその場に座り込んでいただけだったように思う。何かを考えることができなかった。これからのことも、今、手を汚してしまったことについても。

「君達、どうしたんだい?大丈夫?」

 そうしてその自分たちを拾って、生きる理由と場所を与えてくれたのが、今の雇い主である赤間千秋、その人だったのだ。けれども眠り方だけは、困ったような顔をして、終ぞ、教えてくれることはなかった。

 

#7

 

 ばかな男だと目を細める。

 スラムの片隅のとある廃屋。そこが鏡見四季のいまの寝床だった。連続殺人犯として指名手配されている鏡見は、こうしてあちこちを転々として、警察から逃れる毎日を送っている。今日はどこで暴れようか、そんなことを考えながら。
 彼の異能は、かつて渚ナツキが予想した通り、目視で物質を爆破させるものである。彼が異能に"気付いた"のは5歳のときだった。気付いた彼は、手始めに妹を殺し、味をしめて、両親を殺した。それからずっと通り魔的に人を無差別に殺し続け、それを生きがいとして歩んできた。世間が思い描く「異能持ち」を体現するような生き様をしている鏡見は、奔放で神出鬼没で派手好きで、別段理由などなく人を殺すことがひどく好きなのである。そういう狂人だった。
 加えて非常に気分屋であり、その性格に特別被害を被っている男がいた。
 ばかな男。情報屋である上神マキ。

「四季、起きていたのか」

 噂をすれば。鏡見は横目でその男を見やる。ビビットピンクという目立つ色をした髪は長く、腰の位置でひとつにされていて、対照的に地味な松葉色の瞳はいつも静まっている。ひどく表情に乏しいその男は、口数も少なくて、つまらない人間だと鏡見は思っていた。会話がほしいわけじゃない。殴っても鳴かないことがつまらないのだ。
 鏡見が気分屋であることで一番迷惑しているのは、間違いなく、この上神マキである。彼は鏡見に妹である上神ナギの命を握られていて、鏡見の言いなりになるしかない状況にいた。情報屋としての知識と経験をもって、鏡見を警察から逃がすこと、生活に必要な資金を集めて提供することが上神に与えられた役割である。
 朝焼ける路地にて偶然鉢合わせ、仕事柄人目につきたくはなかったマキと、なににも構うことなくに大暴れできる鏡見とでは、勝敗は戦う前から決まっていたようなものだった。いつもの通り殺してしまおうとした鏡見に、しかしマキは縋った。彼は死ぬわけにはいかなかったのだ、自分のせいで親に捨てられた妹のナギを、ひとり残すわけには。情報屋という職業を明かし、鏡見の逃亡生活を援助すると取引を持ちかけた。そうして頭の弱い鏡見はこれは便利だと頷いて、そうして出来上がったこの関係には、上下関係と、嫌悪と、緊張感しかない、はずだった。

「ここはまだ生活線が生きていてな、今朝は久しぶりに焼いたパンが食べられる。冷めないうちに起きてきてほしい」
「……面白くない」
「ん?」

 そう、鏡見には面白くなかった。この現状が。
 上神マキから嫌悪以外の感情を向けられていることが。

 マキの鏡見を見る目は穏やかだった。殴っても。蹴っても。首を絞めても。踏みつけても。それが鏡見には不愉快だった。面白くない。

「キミ、ほんっとバカだよね」

 最初からそうだった。このマキという男は馬鹿なのだろう、鏡見に向けているのは恐らく、同情だ。かなしいものを見る目で鏡見を見る。それが気に食わなくて、鏡見は毎日マキに手を上げる。けれど男は黙って殴られているばかりで、抵抗らしい抵抗を見せたことがない。時々呻く程度の反応しかしない、電池の切れたようなオモチャで遊ぶのは、ひどくつまらなかった。合間に髪からのぞく瞳はやっぱり鏡見を嫌悪していなくて、それにまた腹が立つ。毎日がその繰り返しだった。
 鏡見四季は幼稚な男だった。本能のままに、したいことをしてふらふらと生きているし、面白くないことがあればそれを衝動として発散して、満足すればけろりと自分ばかりがいつも通りに戻る。人の気持ちや都合など考えたこともなく、誰かを大切に思ったことも当然ない。そうやって生きることが好きで、だからそうやって生きている。それだけだった。

