こえを

(バンドマンパロ)


「か、っは、ぅ…!」

 くるしい、くるしい、息ができない、死んでしまう、たすけて、たすけてくれ、カオル。
 そんなことを頭の中で必死に訴えたところで意味はないし、今俺の首を絞めているのはまさに名を呼んだその男なのだから、なおのこと無意味だ。

 なにが彼の逆鱗に触れたのかは分からない。
 ただバイトから帰ったらカオルが玄関で腕を組み壁に背を預けていて、ただいま、と言う途中で床に転がされ、気がつけば彼の手は俺の首に伸びていた。カオルは全体重をかけて首を絞めつけていて、みしみしと嫌な音がする。酸素を求め開かれている口からは唾液が溢れた。目は見開いているはずだが視界は不明瞭で、あるときふっとすべての音が完全に潰え、彼の腕をがりがりと引っ掻いていた手も床に落ちた。ああ、これは、死ぬのか。

「っかは、げほ、う、はあッ、!」

 そう思った瞬間、その手は離れていった。急激に酸素が体内に入ってきて肺が痛い。ぜえぜえととにかく肩で息を繰り返し、じわじわ戻っていく視界の眩しさに眩暈を覚える。汗が額を滑る感覚に、ああ、生きているのか、と思った。

「…寝る」

 どうして、すら、聞かせてはくれなかった。カオルはたった一言残して、ひとりで寝室に消えていく。恐怖と虚しさでひとつだけ涙がこぼれた。

 本当に、たまにのことだ。こうして彼が俺に暴力をふるうのは。
 始まりは些細な喧嘩だった。原因ももう覚えていないようなくだらないこと。かっとなったカオルは俺の頬を思いきりぶん殴ってくれて、さすがにカチンときて殴り返そうとしたのだが、それより早く腹を蹴り上げられ倒れこんだ。そのときはそれだけだった。次の日、俺の腫れた頬を恐る恐るといった風に撫でながら、ちいさくごめん、と呟いた彼のひとみを見て、本当に後悔していることは知れたから、俺もすぐに許したのだけれど。

(後悔してる、はずだったのにな)

 いつの間にかカオルには、イライラすると俺を殴る癖がついてしまったようだった。
 いつも原因は分からない。なにも言ってはくれない。けれどひとみや言葉から俺に対し腹を立てていることだけは分かる。初めての日のように、喧嘩で殴り合い(俺は殴れなかったけれど)になったのならまだ分かる、俺も彼も男で、どうしても譲れないことがあるときは相手を殴るしかないと思うことはあるのだから。けれど夕飯を作っていたら突然肩を掴まれ顔を殴られたりすることもあって、本当にまれな話で年に度あるかないかのことなのだが、でもだからこそ突然訪れるそれはまさしく恐怖でしかなかった。さっぱり分からない状況のなか、彼に殴られた、という事実だけが、「俺を憎んでいるのではないか」という仮説に繋がり、呆然とただただ泣くことしかできなかったことも多い。大抵は気が済むと冷静さを取り戻すのか、「ごめん、ごめん」と繰り返して、罪悪感の滲む目で手当てをしてくれるから、俺は余計に混乱していた。噂で聞くDVというものによく当てはまることは理解していたけれど、でもカオルは違うのだ、そうではないのだと必死に自分に言い聞かせ続けていた。なにもできず殴られているばかりの俺がふと涙を流すといつも我に返って、謝りながら抱き締めてくれる彼の低い体温に依存していた。彼が俺を求めてくれるのならどんなかたちでだって構わないと思っているはずだろうと、俺はそれらを受け入れることに決めた。
 途端、カオルのことが怖くなった。

「…なんで、」

 そっと首に手を添える。首を絞められたのはさすがに初めてだ。気が動転していたし、視界も定まらなかったから、彼の表情は最後まで見られなかった。なにを思っていたのだろう。なにが気に障ったのだろう。考えたって分からない、だって俺が家を出るまではいつも通りだったはずだ。

 彼は俺に、消えてほしいのだろうか。

 思うだけでかたかたと体が震える。カオルに殺されるならまだマシだ、捨てられるよりよほど。けれど俺は彼がなにに腹を立て暴れるのかを分かってやれない。分かってやれないのだ。だったらこの状況も改善できるわけがない。ただ彼に突き放されるその日を黙って待つことしかできないじゃないか。そんなのは嫌だと脳は叫ぶのに、思考は絡まってまともに働きやしない。

