犬を飼うはなし

 

 犬を飼った。
 俺がじゃない。カオルがだ。耳が立っていておおかみみたいな顔つきで、でも瞳は茶色くて、毛は白くてふわふわした中型犬。まだ1歳くらいらしいというようなことを言っていた。詳しくは分からないそうだ。なんでも迷い犬として保護して、署で面倒を見ていたのだが、いつまで経っても飼い主が現れず、そのまま犬がカオルに懐いてしまったらしかった。
 俺は反対していた。前からその犬をカオルが気にかけていたのは知っていたけれど、不規則な仕事をしている人間に犬は飼えないだろうと思った。呼び出しがかかれば休日なんて一瞬で溶けるような環境だ。加えてあいつはいい加減でちゃらんぽらんである。命に飽きるということは流石にないだろうが、どうにも俺には不安だった。

 犬の名前はゆきといった。カオルじゃなくて、連れの、うるさいほうの少女が名付けたらしい。

「ゆき、」

 カオルは案外、優しい声でそいつを呼ぶ。わりと暖かい目でそいつを撫でる。なんだかひどく、意外だった。カオルがいのちに触れている。少し落ち着かなかった。

 カオルが飼うことを決めたのは、俺と一緒に面倒を見ようという話になったからだった。カオルはもうほとんど俺の家に住んでいるし、このマンションもペットを禁止していないから、問題という問題はなかったのだけれど、困った。俺は元来猫派だし、犬というような寂しがる生き物の飼い主になることは躊躇われた。猫なら千秋さんがしょっちゅう拾ってきて飼ったことがあるけれど、犬に関しては全くなんの知識もないから、緊張もあったと思う。生き物を、よく知らないで飼えるわけじゃないことだけを知っていたのだ。けれどカオルに頼まれたとき、どうしてかはっきりと断れなかった。そうしてやめておけばいいのに、俺は結局、家を犬の住処として貸してしまったのだ。

 やはりというべきか、カオルは朝起きられないままだ。なので犬の、2回ある食事のうちの1回目を、俺が用意することになった。最初からこんなことで大丈夫なのだろうかという気になったが、もう頷いてしまったあとだ。あまり文句はいえない。ご飯を出して、30分待ってから朝の散歩に連れていく。これは話し合いで決めたことだった。仕事などが関係しない場合、交代で散歩に行くことになっている。散歩は1回30分だ。これも話し合って決めた。飼うと決めてから買った本に、犬はリズムの狂いがストレスになると書いてあったから、もしイレギュラーな事態が起こってしまっても、30分なら間違いなく時間がとれるだろう、ということになったのだ。本当は1時間行ってやるのがいいのだけれど、俺もカオルも忙しくて毎日の保証はできないし、崩れたときストレスを受けるのは犬だ。
 時々は2人で散歩に行くこともあった。カオルがリードを持って、2人でなんてことない会話をしたり、犬が猫を追いかけるのに付き合わされたりしながら歩く。なんだかごっこ遊びのようだと思う。

「おかえり、鳴海」

 だって家に帰ったら、こうやって必ずカオルが出迎えて、その足元に犬がいる。家庭でも築いているかのようだ。馬鹿馬鹿しい。いつまで経っても慣れなかった。慣れろというほうが無理だ。一般的な家庭のあり方なんて知らない。カオルだって知らない。なんの手本もないまま2人で犬を飼っているなんて、ばかみたいだ。

「…ただいま」
「こいつ、お前の足音聞いて、ここで待ってたんだ。撫でてやれよ」

 本当にばかみたいだ。手が震える。これは多分、緊張、している。
 犬にそっと触れる。上から触れると犬は嫌がるというから、下から手を出して、顎の下を撫でた。ふわふわと毛が柔らかくて、あたたかい。口角を引き上げて、まるで笑っているかのような表情で息をしている。ぱちりと目が合う、犬が尻尾を振る。おそるおそる肩まで手を伸ばして、ゆっくり撫でる。犬は気持ちよさそうに目を細めた。
 カオルが耐え切れなくなったみたいに吹き出して笑う。

