悪いのはきみ

 

 ひどい雨だ。

 

 夕方、日が落ちかけてあたりが眩しくなった頃、夕食を買いに出た。といっても弁当を求めにコンビニまで行っただけで、結局買ったのはサラダパスタだけだったのだが、それだけの数分の間に降り始めた夕立は、コンビニを出る頃には嵐のようになっていた。市街地の端、辛うじてスラムを囲うフェンスの外に建っているそのコンビニを家から近いというだけでよく利用するのだが、立地のせいで客はほとんど入っていないし、それを見越してか品揃えも悪い。俺と同じ感覚で利用するスラムの人間がいるおかげで悪循環に陥る手前にとどまっているのだろうけれど。まともに営業しろと言いたくなるほど棚になんにも置かれていない日もままあるのだが、スラムに近いとはそういうことであるので仕方がない。文句を言っても利用客が増えるわけでもあるまいし、そんな店でもないより遥かにマシなのだ。何が言いたいかというと、そこに傘の売り場すらなく嵐のなかを身ひとつで帰るはめになり、ずぶ濡れにならざるを得なかったという話だ。

 

 溜め息を飲み込みながら部屋のドアを開けると、玄関に見知ったブーツが乱雑に脱ぎ捨てられていた。どうしようもない奴だ、いつも他人の家にあがるときは靴くらい揃えろと、それこそ齢が10を過ぎたばかりの頃から何度も言っているのに。昔は俺のではなく叔父の家だったためか、言えば渋々、適当ながらも揃えていたのに、最近といえば返ってくるのは「ほとんど俺んちだし」という屁理屈ばかりだ。別に俺の部屋でやる分には構わないが、本当の他人の家に邪魔したときまでこんなでは、いつか困るのは彼だというのに。意地でも揃えてなどやるものかと散らばったそれを踏み超えるとき、その下に僅かに水が溜まっているのが見えて、この夕立をやり過ごすため巡回中にあがりこんだのだろうと察する。

 とうに肌に馴染んだやる気のなさそうな気配に今度こそ小さく溜め息をついて、居間へ繋がるそのドアを開いた。

 

「カオル」

 

 留守中に部屋へ上がりこみ、家主が帰ってきた音を聞きながらも出迎えにすら来ないなんて。らしいのだけれど怒っている風にしたほうがいいだろうか、直前でそう思ったけれど、声と表情を作るには少し遅かった。気の抜けた顔のまま棘のある声を出すなんておかしな真似をしてしまったが、状況からある程度推察できたのか、彼は特になんのリアクションもしなかった。ちらりとこちらに目だけをやって、

 

「おー、邪魔してんぞ」

 

 そう言って視線を手元に落とす。見ているのはスマホだった。

 

「降られたんだろ」

「そ」

 

 彼が着ていた青い制服は重たげに濡れて椅子の背もたれにかけられ、手袋も外して机に並べられている。ハンガーにかけるくらいしたらいいものを。どうせ場所くらい知っているのだろうに、本当に横着ばかりだ。

 いつも制服の下に着ている黒いシャツを肘の手前まで捲くっただけの格好で、相変わらず感情の薄い目でスマホを弄っている。見ているのは天気予報だったらしく、「降ってることにすらなっちゃいねー」と不満げに吐き捨てて、それを机に放った。スラムに気象を観測するための設備なんてあるわけもないから、予報を見たって仕方がないというのに。生まれた地であるので彼も分かってはいるくせに、つまるところすることがないのだ。

 

 最悪だ、と声を落としながら、コンビニで買ったものを袋ごと机に置く。来ると分かっていたら軽食くらいは買ってやったのに、あの数分のあいだに入れ違いになるなんて、お互い器用なものだ。見るものがなくなって暇なのだろう彼の視線を感じながら、シャワーでも浴びようと廊下へ足を向ける。

 こんな天気ではテレビだって映らないだろう。そう思って一歩踏み出した瞬間、背後でかたりと静かな音がしたあとで、くいと後ろへ引っ張られる感覚がする。

 

「…カオル?」

 

 振り返れば、椅子から立ち上がった彼が、俺の手首を掴んでいた。顔色を伺ってみても、あるのはやっぱり波のない、強い牡丹色のひとみだけ。

 

「なんだよ」

 そう言って、眉を寄せて苦く笑ってしまう。もっとしゃんとしていようと、いつもは気を張っていられるのに。彼の突拍子もない行動に困ると、いつもこういう顔になる、今日は仕事がないからと特別気が抜けているのかもしれない。自覚しているならば癖は早く直さなければ、いつか誰かに足元を掬われる。そんなことは分かっているのに、どうせこんな頼りのない顔を知っているのは彼だけなのだからと先延ばしにして、ああ、気が抜けているのは休みだからなのではなくて、カオルの顔を見てしまったからなのか。

 呑気にそんなことを数秒考えて、それでも俺の言葉にすこし目を細めただけで黙ったままの彼に、どうした、と首を傾げて返事を促すと、彼の左手に握られた手首がぎちりと軋んだ。

 

「…、鳴海」

 

 その喉から発された低い声に、思わず後ずさる。怒って、…いる、というわけではないようだが、様子がおかしいのは明らかだ。

 俺が空けた隙間を埋めるどころか更に距離を詰めるようにカオルが大股で一歩踏み出して、凄まれた俺は困惑してまた半歩下がって。繰り返しだ。ついに背中に壁があたる、これ以上はもう下がれない。

 なんだと聞いてもカオルは応えやしない。掴んだ俺の右の手首を後ろの壁に縫いつけた彼は、逃がさないという意思を重ねて示すようにぐいと顔を近付けて、俺はそのひとみに射抜かれたままで息を飲んだ。

 

「…お前はなんでそうなんだよ」

 

 え、と転がった声を彼が押し退けて、当たり前のようにその鼻先が俺の首筋に擦り付けられる。そこは、と強張った肩を、まだ気が済まないとでも言うつもりなのか、彼の右手が壁に押し付けた感触から一拍遅れて、彼が俺のうなじをやわく食んだ。ひ、と喉が引き攣る、知っているくせに、そこが敏感であることを。恐らくは異能のせいだ、言霊を使うほど、それを発動させるほどに関連する部位の感覚が研ぎ澄まされて、だから、

 

「ん、っふ、やめ…っ」

 

 知っているくせに。

 昔にあれだけ首元を擽られ遊ばれたのだ。さすがに覚えている、はずなのに、どうして。

 

 やめてくれ、と、その胸板を捕まっていない左手で押し返してみても、なにを、と呟いてみても、やはり彼は応えない。歯を肌から離すことなく短い間隔で何度も甘くそこを噛まれて息が上がる。見えるのは晒された彼の白い首筋ばかりで、なにを考えているのかなんて分かりっこなかった。声かひとみが、その動きと色さえあれば、なにかを汲み取れるのに。分かっているからあえて隠しているとしか思えない。

 うなじを苛んでいた彼の歯が一瞬微かに離れ、途切れた刺激に今しかないと押し返す手に力を込めたけれど、腕が伸びきるより先に今度は柔らかくかさついたものが触れる。それが彼のくちびるだと理解した瞬間、かっと体温が跳ね上がった。ちう、と軽く肌を吸われ、びくりと肩が跳ねる。

 

「っひゃ、…っん、お前、どうしたんだよ…っ」

 

 強弱をつけ繰り返し喉元を吸われる感覚に、押し返そうとしていたはずの手から、力が抜ける。これが彼でなければ、椎葉カオルでさえなければ、もっと強く抵抗できたのに。彼が俺に触れるのをやめさせるのが昔から苦手だった。どんな刺激であろうとも、それが彼にもたらされたものであるだけで、どうしても体が受け入れようとしてしまう。彼の低い体温に、依存している。

 