 全てが俺のせいなのだ。俺の態度が、言動が、思考が気に食わないから彼は俺を殴るのだ。彼は決して楽しくて俺を殴っているわけじゃない。俺よりよほど痛そうな目で、かなしそうな声で、ごめん、と力なく謝る彼は、本当は拳なんて振り上げたくないのだと全身で俺に伝えている。俺が彼から、冷静さを取り上げているのだ。穏やかな感情を奪っているのだ。
 だったら、俺は、

 

 

「…椎葉、やりすぎだ」

 女とカラオケに行った帰り、たまたまフェローチェとばったり会って、立ち話もなんだからと二人になった夕方の彼の部屋で、唐突にそんなことを言われた。はて、と首を傾げて、

「なにが?」
「とぼけんなよ、…麻木のことに決まってるだろ」

 しかしすぐにああ、と合点する。そうか、きっとあの痕を見たのだ。絞められた痕が赤々しく残るあの首を。

「…お前あいつを、どうしたいんだよ」
「鳴海に」

 ふ、と左手をフェローチェの後ろの壁について距離を詰める。少しの心音も聞き逃さないというように。彼の首筋にひとつ汗が伝ったのを見て、くちびるだけで薄く笑った。

「なんか言われた?」
「……いや、」
「じゃあ」

ほっといてよ。
 ぱっと距離を離して、他人に聞かすような声でそう告げる。かわいそうに、フェローチェは顔を青くして俯いてしまった。以前鳴海の頬が腫れていたときも過剰に気にかけていたようだし、まあきっと、彼の感覚のほうが正常というものに近いのだろうけれど。

 いつも適温に保たれているそこを出るのは惜しかったけれど、あんな空気になってしまっては到底寛いじゃいられない。コートを羽織り、そのままフェローチェの部屋をあとにして、冷たい風に首を竦ませる。

(鳴海をどうしたいのかなんて)

 そんなのは俺が知りたい。
 わざと見える位置に痕を残すのも、毎晩のように抱くのも、それなのに他の女を取っ替え引っ替え抱くのも、殴りたくなるのも、一昨日首を絞めてしまったのも、どころかどうして付き合ったのかさえ、なぜ、なんてそんなの分からない。考えている、考えているんだ。頼むから邪魔をしないでくれ。これ以上思考を乱されたくはない。どこかで、とにかくずっとひとりでいたいと思った。それなのに足は鳴海の待つ家へ向かっている。

 

 

 まずいことになって、とりあえずシャルルの家に避難しにきた。カオルは朝から誰かと出かけていて部屋にはいなくて、少しだけ寂しかったが今日ばかりは都合が良かった。職場には事情を説明したメールを入れてはあるが、返事はまだな。最悪こんな状態でも出勤しなければならないな、と思う。別に体調が悪いわけではないし俺は厨房だから仕事に支障はないだろうけれど、とにかく不便だ。

 声がでねえ。
 それだけを記した携帯の画面を掲げれば、驚いたもののすぐに状況を理解してくれたシャルルが、大袈裟にも家族中に報告してしまって、結局彼の兄が郊外の静かな場所にある別荘まで車を出してくれた。しかし本当に金持ちなんだな、と、ぼんやり遠い頭で思う。
 シャルルは俺に部屋をあてがい、広い別荘内のどこになにがあるのかを細かく説明してくれた。俺はただ頷くことしかできなかったけれど。与えられた部屋は広すぎてなんだか落ち着かなかった。狭い部屋、俺が転がっているベッドのすぐ隣に、布団を敷いて眠るカオルを思い出しかけて、思考を強制的に終わらせる。こんなところに来てまで俺は呆れるほど未練がましいらしい。

 その日の夜には職場から返事がきて、いい機会だからしばらくは休めと書いてあった。いやしばらくって、いつまで。俺はロングでシフトを入れまくっているから、代わりなんて早々見つからないのに。それもこれも自分で招いた事態だと思うとまた喉が詰まる思いだった。なんだか全てが俺のせいで狂っていくようだ。