 鏡見の気持ちや都合を考えたことがある者もいないし、鏡見を大切に思った者もいない。
 そう考えたのがマキだった。見透かしているつもりのような瞳はいつでも同情だけがあって、鏡見という男が歪んでしまった理由をいつも探している。
 ばかなおとこだと鏡見は思った。救いようもないと。

 

#8

 

 それは、春の月が真ん丸い夜のことだった。

 ナツキは護衛の仕事の帰り、夜道を一人ふわふわと歩いていた。彼女は往々にして機嫌が良い。軽い足取りで弾むように歩く少女は、ふと、道の脇に人影を見つけた。
 「それ」は蹲っていた。背をビル壁に任せ、足を投げ出し、首をかくんと落としてじっと腹から流れる血を見ていた。群青の瞳はぼんやりとだが確かに開いている。月に照らされた髪は赤く濁って、影には深い茶を落とし、しかし付け根からは数センチばかり黒が覗いていた。至るところ傷ばかりで、どれもが見事にぱっくりと口を開け赤い血を吐き出している。髪は乱れ、頬は腫れ、服はあちこち裂けている。ひどく惨めな男だった。
 ナツキが「それ」に声をかけた理由があるとするならば、惨めであったこと、そのくらいかもしれなかった。ナツキがひとと関わる上で、相手の状態はあまり関係ない、心身ともにだ。彼女は往々にして機嫌が良い。

「生きてる、わよね?」

 しかしそれは口を開かない。やはりぼんやりと腹を見つめているばかりだ。かといってそのくらいのことに動じるようなナツキではない。悪く言って図太い彼女は、けろりと深い緑の目を丸くして、小さく首を傾げたまま、構わずそれに話しかけ続けた。

「手当てしましょうか?私の家、近いの」
「ねえ、あなた、ひとり?連れはいないの?帰るところは?」
「私、手を貸すけれど、歩けそう?」

 ふ、と、それは小さく反応を見せた。青く、深く濁った瞳がのそりと動いて、ナツキを見た。その奥の春の月が、静かに静かに男を照らして、その薄暗い瞳に金の光を落とす。

「ほら、ねえ、掴まって」

 ゆたり、男の左手を持ち上げると、緊張するかのように強張って、ぴくりと揺れた。群青の瞳が戸惑って、ゆらりと一度揺れ、また血溜まりへと目線を落とす。
 どこに傷が、痛みがあるか分からない。意識があるならば、本人が動かないことにはどうにも扱いにくいと、ナツキは強引に引っ張ることを躊躇した。すると少しの間をあけて、初めてそれが口を開いた。それはひどく掠れて、やはり惨めな声だった。
 弱々しく鳴った。

「なぁ、…もういちど、掴んでも、いいか」

 もういちど。それは確かにそう言った。

「ええ、いいのよ」

 なにがとは問わなかった。スラムとはそういう場所で、渚ナツキとはそういう少女であるだけだ。安心させるように、その手をしっかり掴みなおす。それはまた目線を上げて、ナツキの瞳が依然柔らかく開かれていることを認めると、一度だけ、吐くように笑った。

「…そうか」
「ええ、…ねえ、あなたの名前は?」
「名前、」
「そう、呼べないのは不便だわ」

 それは。
 それは確かに嫌悪した音で、執拗に憎んだ音で、何度も呪った音である。けれど、呪った数だけかつて「彼」が呼んだ、音だ。
 縋りたくなるような優しい声で、ひどくいとおしい、その声で、幾度もなぞって撫でてくれた、その音は、