 俺の体から力が抜けたのを見計らってか、ろくな抵抗などしないことを分かっているからか。肩を押さえつけていた彼の右手が離れ、吸っているのとは反対側の耳へと滑り込んだ。耳たぶを数回遊ぶように摘まんだあと、顎の付け根のうしろから首筋にかけてを軽く押し込みながら下がっていき、鎖骨まで下りるとまた耳元へ戻る。それを繰り返されるだけで、まるで逆上せたように頭がくらくらして、膝が笑った。

 

「っあ、んゃ、カオル…っ」

 

 声も聴かせてくれないこんな状況で、縋りつけるのは彼の首筋だけだった。胸板を押していた手で彼の肩を掴んで、頬を擦りつけるように、その肌へ寄せる。見えるのはもう彼の括られる長い髪と耳くらいだけれど、少しだけ体温が近付いたことに安心が湧いた。

 

 彼だけは俺になにをしたっていいのだけれど、さみしいのは苦手だ。さみしくないことを俺に教えたのは彼なのに、置いていくのはいつだって彼のほうだ。声くらいきかせてくれたっていいのに、やっと帰ってきたというのに。訴えるように、そのシャツを強く握りこんだ。どうせ皺ができたって気にするようなやつじゃない。

 

「…鳴海」

「ひぁ…っ♡」

 

 首筋に顔を埋めたまま、彼が俺を呼ぶ。嬉しくてぞわりと痺れが背筋を這って、目をかたく閉じた。腰が抜けて壁に沿ってずり落ちて、差し込まれた膝に支えられる。俺の訴えが通じたからかどうかは知らないが、応えるために額をぐりぐりと首と肩のあいだに押し付けた。情けない声が出るばかりだからと、求めておきながら返事ができないことを申し訳なく思った。

 彼は掴んでいた俺の手首をそっと壁から離し、今度はその手の甲を捕まえると、引き連れて手を下へやった。肩で息をしながらなにをするのかと待っていると、あついものが布越しに、俺の手のひらに押しつけられた。

 

「ぁ…♡」

「なにを、って、ほんとに分かんねーの」

 

 ぞくぞくと甘い電流が腰に雪崩れこんで、今度こそ本当に、身動きがとれなくなった。

 

 

 

 俺はどうして彼に抱かれているのだろう。

 床に転がされながら、遠い思考でそんなことを思う。当然まとまるはずもなく、答えなんか見つからない。

 

「あ、っひぅ♡っや♡や…♡」

「やーじゃない」

「やぁあっ♡」

 

 彼のいつもより温度の上がった手が俺の腰を掴んで、不規則なリズムでなかを穿ち、かと思えば奥まではめこんだまま小刻みに抜き差しして、腹の底に快感を植え付ける。体は作りかえられたように喜んで、彼のものをきゅうきゅう締めつけて奉仕している。

 首を振って刺激に抗ったところで意味はない。繰り返し打ち付けられるものがなかを擦って、それが彼のものなのだというだけで、やっぱり俺の体は喜んで受け入れてしまうに決まっている。見つけられたしこりを先端でやわやわと押し込まれると、それだけで喉は仰け反り、腰がガクガクと跳ね上がった。

 

 きもちがよかった。どうしようもなく。

 

 相変わらず彼はほとんど喋らない。顔が見えない体勢というわけでもないが、襲いくる快感に悶えて目を閉じてしまうから、彼のひとみがどんな色をしているかは、やっぱり分からない。これでもかと注ぎ込まれたローションが、彼が腰を揺らすたびにぱちゅぱちゅといやらしく鳴り、こんなはしたない音なんかより彼の声が聞きたいなんて、場違いなのかどうかも分からないことを考えた。

 

「あ、なんで、なあ、っなんでぇ…っ♡」

「黙ってよがってろ、うっせぇ」

 

 なにを、は、分かった。けれどなぜ、が分からない。だから聞いているのだというのに、やっとこたえたかと思えばこれだ。とてつもない虚しさに襲われて、きつく閉じた目から、とめようもない涙がいくつか落ちていった。

 俺が憎らしいから、こんなことをするのだろうか。ネジが何本も飛んでいってしまった頭で考えてもろくな答えは出ない、それは分かっているのだが、考えずにはいられなかった。怒ったような棘のある声に反して、ひどく優しい手つきとか、乱暴に穿つばかりでもない腰だとかに惑って、彼の本意がまったく見えてこないのだ。

 カオルは感情を勝手に推察して仮定されるのが嫌いだ。そう知っているから余計に、曖昧な意識で拾った情報だけで、彼の思考を決めつけたくはない。そう思う理性が、だったらこの行為が終わるまで待って、落ち着いたときに改めて彼を観察すればいいと脳に訴えているが、じゃあやり場のないさみしさをどう紛らわせばこの場をやり過ごせるというのかと、理性が溶かされ顔を出した感情が叫ぶ。黙っていろと言いたくても、奥をぐりぐりと揺する彼の熱に、理性はみるみる剥がれていった。

 まるで労わるように俺の内腿を撫でた彼の手に、また混乱する。頭を必死に働かせているのに、体はただ彼からの刺激に喜ぶばかりだ。引き摺られて思考が途絶えそうになる。

 

「…泣くなよ」

「ぁ、らって、♡なんで、ぁよ、おまえ、っこわい…っ」

 

 ああ、もう、どうしてそうなる。彼のせいにするような言葉が出てくるのはいつものことだが、この状況じゃ悪手だろう。片隅に欠片だけ残った理性がそう吐き捨てるが、俺が嫌いだからなのか、という最悪の言葉を辛うじて引きとめただけ褒めてほしい。脳に直接叩きつけられるような快感が絶えず打ち込まれて、もうなにもかもが限界なのだ。

 数秒の間を置き、彼は重く溜め息をついて律動を緩めた。恐る恐る開いた目が映したのは、

 

 ひどく欲情に塗れた、彼の熱いひとみだった。

 

「ひゃぅ…っ♡」

 

 ドクドクと心臓が壊れたように脈打つ、突きたてられるうしろがばかみたいに締まったのが自分でも分かる、逃がしようのない快感が全身を支配して跳ねさせる。俺がなにに感じているのかなんて一番よく分かっているだろうカオルが、ぎゅうと顔をしかめて舌を打ち、両手で強く俺の腰を掴み直すと、緩めていた動きを今までにないほど激しいものへと変えた。

 

「っお前見てるとイライラすんだよ…!」

 

 俺に快感を拾わせるためではない、それこそひたすら乱暴なピストンに、強制的に絶頂へ引き寄せられる。視界がちかちかして彼の声が遠くなる。代わりと言うように彼がすこし上半身を傾けて、角度が変わったことにまた痺れが生まれて、腰はまるで痙攣を起こしたようにビクつき続けた。ぬめったなかが彼を受け入れるためだけに濡れたような錯覚に陥って、奥はきゅんと疼いて彼に媚びる。彼のものがなかで脈打っていることがひどく嬉しい。理性は視線がかち合った瞬間に完全に溶けきってしまって、全身が彼に、カオルになかに出されることを、今か今かと待ち侘びている。

 

「あ、あ♡ぁ、っあぅ、ひ♡あ…!」

「俺にだけ無防備で、俺にしか見せない顔で笑って、甘ったるい声で俺を呼びやがって、本当に腹が立つ…っ」

「んぅッあ♡あ♡らぇ、や、あ、あ、♡」

「抱き潰したくなる、笑うだけで、呼ぶだけで死ぬまで犯してやりたくなる、は、っ俺のモンだって、体に教えこんで、グチャグチャにしてやりてぇ」

「あ♡あ♡ァあっ♡きちゃ、ぁ、かおる…っ!」

 