 シャルルは大学が冬休みだからと言って、その別荘で一緒に過ごしてくれた。会話もできない人間と一緒にいたってなんにも面白くはないだろうに。別荘に移動して二日目の昼にシャルルの携帯にフェローチェから電話があって、「麻木くん?知らないな、兄さんと旅行中なんだ。何かあったのか?」なんて、分かりやすい声であからさまな嘘を吐いていた。俺の私用の携帯は、あの日家を出るときに電源を落としてそれきりだ。こないであろう着信を待つのは癪だった。

 シャルルは大きなキングサイズのベッドに潜り込んできて一緒に眠る。俺が部屋が広くて落ち着かないと言ったからか、それとも勘繰って気でも使っているのか、あまり俺をひとりにしたくないようだった。大きなお世話だと思った。俺はひとりで平気だ、ひとりで生きていける、ひとりで全てどうにでもできる。カオルと出会ってからですら当たり前としてやっていたことなのだから、見くびられたくない。けれど気付かないのか、知らないふりでもしているのか、シャルルは今日も同じベッドに入ってきて、ひと一人分隙間をあけて眠る。
 人の気配がこんなに近くにあるのは正直落ち着かない。二日間あまりよく眠れていなかった。けれど三日目の夜ともなれば限界がきて、俺はおやすみ、と言うシャルルに返事もしないで、ぼんやりと意識を投げ出した。

「…もしもし、」

 ふ、と、朝方、シャルルの話し声で目が覚めた。ちらりと見やると携帯を耳元にあてて誰かと話しているようだった。時計を見やると六時すぎで、こんな時間にかけてくるなんて常識のないやつだ、と思いなら、もうひと眠りしてしまおうと瞼を閉じる。

「椎葉くんか?」

 バチン、目が開く。反射的に飛び起きて、シャルルから携帯をぶんどっていた。あ、と、驚いて声を漏らしたシャルルに構うことなく、携帯を耳に押し当てて、その声を待った。馬鹿になったみたいに心臓が飛び跳ねている。

『…もしもし?もしもーし』

 ああ、カオルの、声だ。

 ずっと聞きたかった。ずっと、ずっとだ。
 たった三日のこと。それでも彼に会えない日々は、俺にはおそろしいほど長かった。彼にとってきっと俺はそばにいないほうがいい存在だから、もう彼のにはれないそれでもひどくいとしいその声が耳元で聞こえて、俺はたまらずくちを動かした。当然声にはならなくて、はくはくと口ばかりが動き、空気は喉の奥でつっかえていた。

(カオル、カオル、ごめん、あいたい、声がきけてうれしい、あいたい)
『おい、シャルル?…電波悪ぃのか』
(さみしい、さみしいんだ、カオル、あいたい、でももう、)
『………なるみ?』

 ひ、と、呼吸が止まる。なんで。それすらやはり音にはならなかった。
 みっともないほどに涙を流していたことを、ぼたぼたとそれがシーツに落ちる音で知った。複雑な目で、筆談のときに俺が書き殴ったメモを見ていたシャルルは、俺がもう何も言えなくなったのを見計らって、そっと携帯を持っていってしまった。俺の名を呼ぶカオルの声が遠ざかって聞こえなくなる。俺は背を丸めてシーツに顔を埋め、嗚咽すら漏れない喉を引き攣らせながらただただ泣いていた。

「…椎葉くん、麻木くんならここにいる。申し訳ないが彼をいまひとりにはできないから、今から言うところにひとりで来てほしいのだが」

 

 

 鳴海だ、と、思った。少しも震わない空気から、なぜだか鳴海の声が聞こえた気がした。

 シャルルが告げる住所を、机を引っくり返し適当な紙を探し出して急いで書き記す。鳴海には「ちっとも読めねェ」と眉を下げながら笑われる汚い字。うるせーよ、俺だって読めない。
 叩きつけるように電話を切って、すっかり鳴海の匂いが失せた部屋を飛び出した。