「お前な、犬ってそんな、恐る恐る触るもんじゃねーから」

 ほら。カオルがしゃがんでいる俺の後ろに回って、犬を撫でている右手に右手を重ねて、指を絡ませる。そのままわしゃわしゃ犬を撫でて、よかったな、とか、偉い偉いとか、犬に話しかけていた。
 引き取ってから1ヶ月経つけれど、やっぱりカオルが犬に話しかける声が柔らかくて、こそばゆい。カオルがあんまり大事にするから、余計にどう触れていいのか分からなくなっていた。猫と違って体が柔らかくないから抱き上げたりもできないし、構ってくれといわれても、いつでも家にいるわけではない自分が構ってしまっていいのかも分からない。いつも、この犬が寂しくなってしまったらどうしようという考えばかりが沸いてしまう。寂しくないことを知らないほうがいいのではないか。そんなことを思うのは俺だけなのだろうか。

 時々、犬を構うと、カオルは楽しそうに声を弾ませる。

「よかったなぁゆき、今日は鳴海、かまってくれるってよ」

 そういわれると居心地が悪くて、でもやめてしまうと犬はずっとお腹を見せたままでいるから、やめるのも居心地が悪い。板挟みだ。

「…やめろよ」
「照れんなって」

 そう言いながら煙草を吸う。こいつ、犬がきたときに煙草はやめるとかなんとか、言ってなかったか。別にいいんだけど。俺もやめられてない。そもそもやめるなんて言ってない。
 俺が構うと犬より嬉しそうにするのがカオルだ。目が細まって柔らかくなる。なにを考えているのかはよく分からない。けれどずっと頬を緩ませながら、俺が犬を撫でるのを見ている。

「…なんで、犬飼いたいなんて、言ったんだ」

 1ヶ月過ごして、なんとなく分かっていた。カオルはカオルが欲しいから犬を引き取ったんじゃない。そもそも物に執着しないたちだ、最初から違和感はあった。けれどじゃあ何のためと言われたら、状況から考えて俺のためなんだろう。どう考えたら犬を飼うのが俺のためになるのかはさっぱり分からないのだが。
 カオルは俺の聞きたいことが分かったようで、ふっと目を犬から逸らして、適当なところを眺めながら、また煙草に口をつけた。ゆっくり吸って、長く吐いて、一度だけ短く笑った。

「…さあな」

 答えるつもりはないらしい。カオルが煙草を揉み消した。
 じゃあ、風呂入ってくる。そう言って席を立って、犬の胸のあたりをわしゃわしゃと撫でたあと、俺の頭も掻き混ぜて、やっぱり楽しそうに笑いながらいなくなった。カオルの手のひらの、ぬるい熱だけが残る。
 しんとした部屋で、なんだか耐え切れなくなって、少しだけ泣いた。理由はよく分からない。けれどこの環境に長いこといてはだめだと思った。どうすればいいのか分からない。暖かくて息の仕方が分からなくなる。息を吸っていいのかが。犬が俺の頬を舐める。カオルの大切なそれを抱きしめた。とても暖かくて、また息が詰まった。脈打っている。いきている。ひどく怖くなった。このいのちは俺とカオルのてのひらの中にある。不安に押しつぶされそうだった。なにかを大事にした経験なんて一度もないのに。うまくやれるか分からないのに。それなのにカオルはこの暖かいいきものを俺に与えた。
 少しだけ分かったような気がした。このごっこ遊びの理由。けれどもうごっこなんかじゃない。俺はカオルと家庭を持ってしまった。まともな家庭なんか知らないおれたちが、家庭を持ってしまったのだ。「知らない」じゃ許されないことをしている。後戻りはできない。
 犬はやっぱり暖かい。最後にもう一度だけ泣いた。これで最後だ。

 犬を飼った。
 俺とカオルで。

 

 

 

(2017)