 どちゅん、と、いっそう強く熱を捻じ込まれ、視界が白ける。すべての音が遠ざかるなか、体内に吐き出された彼の熱い欲だけを、ひどく近く感じた。

 

 

 

 意識を飛ばしていた間にカオルがすべて片付けていたようで、浮上したときには何もかもが綺麗になって、彼が帰ろうとしているところだった。仕事か、と聞けば振り返って、退勤時間は過ぎたから直帰する、なんていい加減なことを言う。

 ならいいだろう。まだ重だるい体でなんとかその手を引っ掴んで、転がされ適当に毛布をかけられただけのベッドのそばまで引き寄せた。こいつでも後ろめたさを感じることがあるんだな、なんて、本人に知られたら頭を引っ叩かれそうなことを思う。顔を顰めてばつの悪そうに視線をそらすさまが新鮮で、なんだか面白かった。

 俺を六年待たせたときも、同じくらい申し訳なさそうにしてくれればよかったのに。それに関しては、未だに悪びれるそぶりひとつ見せやしない。

 

「…なに嬉しそうにしてんだよ」

 

 気付いた彼が余計に面白くなさそうに低く唸る。なにを言っても不貞腐れるのだろうから、なにも言わずに掴んだ手をきつく握った。たいした力は入っていないのだろうけれど。

 

「…聞こえてたの」

「一応」

「へー…めちゃくちゃだったクセに、意味は分かったかよ」

「微妙だったけど、落ち着きゃそれなりに」

「あっそ、……殴ったら忘れる?」

「試してみるか?」

 

 ああ、またこの顔になってしまった。彼が言っていた「腹が立つ」顔、というのは、恐らくこの笑い方なのだろうに。

 案の定、カオルは不貞腐れた顔をした。二度目の舌打ちをして乱暴にベッドに潜り込むと、渋々といった手つきで、俺の頭を一度だけ撫でた。

 

つれない右手

 

 ふたり分のばかみたいな笑い声が部屋にこだまする。薄らと顔を赤くさせたカオルは、二、三叩いた手でまた缶ビールを煽った。

 

 昼間、大掃除を一切手伝わない彼を怒鳴ったりもしたが、過ぎてしまえば些細なことだ。カオルは俺に言われたくらいで行動を改めるような人間ではないから結局ずっと寝ていたけれど、俺の部屋なんて物なんかほとんどなくて台所だって滅多に使わないから、大してやることもなく楽だったのだし。何より今はとてつもなく気分が良い。だからもうどうだっていいのだ。

 大晦日の夜、毎年恒例のテレビ番組を見ながら酒を飲み、時折つまみをつつく。角を挟んで斜めに座る彼が笑っている。

 そんな空間に年末特有の浮かれた空気が混じっているだけで、どうしようもなさに叫びたくなるほど幸せだった。頬がずっとだらしなく緩んでいる。

 

「なあ、」

 

 また一缶あけたらしい、今度は悪酔いすると有名なレモンサワーのプルタブに手をかけながら、カオルがこちらを振り返る。けれど目が合った瞬間、彼は少しだけ目を丸くして硬直してしまった。ん、とつられて目を瞬かせながら首を傾げるが、カオルは缶を机に戻しただけで、やはりなにも言わないまま、じっと俺を射抜いている。

 

「どうした?」

 

 そんなことすらなんだかおかしい、俺はひどく機嫌がいいのだ。破顔している自覚はある、俺もワンカップをもういくつもあけていて大分酔っているものだから、余計にだ。それでも見ているのは彼だけなのだから、今日くらいはいいだろう。ふたりだとどうにも気が抜ける。

 

 ぱちり、一度瞬いただけの間に、カオルの手がすっと俺の後頭部に伸びてきて、え、と転げ出た情けない声は、そのまま彼のくちびるに吸い込まれた。驚いて瞠った目は、しかし彼の強い牡丹色のひとみに「閉じろ」と促されて、ゆるゆると瞼の奥にしまった。アルコールで火照った舌が俺のくちびるを柔くなぞる、そのいつもの合図に癖で応えてしまって、カオルがなにを思っているのかもよく分からないまま、異能ゆえか弱い口内を刺激されて、なおさらなにも分からなくなった。

 酸素を取り込むのに必死なばかりの俺の肩を、カオルがそっと押した。

 

 

 

「や、♡っはあ、ぁ、ん♡」

 

 テレビからは相変わらず笑い声が流れ続けている。それを認識できるのは、カオルの呼吸が聞きとりにくいからというだけだ。消してほしい、そんなことを伝える余裕は既に無い。気持ちよくて頭がどうにかなってしまった。

 

 もう自分が何度達したのかなんて覚えていない、カオルは一度はじまると長いのだ。もう右も左も分からないほどぐずぐずで、怖いくらいに敏感で、少しの刺激でも快感が体に溜まってすぐにイッてしまう。そのたび彼は律動を緩めて、絶頂の波が引くまで待ってくれる。

 曰く、俺が理解できる範囲の快感を与え続けることで、意識を保ちながらも理性が溶けた状態にするのが好きらしい。だから俺は行為のほとんどを覚えていて、翌朝には羞恥のあまり死んでしまいたくなる。

 

「っひゃ、あ!やあ、も、ッ♡おかひ、なぅ、から♡」

「だから、何回もなってるって」

 

 今更だと彼は言う。それでも新たな醜態を見られてしまうのは嫌だから言っているのに。やっぱり説明する余裕なんてない。

 

 ずろろ、とゆっくり彼のものがギリギリまで引き抜かれて、カリがしこりに引っかかる感覚に喘ぐ間もなく、勢いをつけて奥を突かれる。最奥は決して破らず、やっぱり俺が処理できる程度の快感を、それでも叩きこまれ続けている。頭がふわふわして、口はだらしなく開かれたままで、体だって力なんかとっくに抜けきっていた。みっともなく開いた脚は、掴まれてもいないのに閉じられない。焦点の定まらない目で、必死にカオルのひとみに縋りつく。

 

「あ、ッひ、ぁっ♡こわれ、ひゃ♡あぅ、っ」

「へーきへーき、ここには入れねーから」

「~っ♡あ、あ、そこっやあ♡」

「知ってるよ」

 

 結腸の入り口をトントンと優しくつつかれる。ぞくりと快感がせりあがって、全身がばかみたいにビクビク跳ねた。過去に一度そこを突き破られたことがあるが、そのときに俺は完全にトんでしまって、それがお気に召さなかったらしいカオルは、以降決してそこを冒さない。度を超えた快感を俺は処理できなかった、はずなのに、一度知った快感を目の前にぶら下げられ、腹の底がきゅんと疼く。彼はそれに薄く笑って、腰を掴んでいた右手で数回俺の髪をくしゃりと掻き混ぜたあと、指を絡めて手を繋いでくれた。いつもは低いのに少しばかり温まった体温と、てのひらに圧し掛かる彼の重さとが嬉しくて、脱力しているながらも必死にぎゅうぎゅうと握り返す。うれしい、きもちいい。彼のことがだいすきだ。

 

 ぱちゅ、ぱちゅんと、肌がぶつかる少し水っぽい音と、彼の呼吸を遠ざけるテレビの雑音。もうどんな音が流れているかも分からない、ただ余計な音だとしか認識できていない。

 

「お、そろそろだ」

「ふあ、っ?ぁに、っ♡んぅッ♡」

「年明ける」

 

 ああ、繋いでくれたばかりだったのに。彼の右手が離れて、なにかをごそごそと引き寄せている。追いかけるように腕に縋りついても、引き寄せたなにかを弄るばかりで握ってくれない。なんで、どうして、さみしい。カオルの左手に腰を掴まれたまま、ぐり、と角度を変えて奥を突かれ喘ぐと同時に、しがみついた彼の腕を放してしまった。もうとっくに涙はぼろぼろ流れていたけれど、心細さにまたひとつ溢れ出た。