「鳴海、…麻木、鳴海」

 静かに目を伏せて意識から手を放す。

 間違いだろうか、愚かだろうか、偶像に縋ることは。幻だって構わないと、そう思う以外に、この夜を生き抜く術を見出せなかった、ひどく惨めな男の成れの果て。

 麻木鳴海。弱々しく鳴ったその声は、ちいさく震えて、たしかに少女の鼓膜を揺らした。それだけで十分だった。
 ひとりの男が約束を諦めた、春の月が真ん丸い夜のことである。

 

#9

 

「だーかーらー!俺が先輩なの!」
「だーかーらー、ちゃんと先輩って呼んでるじゃないっすか、ね、センパイ」
「態度!態度が後輩らしくない!」

 びしり、新人である橘アキを指差す吉川のその背は、いつも通りピンと伸びている。赤間はその様子を微笑ましく思いつつ、しかしよくこれだけ毎日喋り倒しかつ動き回れるものだと、もはや感心の域に達した苦笑いが漏れる。それでも吉川とはやはり、こうでなければ。彼はずっとこう在りたかったのだ、それが許されない異常な環境から抜け出し、ようやく自由を手に入れた。彼は有名な財閥の長男であり富裕層の出だが、異能を宿していたがためにいないものとされ、家族は弟を長男として扱い、挙句吉川を市街地のはずれにある別荘に幽閉して、決して会話を許さず、世間にその存在が認知されぬようにと押し込めた。そこを飛び出しスラムに迷い込んで行き倒れていたところを「仕事」帰りの自分が拾ったその日から、彼は次第に明るくなり、今ではすっかり喧しいとレイに煙たがられるほど賑やかな存在になっていったのだ。
 赤間は気が付いていない。自分という籠の中に吉川をしまい込んでいること、少年は文字通り人形のように赤間から愛されるために生き、自由とは未だ遠いこと。

「…なんだ、喧しいな」
「お、おはよーさ…ん?いや、おやすみか?」
「寝ようと試みて失敗して起きてきたところだ」
「あっそ。はよ」

 開かれたオフィスのドアから現れたのは、不機嫌そうに顔を歪めているレイだった。赤間の斜め向かいの椅子に腰掛けると、持ってきたらしい眠気覚まし用と思わしきコーヒーを開け、一気に飲み下す。不眠症って一応眠くはなるもんなんだなあとなんの気なしに思いながら、ちらりと横目で吉川を見遣った。未だ吉川をからかい楽しんでいる橘と、なにやら口論のようなものを繰り広げている。

「しっかしさぁ、あいつら見てると懐かしい気持ちになるわ」
「は?何がだ」
「昔もああやってうるさい奴らがいたよなって」
「それはお前とルイのことなのか、麻木とルイのことなのか」
「あンのクソ潔癖ヤローの話なんかしてねぇだろ!!つーかそれどっちも現在進行形!」
「あんな可愛いレベルで騒ぐ人間がこの組織に存在していたか?5秒後には獲物を抜くだろうがここの連中は」
「お前だお前、吉川とお前だよ」

 声もなく目を丸くしたレイは、しかし言い返すことはせず、罰の悪そうな顔をして、騒ぐ橘と吉川の方へと視線を流す。
 この殺伐としたオフィスにも、ああやって喧しく騒いでいた奴らがいたのだ。

 

 

「…赤間、何だあのガキは」

 いつもより5割増しで不機嫌そうなレイがそう言った後ろでは、吉川がべーと舌を突き出している。どういう采配か知らないが、この組織に入ったばかりの吉川の教育係を任されたのは、赤間ではなくレイだったのだ。しかもいつまで経っても全く噛み合わず、と、思っていたものだが、今にして思えばこれが二人にとっては噛み合った状態だったのだろう。なのだろうけれども。