 

「あと一分」

 

 そう言ってカオルが持ち上げたのは、以前に「左利きだから手帳型ケースが使えない」とぼやいたきり、結局裸のままで使われているスマホだった。言っていることはほとんど理解できないけれど、ただ彼がちっとも俺を見なくなって寂しい、ということだけは分かる。退屈させているのだろうか。締めようと思ってもやまないピストンに筋肉は弛緩してしまっている。そういえばカオルが最後にイッたのはいつだったか、気持ちよくないのかもしれない。

 

「ごめ、っなさ、ぁ♡ぅ、っひあ、ッ♡」

「ん?どした」

「きもち、く、ないよな、っあ、ぁ♡ちから、はいんな、くて♡」

「そうか?ちゃんと気持ちいーけど」

 

 ちらとカオルが俺の目を見て、なんだか呆れたように笑った。柔い表情とは裏腹な、獲物を見るようなするどいひとみにみとめられ、一度大袈裟に腰が跳ねた。それを満足そうに見ていた彼は、けれど再びスマホに視線を戻してしまう。ぎゅうと目を瞑って、嗚咽は息とともに飲み込んだ。くちびるを噛んだ瞬間、どこかでゴトンと鈍い音がして、

 

「明けたぞ、今年もよろしく」

 

 ずっと近付いた彼の声に目を開くと、視線が絡んだと同時に左手にまた体温が触れる。うれしくてやっぱりまた涙が落ちて、今度こそ離されてしまわないよう、しっかり繋ぎとめる。相変わらずカオルがなにを言っているかなんてのは分からないままで、それでも俺に話しかけてくれることがしあわせだった。

 

「かおる、♡ちゅ、してぇ、っ♡」

 

 彼のものがなかで一度だけ脈打って、よかった、きもちいいんだと安堵する。呆れたような困ったような、そんな顔ですこし笑ったカオルが深く口づけてくれて、きゅうきゅうと締めながらまた達した。

 

 

 

 風呂場で諸々を洗い流してくれたカオルに連れられ部屋に戻ると、つけっぱなしのテレビから、新年を祝う言葉と、乾いた拍手の音が聞こえてくる。彼は今更になってそれを消すと、俺をベッドに座らせて、自分ももぞもぞと潜り込んだ。

 アルコールは涙でほとんど流れていってしまった気がするが、未だ頭はふわついている。じんわりした多幸感は脳に残ってしばらく抜けてくれないのだ。意識を失わせてくれない行為は、終わったあとのこの時間が一番厄介だと思っている。彼に触れていたくてしかたない、もっと甘やかされていたいという溶けた思考が、ずるずるとあとを引く。

 

「年明けたとき教えてやったんだけど、聞こえてた?」

「…ぜんぜん」

 

 やっぱりかあ、なんて間延びした声で言いながら、カオルは俺の頭を撫でる。もういつもの低い体温に戻っていたけれど、俺はそれさえすきだった。いつも通りの、彼のものだとすぐに分かるつめたい左手が、なぞるように頭を何度も行き来するだけで、うっとりと瞼が重くなる。けれど寝てしまうのももったいなくて、瞼を擦りながら襲いくる眠気に抵抗するのが常だった。

 

「…スマホケース、なんか買ってやろうか」

「え、なんで?別にいらねーけど」

 

 笑うでもきょとんとするでもなく、普段と変わらない淡白な表情のままそう返したカオルは、案外手帳型ケースがほしいなんて自分が言っていたことすらも、覚えていないのかもしれない。そうかとだけ返したら、それ以上声を出すのも億劫になってきたので、髪を梳きだした彼の温度を黙って感じることにした。ひらいていようと思っていたはずの目は、結局抗いきれずに瞼の向こうにしまわれる。

 

「傷んでんなあ」

 

 まどろみに落ちていく意識のなか、俺の髪をひと房掴んで撫でつける彼の指の動きと、笑うように吐き出された声を、辛うじて拾った。

 

 

だからきみは

※オメガバース※

『19時いつものファミレス集合』

 仕事を切り上げふと携帯を見ると、カオルからそんなメッセージが入っていた。
 正直、その文字をみとめたとき、心底会いたくないと思った。昔はあんなに好きだったのに。いや、今もこんなにも好きだから、と言うほうが正しいのだろうけれど。

 かつて俺はカオルと番っていた。そう、もう昔の話。
 俺は抑制剤を服用し、Ωであることを隠してβだという顔で生活していたのだが、ある日カオルの忘れていった服やら雑誌やらの私物が掻き集められたベッドを見られ、Ωだと気付かれてしまった。まだ中学生だった頃のこと。巣作りでバレるなんてと、自分の本能を呪っている俺に構うことなく、彼はあろうことか突然俺のうなじを噛んで、勝手に番になってしまったのだ。翌日確認したら、たしかに二の腕に所有された証である痣は浮かんでいたが、噛まれた瞬間はよく聞く幸福感なんてものは微塵もなく、いやあったのかも知れないがそんなものを優に上回った呆れに支配され、シアワセを実感するどころの話ではなかった。ただただ呆然とするばかりで、怒りさえ沸かなかった。春、3月24日付近は別として、度重なる俺の体調不良は抑制剤の副作用によるものだろう、と、彼は薄らと勘付いてはいたらしい。だからって、と思ったし言ったけれど、そんなのはどこ吹く風で、けろりと彼はなんと言ったか。

「だってお前俺のこと好きじゃん」

 愕然として、今度こそなにも言えなかった。図星だったとも言う。

 けれどそんなのは若気の至りだ。学生時代の過ちだ。高校を卒業して、俺は千秋さんの会社に、カオルは役所勤めの公務員になってから、当然会えない日が続いて、精神的な距離も開いていった。いつか、そう、今日にも彼が言った「いつものファミレス」に呼び出されて、そこで一方的に番の解除を求められたのだ。同僚の女性と付き合っている、結婚の話が出ているから別れてほしいと。それが24歳、秋の話だ。俺に拒否権なんてなかった。彼はミルクをひとつ入れたドリンクバーのコーヒーを飲みながら、明後日を見ながら俺にそうつきつけたので、ああこれはもう決定事項なのだと、俺は次の瞬間には黙って頷きながら、そういう世界を脳に馴染ませる作業に取り掛かっていた。ファミレスを出て別れる直前、彼はあっさり俺の喉仏を噛み番を解除すると、じゃ、と言って振り返ることなく去っていった。そうして身をもって知ったのは、番を解除されたΩは二度と他のαとは番えなくなる、という噂は本当だったのだということ。
 それだけだ。彼とは本当にそれきりだった。去年その女と式を挙げたらしいが、当然それにも呼ばれはしなかった。呼ばれてたまるものか。なぜだか呼ばれたらしい鏡見が面白がって俺に新婦の話を聞かせたが、8割も覚えちゃいない。黒髪の美人だったらしい。お似合いだよ、クソが。

 そういうわけで、26になった今も未練たらたらである俺のもとに届いた、そのメッセージ。行くか、否か。その通知を眺め、退社していく同僚に散々怪しまれつつ、駐輪場でバイクに腰をかけながらかなり迷った。断ったところで彼は聞き入れるのだろうか、会いたくないという俺の感情を果たして理解してくれるものか。いや、きっと分からないんだろう、なんたって相手はあのカオルであるわけで。気遣いなんかじゃなく興味のなさから俺を2年放置した男だ。情を求めるのは無理がある。かといって無視を決め込んだら、どうだろう、さすがに家に押しかけてきたり、は、…残念ながらしないとも言い切れない。なんたって彼は、捨てていなければまだ俺の部屋の鍵を持っている。返せと言いそびれた俺も悪いが、しばらくは放心状態だったのだから、察して郵便受けに入れておくくらいしてほしいものだが、やはり相手が椎葉カオルである以上、汲んでくれというのは無理な話だ。
 俺は散々迷った末、いまだ彼の私物の転がるベッドを見られるという最悪を回避するため、「分かった」とだけ返しておいた。

 の、だが。やはり来なければよかった、彼の私物はさっさと燃やすなりなんなりして、しばらくネカフェに寝泊りすれば良かったと、そんな後悔に苛まれることになった。
 見慣れた頭を見かけて席に鞄を投げると、彼はとっくに食事を始めていて、ドリンクバーなら頼んであるから取ってくればと言うのでコーヒーを持ってきたところで、

「今日抱かせろ」

 ああもう、これだからこいつは嫌なんだ。

「…なんで命令形なンだよ」

 もっと他に言うことがあるだろうと自分でも思ったが、呆れてこれしか出てこなかったのだ。俺の刺すような視線など気にもならないらしいカオルは、呑気にカルボナーラを口に運びながら尚も言い募る。

「ここお前の奢りな」
「意味わかんねェよ、てめェが呼び出したんだろうが」
「メシくらい奢ってもらわねーと割にあわねえんだよ」

 これから抱かれるらしい俺はもっと割に合わないのだが、どうだろう、そのへん分かってもらえないだろうか。無理だろうな。抑制剤の副作用だけでなく痛んでいる胃を労わるように、腹をひとつ撫でた。

「…つか、何の話」
「抱かせろ」
「そうじゃねェよお前ほんとのバカか、なんでそうなるんだよって聞いてんだろ」
「お前のせいで別れた」
「…、はァ?嫁と?」
「お前のせいで」
「まったく話が見えねェよバカ」

 別れた?彼は今別れたと、そう言ったのか。離婚したと?どうして。それをなぜ俺に知らすのか、そしてどこに俺が関与していると言うのか。当然この2年はカオルと、相手の女に至っては顔すら知らないと言った通り生涯一度も関わったことなどない。それは彼自身がよく知っていることであるはずだ。一体どんな因縁をつけられているというのか。
 埒の明かない会話とその衝撃に疲れ、ひとつ溜め息をついた。彼だって本気で俺の聞きたいことが分からず意味不明なことを口走っているわけではない。そのうち言うだろうと思い、今日はサラダくらいは食べられるだろうかとメニューに手をかけたとき、カオルは重々しく口を開いた。

「…抱けねーんだよ、気が乗らない」
「あ?」
「番、解除したよな」
「まァ」
「抱けなくて、そんで離婚」
「………お前まさか勃たなく」
「ざけんな」
「…それで俺で試すとか言ってんのか…」

 だめだ、俺も大概だ。俄然心配になってきている。そうだろう、男にとってこれは死活問題だ。といっても既に離婚は成立してしまったらしいので、手遅れ感は否めないが。
 その後は特に会話もなく、ただカオルが食べているのを眺めたばかりだった。もう半分も残っていないカルボナーラを見て、なんとなく今から食事を頼むのも憚られ、メニューは開くことなくもとの場所に立てかけた。そうして本当に奢らされた。珍しく一人前しか食べていないようだったし、安いものだから別に構わないのだが、なんとなく腹は立った。大体一杯ずつしか飲まないのにドリンクバーを頼むなんてどうかしている。バカ、と三度目の罵倒を頭で唱えながら、店をあとにした。

 当然向かったのは俺の家だ。玄関を開くなり強い力で押し込まれ、後ろ手に鍵を閉めたカオルに壁に縫い付けられる。そのまま貪るようなキスをされた。
 それだけはしないでくれ、と、言おうと思っていたのだが。

「ふ、…は、ぁ」
「…鳴海」

 あぁ、久々にそんな風に呼ばれた。熱のこもった声で俺の名を呼ぶ彼がひどく恋しくて、押し返そうと胸に添えていた手は彼の服をくしゃりと掴む。ぺろりと唇を舐める合図も変わらない。これを女にもしていたのだろうか、とぼんやり思いながら薄く口を開いて、入り込んでくる彼の舌を受け入れる。歯をなぞり、上顎を柔く撫でられ、熱い舌が絡む。それだけで頭はなにも考えられなくなっていくのに、仕上げとばかりに舌をぢゅっと強く吸われ、あっけなく膝が折れた。知っていたとでもいうように彼の右膝が差し込まれる。

「あ、ぅ…」
「…くち、弱いよな」
「うるせ、ほっとけ…」
「誰かとヤッた?」
「…わけねェだろ」
「だろうな」

 なにが言いたかったのか。カオルは鼻で笑いながら、乱雑に俺の服を剥いでいく。掴んでいた手を邪魔だとばかりに振り払いパーカーを脱がすと、インナーをたくし上げ「咥えろ」と言う。さすがに躊躇して目を泳がせていると強引に口に突っ込まれた。こんなにがっつくやつだっただろうか、まぁ溜まっているのだろうが。そのままベルトを外し下着ごと床に落とす。片足を持ち上げさせると腰に持っていき、巻きつけろと動作で示されたので大人しく従っておいた。この調子では逆らったらなにをされるか分からない。床で揺さぶられるのはごめんだ。
 わざわざ用意していたらしいパックされたローションを食いちぎり左の指に垂らすと、ろくに温めもせず俺の後ろを解しにかかる。ひやりとした冷たさに、ひ、と小さく息を飲んだ拍子に突っ込まれたインナーを離してしまったが、めくれたままだからか、特に再び咥えさせられるということはなかった。抑制剤を飲んでいると言った通り俺は発情期の真っ最中で、待ち望んだカオルの指を歓喜し受け入れる。すんなり入った指に気を良くしたのか、彼はまた俺の口を塞いだ。くちり、とどちらからしているのかも分からない水音が久しぶりに聞くとなんだか恥ずかしくて、かたく目を瞑りながら羞恥に耐える。暇を持て余したような右手がローションを放り投げて胸をくりくりと摘んで、悲鳴は彼の口に消えていった。角度を変え口づけがより深くなり、ついでのように指が二本に増え、いけると思ったのか大した間もおかず三本に増える。さすがに少しばかり痛かったがそんなのは一瞬だ。

「はっ…クソ、んでだよ…」

 離れていくくびちるを名残り惜しく思っていると、カオルはイライラした様子でそう呟いた。何でと言いたいのはわりと俺のほうなのだが。なかで三本の指がただそこを拡げるためだけに動き、それでも時折前立腺を指の腹で押されると女のような声が出た。

「ンぁ!あ、っひ、ぅ」
「あー…ムカつく…もういいだろ」
「ぅ、い、けど…あ、っお前、ちゃんと勃ってん、の、」
「殴るぞ」

 咎めるようにいっそう強く胸を摘まれ、背が仰け反る。じろ、と心底イラついているらしい目に睨み上げられながら視線を下へ流せば、確かにそれは既に上を向き硬くなっているのがスラックス越しにも分かるほどだった。あぁ、なんだ、大丈夫じゃん、だったらもう解放してもらえないだろうか。無理か。
 ばかなことを考えながら、彼が俺の胸から手を離しゴムを取り出して咥え、器用に利き手ではない右手で前を寛げていくさまを眺める。発情期じゃなけりゃ生でいいなんて可愛いことも言えたのに、なんて思っていると腰に回した足がずり落ちて、律儀に抱えなおされた。腹の奥がじゅくじゅくと熱を持ち、だらしなく濡れていくのを感じる。かき混ぜるような指の動きに水音が激しくなって、思わず振り落とされた両手で耳を塞いだ。