「んだよ、怒ってんの?」
「…怒ってなどいない、子供、子供だからと言い聞かせ、獲物を抜かないよう左手を握り締めているだけだ」
「そういうの殺意って言うんだけど」

 力を込めすぎて肩が震えているレイの横をさっさと通り過ぎ、赤間、と嬉しそうに駆け寄ってくる吉川。可愛いけれども一応まだ訓練中で、休憩まではあと2時間もある。
 確かにレイは短気で大人気なくて幼稚でわがままで家事も何もできないブラコンだが、剣の腕だけは確かなのだ。異能を含めれば戦闘力、ついでに緊急時の冷静さや判断力までも双子の兄に二歩三歩劣るものの、ゆえに異能に頼りがちな才能人の兄に追いつく努力をしてきたレイの方が、剣の扱いは上手いのである。吉川の光を操るという異能は、直接的な攻撃手段として用いるのは難しいため、必然的にとりあえずで刃物の取り扱い方から学ぶことになる。ならば何だかんだで、こいつの訓練は真面目に受けておいたほうがいい。

「吉川、あいつ確かにアホで」
「おい」
「幼稚で偉そうでうざいけど」
「おい!」
「訓練くらいは真面目にやんねーと、俺の仕事について行きたいなんて言ったって無理だからな」
「撤回しろ!」
「あーもーうっせェな、だからお前はそうなんだよ」
「どういう意味だ!!」

 そうして恒例のやりとりをある程度終えたのち、渋々訓練場に戻っていく吉川を見送るのだが、1時間後にはまた似たような状況で二人して戻ってくるという、何とも困ったことになっていた時期があったものだった。というかまあ今も訓練となればああなるのだが。半人前の吉川の訓練に、一応、時々、気が向いたらで付き合ってやっているらしいレイは、しかしそのたびにイライラしながらコーヒーの空き缶を握り潰そうとしては握力が足りず、そのことに更にイラついて空き缶を叩きつけるようにゴミ箱へ投げ捨てるのである。加えて吉川が暗殺の練習のつもりなのか、特訓と称してレイに奇襲を仕掛けるようになったため、むしろ昔より今の方が二人が接する機会は多かったりもする。
 そもそもなぜ吉川はレイに対してああなのだろう、生い立ち上大人は苦手なはずなのだが、なぜか周りの歳上たちには遠慮がないし物怖じしないし、あと空気も読めない。はてと首を傾げ思い浮かぶのは、レイとルイと、そして麻木の顔。ああ、これは、ああ、ダメだ。赤間は密かに項垂れた。ルイはまだしも、レイも麻木も、ナメられたって文句は言えない程度には、言動が子供染みている。自分は個人的に麻木に対しトラウマが多数あって逆らえないものの、彼の横暴さは行き過ぎていて、逆に子供のわがままのように見える場合もあるだろう。いつだったか、どっかのアホなクソ野郎が麻木のことを「永遠の精神年齢5歳」と例えたのは、腹立だしくも割と的を得ていると思う。それをそのクソ野郎以外が口にしようものなら、1秒と待たず首が宙に舞うのだけれど。

「いいから黙って俺の言う通りにしろクソガキ!」
「レイだって子供みたいじゃん!俺と大してかわんない!」
「あああもうその口の利き方をまず直せ!大人を呼び捨てするな!イライラする!」
「ああ~はいはいすみませんでした!で!?もっと具体的に教えてよ!抽象的すぎてよくわかんないの!!」
「それが先輩に対する態度か!?これくらいのことも噛み砕けないなら諦めろ!」
「あーっもう!レイくんめんどくさい!!」

 

 

 ああ、一度だけ、どうしてもと興味が湧いて覗いてしまった訓練場でのあのやりとりが思い出される。なるほどレイくん、とは、やはり嫌味のこもった呼び名であったか、と思った、あの日の光景が。
 そしてこの新人も、嫌味をこめて先輩と、吉川をそう呼ぶのである。

「…歴史って繰り返すんだなぁ」

 ぽつり、零した独り言は、しっかりレイに拾われたらしい。ぎゅうと不機嫌に金の瞳は細まって、ガタリと大きな音を立てて立ち上がり、多分報告書かなにかを書きにきたのだろうに、なにもすることなくただコーヒーを飲んだだけで、オフィスを去っていった。