「こら」
「や、めろ、はずかし…っぁあッ」
「あずかしーの好きだろ」
「ちが、あ、」

 ゴムを咥えて舌ったらずになりながら、また手を胸へやって爪を立てた。痛みに浮いた手と耳の隙間に鼻を滑り込ませ直接吹き込まれた言葉に、違うと首を振った、のだけれど、喘ぎながらでは説得力はない気がする。案の定、カオルは口角を持ち上げながら指を引き抜いた。その指でゴムを掴むと、ビリ、と袋を食い破る。
 スラックスごと下着を下げ、熱くなったそれを取り出して手早くゴムをはめると、俺にあてがう。挿れるぞ、と低く落とされた声に肩が跳ね、腹の奥がきゅんと蠢き、漏れた液体が太腿を伝う。行き場のなかった腕をどうするか悩んで、体を抱くように両手で肘を掴んだけれど、溜め息をついたカオルが自分の首に回させた。おずおずとその腕に力をこめると、ぢゅぷ、と彼の先端が埋まる。

「あ、ぁ♡や、だ、抜け…!」

 恐ろしいほどの充足感と多幸感。満たされてしまう自分が虚しくなって、頭を振りながら抜いてくれと懇願したが、そんなものここまできて聞き入れられるはずがない。分かっていてもやめられなかった。抜けと繰り返す俺がうるさくなったのか、カオルはひとつ舌打ちをすると無理やりキスで黙らせる。彼のキスは昔っからとろけるようで好きだ、他の人間としたことなんてないけれど。これをされるとどうにも弱く、頭が真っ白になってしまうのだ。恐らくはそれを知っている。
 かなしい、と思った。これが終わったら、彼は彼の日常に帰ってしまう。振り返らずに去っていく。たまらなく怖かった。どうせだったら妊娠させて、もう俺もカオルも逃げられないようにしてほしかったと、みっともない女のようなことを考える。

「ん、ッふ、ぁ♡んんっ♡」
「は、…なるみ」

 情けない喘ぎ声も、嗚咽も、なにもかもを飲み下していく彼のくちびるが息継ぎの合間に俺の名前をなぞるたび、胸が引き攣って後ろが締まる。好き、だった。好きだったのだ。彼に呼ばれることだけは。ぼたぼたとなんのせいかも分からない涙が止まらない。

 昔よくしていたゆっくり撫で上げるようなものではなく、本当に欲を吐き出すため繰り返される自分勝手なピストン。それでも前立腺を巻き込みながら奥を無遠慮に突かれるとたまらなくよかった。腰を掴んでいた左手が俺の頭を抱きこんで、数回慰めるように撫でたあとくしゃりと髪を掴む。きつく首に回していた手に力をこめると、ゆっくりくちびるが離れていって、そのまま俺の鎖骨に額をつけた。熱い吐息があたってくすぐったい。

「ぅあ、あ♡も、かおる♡おれ、も、や、」
「あー…俺も、そろそろ」

 限界を訴えるとストロークがより深く大きくなり、強制的な快感に昇りつめさせられる。顎が上を向き、みっともない声をあげなら達して後ろをきゅうと締め付けると、少し遅れてカオルも俺のなかで果てた。


「…いつまでいんだよ」
「寝てく」
「…、…まじか」

 甘い事後なんてものは番っていたころからなかったけれど、今日ばかりは特別冷めているのは気のせいではないだろう。未だ彼の私物が寄せ集められたままのベッドを見ても何のリアクションもせずそのまま寝転がったカオルは、先ほどからずっと携帯を弄っている。俺としては気まずくて仕方ないし、本当に今すぐ帰ってほしいのだが。察してはいるくせ決してそれを配慮した行動をとらないのは、まあらしいといえばらしいのだけれど。
 ともかくそういう男だ、こう言っている以上今日は本当に帰らないのだろうからさっさと諦めようと決めて、俺も布団をかぶる。隣にひとの体温がある、なんて何年ぶりだろう。眠れるだろうか。そう思いながら天井を眺めていると、携帯を放ったカオルが俺を見た。

「まだ俺のこと好きなんだろ」

 お前がそれを、言うのか。そう思って目を伏せた。知っているなら答える義理はない。さっさと眠ってしまいたい、彼の隣で意識を保っているのはもはや苦痛だ。誰にも暴かせたことのない心の奥底を、彼は簡単に踏み荒らしていく。一度それを許したのは俺で、だから文句は言えないのだけれど、こうなってみるとさすがに後悔もする。もう二度とそこを覗いてほしくはなかったのに。

「番ってやろうか」

 ああ、だめだ。そう思ったときにはもう遅く、理性が追いつく前に彼の頬を殴りつけていた。カオルはそれすら分かっていたように、波ひとつないひとみで俺を射抜いている。
 溢れてとまらない。

「喜ぶとでも思ったか、俺が、この俺が!そんなことで喜ぶとでも思ったのかよ!」
「鳴海」
「ふざけんなよ!ふざけんな、情けをかけてやったのは俺のほうだ、分かってンのか、なァ!」
「わーってる」
「だったら黙ってろ!寝言ぬかしてんじゃねェ、出てけ、今すぐ出てけよ!」
「鳴海」
「早く!殺しちまう前に俺の前から消えてくれ、なァ、頼むよ、…頼むから」
「鳴海、」

 上半身を起こし、膝に顔を埋め、たのむと呟く俺の声が聞こえないとでも言うように、カオルは俺を抱き締めた。はやく、はやくいなくなってくれと何度もそう言っているのに、彼の低い体温は俺を包んだまま離れない。気が狂いそうだ。涙が止まらない。
 なんで、なんで俺はこんなことを、されて、言われて、こんなにも馬鹿にされて、それでも、嬉しい、だなんて、そんなことを欠片でも思ってしまうというのだろう。

「帰れ、帰れよ、なあ、お前の帰るとこはここじゃねぇだろ、俺の、となりじゃ、ない、もうとっくの昔から、最初から、違うだろ」
「…この2年で色々さ、考えはしたんだわ、俺も」
「…聞きたくない」
「なんでお前しか抱けねーのかって」
「聞きたくないっつってんのが聞こえねぇのか」
「お前としか、多分、番えない、俺は」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「…お前は嘘ばっかだ、都合のいいことばっか」
「事実だろ、お前としかヤれねーんだから」
「お前のダッチワイフにもオナホにもなってやるつもりはねぇ、消えろ」
「…感情が伴ってねえなら、番なんてやめた日から、俺は別の女を抱けてたはずだろ」

 またそうやって、嘘を重ねようとする。この男が憎い、憎いのに、どうしようもなく好きで、それはもう惨めになるほどに、そう、番ったあのときも、痣をみとめたときも、俺はひどく幸せだったのだ。彼がいればなにもいらないと思っていた。気持ちが、好意があるなんて微塵も思わなかったけれど、それでもだ。だって彼が俺を、選んで、くれて、俺にならあてられてもいいって、そう示して所有してくれたことが、たまらなく幸福だったはずだった。あの頃に、ほんとうに戻れるというのなら、それは勿論戻りたいけれど、でも、いつまた捨てられるか分からないのなら、そんなまやかしはもう、恐ろしいだけだ。
 そうだ、結局俺は我が身が可愛いだけなのだ。彼の気持ちを信じない限り俺は二度と裏切られない。捨てられることはない。そうやって己を守って、それで、
 それで?

「なあ、…悪かった、謝るよ」
「…うそつき」
「もう吐かねーから」
「ゴミ、カス、お前ほんと最低だ」
「そんなに?」
「自覚しろバカ、最低だよ、お前は最低な男だ」
「はいはい、俺はさいてい、ね」
「はいは一回」
「わーったって」
「…番ってくださいくらい言えねぇのかカス」
「あー…それは嫌だな」
「だからお前はダメなんだ、そんなだから離婚されんだよ」
「そうだよ、鳴海にしか手に負えねーだろ?」
「…俺だって手に余る」
「ご冗談を」
「嫌いだ、お前なんか」
「久しぶりに会ったのに名前すら呼んでくれねーもんな、そんな嫌いになった?」
「そうだよ、…嫌い、だいっ嫌いだ」
「…そりゃ残念だ」

 カオルの体温が離れて、ぎしりとベッドに手をついた音がする。ふ、と目だけで見やれば、彼はベッドから立ち上がってスラックスを引き寄せていた。そのひとみには珍しく感情が浮かんでいて、俺は見定めようと目を凝らす。
 ああ、諦めようとしているのか、彼は。そう気付くと途端に胸がざわついた。俺はつくづく単純だ。きっといま彼を本当に帰してしまったら、なんて、そんなことを考えている。
 怖い、そう、怖いんだ。カオルを失うことがなによりも。あの日だって本当は、一度くらいは振り返ってほしかった。背が見えなくなるまで見ていようとして、それでも彼が振り向かないことが分かっていたから、耐えられずに目をそらした。もうごめんだ、あんな思いをするのは、二度と。きっといまだって、カオルは一度も振り返らずに去っていく。もう彼の背中は見飽きてしまった。
 繋ぎ止める努力、を、そういえば俺は、したことがあったろうか。番ったとき俺の手をとってくれたのは彼で、それを解除された日だって、俺はなんの意思表示だってしなかった。気まぐれで束縛を嫌う彼を引き止めるのは、きっと煙たがられると思いこんでいたけれど、でも、もしかしたら、呼べば振り向いてくれたのかもしれない。その腕に縋ったら、考え直してくれたのかもしれない。
 今だって。

「かお、る」
「ん?」

 ああ、ほら、かれは、

「…命令形なの、気に食わねェ、…言い直せ」
「、…ふは、お前はほんっとに、これだもんな」

 

 笑っ、て、ふりかえってくれたじゃないか

ただの一言がいえない男の話

(バンドマンパロ)

「なんで女ってのは揃って遊びを遊びと割り切れねーんだ」

 夜の8時を回ったころ、カオルが左頬に赤い手形をつけて帰ってきた。
 ひどく乱暴に玄関が開けられたあとどすどすと不機嫌な音がして、珍しく中途半端な時間だったこともあって、もしかして、とは思っていた。居間に入ってきたカオルの不貞腐れた表情からおおよその事情は分かったけれど、ぶつくさと愚痴を言いはじめたので話半分に付き合ってやっていたのだが、こいつそもそも俺が一応恋人であるということを忘れてはいないだろうか。
 頬杖をつき、新聞を適当に目に映しながら、毎度のことながら多少なり傷付きはした。ああこいつはいつから、俺のことが好きではなくなったのだろう。いつかに、俺のことが好きだった瞬間はあったのだろうか。

「遊びねェ」
「そう、すぐ本気になって火がつきやがる」
「…悪かったな、」
「あ?」
「遊びと割り切ってやれなくて悪かったっつってんだよ」

 俺は俺で、そろそろ限界が近いらしい。彼の大好きな「可愛げ」なんてものは欠片も含まれていない台詞を吐きながら、みっともない自分を情けなく思って、眉を寄せながら少しだけ笑った。ぎしぎしと肺が軋んでいる。どうやら思考は正常な回路なんてものから外れてしまったようだ

「…なに言ってんの、お前」
「もういいよ、いい加減解放してやる、疲れたろ」
「鳴海」
「…俺は、疲れたよ」

疲れた。

 言ってしまえばこんなに簡単なことだったのか。呆気ない幕引きに、くちびるは未だゆるく弧を描いている。
 そう、彼が俺のことを好きだった瞬間なんて、一度だってなかった。当たり前だ。付き合うことになったときの言葉を忘れたことはない、俺を犯した彼は「責任はとってやる」と言ったのだ。それだけだ。それだけのことだ。俺はそこにつけこんだまま、ずるずるとカオルを5年間も束縛して、気が付けばもう21になってしまった。もう、手を離してやらなければならない時期なのかもしれない。束縛を嫌う彼を5年も傍に置けた、なんて記憶だけで、これからはひとりでだって、きっとどうにでもできるだろう。

「今更だ、もうお前に責任もクソもないだろ」
「…やめろ」
「別にここを出ていけとは言わねェよ」
「やめろ、」
「俺はひとりでも平気だ」
「やめろっつってんだろうが」

 カオルは低く静かな声でそう言って立ち上がると、俺が読んでもないのに見ていた新聞を乱暴に手で払って床へ落とす。顔をあげれば、眩しくて強気な牡丹色のひとみが、じっとり冷たく俺を睨んでいた。そのままつかつかと向かいに座っていた俺のもとへ詰めてきて、強引に手首を引っ掴み立ち上がらされる。

「、っなにす、」
「黙れ」

 強すぎる力に漏れた声は遮られ、カオルはそのまま俺を引き摺って寝室のドアを開いた。嫌な予感がして試みた抵抗も空しく、乱雑にベッドに放り投げられる。最近まともな食事なんてしていなかったと、頭の隅で場違いな後悔が走った。

 カオルは立ち上がろうとする俺の上に跨って、その肩をベッドに押し返す。そのまま首筋に強く噛みつかれ、抗議の声をあげようと開きかけた口は、歯を食いしばるためすぐに閉じることになった。痛い、と、思った、やめてほしい、こんなことは。両手で彼の胸板を押して拒絶を示すけれど、そんなことはお構いなしに、彼の冷たい手が隙間から滑りこみ胸に伸びて、必然インナーがたくし上げられた。

「カオル、もう、やめてくれ、」
「黙ってろよ」
「なあ、なんで、なんで俺をいまさら」
「…お前はなにも分かってない」

 つう、と温い舌が鎖骨から這い上がって、喉仏を押し込むようにぐりぐりと動く。こんな状況でも体は正直なもので、カオルに触れられれば簡単に熱を持ってしまう。思いきり突き飛ばしてしまえない自分が情けなかった。結局、求められたら応じることしかできない。それが彼となればなおのこと。自分の性分を恨んだ。

「っひ、ぁ」
「…すぐ気持ちいいことに流されんのな」
「ちが、やめ」
「分かるまでやめねえから」
「な、ッあ、ん…っ」

 頭の中がどんどんぐしゃぐしゃになっていく。こんなことはもうしたくないのに。やめてほしいと思っているのに。
 俺が喉をいじられることに弱いのを知っている彼は、執拗にそこを責める。そのせいで溢れるのは情けない声ばかりだ。喉仏に舌を押し込まれ、うなじを舐めあげられ、かと思えば突然歯を立てられる。同時に両の胸をきゅうと摘み上げられては、びくびくと肩が跳ね上がるのを止められなかった。
 俺の息があがってきたのを見て満足したのか、カオルの左手がズボンのベルトにかかる。かちゃりと金属音がして、このままでは本当にまた食われてしまう、なにもかもなかったことにされてしまうと脳が叫んで、それだけはとその手首を掴む。それが気に障ったのかカオルはひとつ舌打ちして、ぎりぎりと俺の喉に歯を食い込ませた。痛みとともに確かに走った快感にビクついて手が緩み、その隙をついて逆に手首を掴まれてしまい、胸から離れた右手が、反対の手と共に俺の両手をまとめてベッドに縫い付ける。歯型がくっきりついてしまったであろうそこを柔く舐められる。確か犬のその行動は、次は必ず息の根を止めてやるというような意味だった、と、かたく目を瞑りながら思う。
 彼は、怒っているのか。どうして。

 ズボンも下着も諸共に取り払われ、右足の膝裏を掴まれカオルの肩に乗せられる。だらしなくひくつく自身とその奥を見て彼が鼻で小さく笑った。彼は両手を括りあげるために俺の体に乗り上げていて、強引に折り曲げられることになった体が苦しい。けれどそんなことに構うはずもない彼の指が、後ろの窄まりをくるくるとなぞったり、くにくに揉んだりと遊びはじめ、思わず身を捩る。

「あ、ぅ、っふ」
「ほら、どうしてほしい」
「や、だ、やめろ、っぁ」
「強情だな」
「あ…!ひ、」

 つぷ、と、乾いた彼の指がゆっくり入ってきて、痛いはずなのに腰が浮く。視界の端でカオルがゆるりと口角をあげた。
 指は浅いところを出入りするばかりなのに、第一関節まで入れられくいと曲げられると、それだけで浮ついた声が出る。やめろ、抜いてくれ、と何度も言うのに、聞き入れてはもらえない。まとめられた両手の首に、じわりと彼の爪が食い込んだ。

「なーるみ」
「も、やだ、」
「浅いのが?奥がいい?」
「っちが、ふ、っんぅ」
「…埒あかねーな」

 低く呟くと、指の動きはそのままに、ずいと俺の胸に顔を寄せる。まずい、と思って息を飲んで歯を食いしばるが、ぐっとカオルが舌で胸を舐めあげ女のような声をあげてしまった。そのままちうと強く吸われ、たまらず頭を振る。

「あっあ、ぁ、いや、だ、吸わな、」
「ああ、好きなのはこっちだっけ?」
「ひゃ!う、かんだら、あ、」
「腰振んなって」
「ちぁ、う、こんな、だって、んぁっ」
「鳴海。どうしてほしい?」
「っう、ぁ、あ…!」

 ああ、もう、だめだ。
 決定的な刺激のないまま、じわじわと快感が体の中で渦をまいて、俺は簡単に限界を迎えた。だっていつもはもっとひどく暴くくせに、なんで今更、こんなやりかたで。もっと奥へ、と強請る腰を止められないまま、ただはやくちゃぐちゃにしてほしいと、もうそれしか頭にはない。

「はぁ、ぅ、かおる、おねが、おく…!おくに、っいれて、あ…ぁ、ああ、あ…!き、てるっ」

 ぐずぐずになったそこに二本目の指を挿れると、ぐぐっと深くまで入り込んできて、待ち望んだというには弱い刺激でも、きゅうきゅう締め付けてしまう。一度奥まで挿れるとそのまま大きなストロークが始まって、擦れるだけでも良いのに、押し込むときに前立腺を指の腹で擦りあげられ、ひっきりなしに喘ぐ。カオルの指が入っている、それだけでもうばかになるほど気持ちが良かった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうと、片隅で一度だけ思った。

「あっあ、ふ、ぅ、ひゃ、っかお、る…も、いい、からぁ」
「なにが」
「いわせ、な、ぁあッ」
「言わなきゃわかんねえって」
「う、ぅあ、ひ、もうっいれ、て、かおるの、あっ」

 ずるりと指が引き抜かれていく。その感覚にまた喘いで、なかの虚しさに涙がひとつだけこぼれた。手早く衣服を膝まで下ろしたカオルは、俺の手を離すと両手で腰を掴む。ああ、くる、これからはいってくる。もう頭には嬉しさしかなくなってしまった。
 ひた、と窄まりに熱いものがあてがわれる。それだけで背筋がぞくぞくして、彼の肩にあげられた右足の内腿が震えた。カオルが低く、挿れるぞ、と呟いて、俺は解放された両手で彼の腕に掴まって、こくこくと頷いていた。
 たった二本の指しか咥えていない、濡れもしないそこにカオルは先端を埋めて、ぐぐ、と腰を押し進めた。一番太いところまで入った、というところで、

「は、あっ…ッ~~~~~!!♡」

 ずん、と。無遠慮に、一番奥まで一気に貫かれ、俺はあっけなく達した。
 視界がちかちかと白んで、声すら出なかった。ただ膝が腹のほうに勝手に曲がって、しがみついた彼の腕に爪を立てながら、射精すらせず。締めすぎ、とだけ呟いたカオルが、ゆっくり限界まで引き抜いてはまた一気に貫いて、を繰り返しはじめて、俺はもう、みっともなく鳴くことしかできなかった。

「あ、ああ、あ♡や、ぁあ、おかひ、なるっ♡あ、あ♡」
「何回もなってるだろ」
「ぁ、あ、またっイッひゃ♡ぁ~~~っ♡」

 前立腺をまきこみながら最奥をごちゅんと抉られると、もう頭が真っ白になる。なかが擦れるのも、奥に叩きつけられるのも、しこりを押し込まれるのも、もうカオルが動くだけで全てが快感を生んで、背中を反らしながらまた達した。締まると彼が僅かに眉を寄せるので、ああ、カオル気持ちいいのか、と思って、もっとよくなってほしいと、意図してなかを締める。わざとだと分かるのか、カオルは一度俺を睨んだあと舌打ちをして、更に激しく深く奥を穿つ。

「っあ、あ♡っかおる、な、おねが、ああっ♡」
「ん、なに」
「は、ぅ、キス…っまだ、してな♡」
「別れたいんじゃなかったっけ」
「へ、あ」

 ああ、そうか。そんなはなしだった、そもそもは。
 急激に頭が冷めて理性が帰ってくる。正常な回路へ思考が戻っていく。そうだった、これは遊びなのだった。少なくとも彼にとっては。なんなのか分からない涙がぼろぼろと落ちていった。
 これで終わりにしなければ。もう彼の手を離してやらなければ。頭の中はそれで埋め尽くされていって、寂しさが湧き上がって胸を占める。おれはひとりで平気なのだから、もう、彼を、カオルを、でもそうか、これが最後なら、

「は、たのむ、さいご、に、キス、だけ」

 彼の腕に縋り、しゃくりあげながらそう呟いた。揺さぶられながら、カオルとの思い出をなぞる。小学生のころの幼い顔、中学生のころ一緒に馬鹿みたいに騒いで笑ってくれた顔、高校に入って髪を染めた俺を少しだけ目を丸くしながら見ていた顔、ベースを鳴らしながら歌う横顔も、もうその全てが俺の隣からなくなるのだ。それでも慣れなければ。彼のいない世界を脳に馴染ませなければ。今になるにつれ、記憶の中の彼の顔から笑顔は少なくなっていく。つまりはそういうことだ。ごめん、という言葉が、何度も口をついて、それを遮るように、

「やだ」

 カオルがそう俺を突き放して、結局くちびるを合わせることはないまま、彼は俺の中に欲を注いだ。

 あれから更に二度彼は果てて、それで行為はようやく終わった。俺が何度達したかなんてもう分からない。失せそうになる意識を気合いで繋ぎとめる。カオルはいつも後処理なんてしてはくれないから、自分でなかのものを掻き出さなければならない。
 間隔の短くなった息を数回深呼吸して整えて、だるがる体に鞭を打ち、未だ震える腕をついて上半身を起こす。俺の上でベッドに手をついているカオルはなかなか退こうとしなかった。その胸をそっと押し返すと、彼はその手を毟り取って、なぜだか指を絡ませきつく握った。

「…カオル?」
「…いやだ」

 俯いたまま、カオルは俺の肩に顔を埋める。彼の手が、微かに震えていた。逆の手を俺の背中に回して引き寄せる。付き合っていたってこんなことは滅多にしなかった。困惑はしたけれど、俺の頭はとっくに冷めきっていて、離してほしいとしか思わなかった。

「…離せよ、」
「いやだ、…なあ…行くなよ」
「カオル?」
「どこにも行くなよ、ここにいろよ、なんで、なあ、なんでだ」
「…どうした?」

 震えた声で呟く彼がさすがに心配になって、顔を覗きこもうとしたけれど、その表情は前髪で隠れ、見えることはなかった。