――お前あいつを、どうしたいんだよ

 そんなの俺が知りたい。
 わざと見える位置に痕を残すのも、毎晩のように抱くのも、それなのに他の女を取っ替え引っ替え抱くのも、殴りたくなるのも、あの日首を絞めてしまったのも、どころかどうして付き合ったのかさえ、なぜ、なんてそんなの分からない。考えている、考えているんだ。けれどもうそれでは済まされない。考えている、じゃ、許されない。今すぐ結論を出す必要があるのは分かっている。それなのに頭のなかを渦巻くのは、いますぐあいつを抱き締めたいという欲求ばかり。どんな顔をすればいいかすら分かっちゃいない。こんな状態で鳴海に会ったってどうせまたあいつを傷つけるだけだ。
 そもそもあいつと付き合っているのは、俺があいつを犯してしまったから責任を取っただけで、でもそれは鳴海が同級生の女に告白されて付き合おうかなんて考えていたからで。無遠慮に揺さぶって、ただ痛みに泣いていた鳴海に、これでもかと所有印を刻みつけたのを今も覚えている。どうして俺はあいつを抱いたのだろうか、どうしてあいつが女と付き合うのが許せなかったのだろうか。考えたって思考は絡まる一方で、比例するように足が縺れた。

 あの日、フェローチェと別れたあと、鳴海のいないしんとした部屋に、嫌な予感を感じはしたのだ。その日はバイトなんてなくて、俺が部屋を出るまではいつも通り眠っていたはずなのに、どこにもあいつの気配がなかった。どこにいるのかと電話をかけても繋がらなくて、行きそうなところは全てあたったけれど、全部外れだった。呆然と夜をやり過ごして朝になり、昇った日に視界を照らされようやく我に返ってフェローチェに連絡したが、「嫌になって家出でもしたんじゃないか」と呆れられるばかりだった。そんなはずはない、そんなことはあり得ないと思いながらも冷や汗が止まらず、一日中あいつを探し回った。流石におかしいと思ったらしいフェローチェがシャルルに連絡をとってくれたが、「嘘を吐かれた」と目を丸くしていた。「あいつは自分や悪いことのために嘘を吐ける人間じゃないから、恐らく麻木のためだろう」、と。結局その日も眠れず夜を明かして、明け方に女の名前の並ぶ連絡先をひっくり返してシャルルに電話をかけたのだった。

 今すぐ、今すぐ抱き寄せたい。きっと寂しい思いをしている。俺のいない場所で心細く思っている。あいつにとって孤独とは恐ろしいものだから。ひとりでも平気だなんて顔をしていたって、そんなわけない、鳴海には俺がいてやらないと駄目になる。俺はそれを知っている、ただの事実としてそれを把握している。だから今すぐ抱き締めてやらなければならないのに。気持ちばかりが急いて、ちっとも距離は縮まらない気がした。

 数時間後に別荘に着いて、コンビニでおろした社畜時代の蓄えで金を払いタクシーから転げ出る。玄関に駆け寄って壊す勢いでそのドアを叩きつけると、待っていたのか、数秒でシャルルがそのドアを開いた。思いきり肩を掴んで鳴海の居場所を尋ねると、シャルルは「落ち着け」と俺を宥めてから、緩やかに口を開いた。

「いいか、落ち着いて聞いてくれ。いま麻木くんは、声が出ない状態にある」

 へ、と、情けない声が落ちる。なんだそれ、聞いてない。シャルルは言ってないからなと苦く笑ったけれど、笑いごとじゃない。また一歩詰め寄った。

「なんで、」
「…それは、二人にしか分からないんじゃないか」

 分かるわけがない、俺はまだ自分の感情だって整理できていないのに。鳴海の感情なんて、

(なるみ、の)

 鳴海の感情?

 いつから分からなくなったのだろうか。
 昔は手に取るように分かってやれていたはずだ。怒ることも、悲しむことも、嬉しいこともすべて。表情や空気や言葉選び、視線の動きや話題の運び方。探らなくたって鳴海からはすべて知ることができていた。先回りして些細なフォローを入れてやるのが俺の役割だった。それなのに、いつから、

(…いや、いつから、なんて、そんなのは)

 決まっている。鳴海を抱いたあの日からだ。あの日から、俺は鳴海の感情を知ろうとしなくなった。
 きっとあいつはいつも通り俺に全てを伝えていたはずだ。俺ならすべてを拾ってくれると信頼して、いつも通り感情を表現していたに違いないのに、俺は鳴海を手に入れたという事実に慢心して、あいつを理解しようとすることを止めた。それは鳴海にとってどれだけショックだっただろう。どんな思いで俺を見て、どんな思いで俺と話して、ギターを鳴らして、飯を食べて、いや、最近はまともに食事をとっているところなんて見かけていない。俺はそんなことにすら気がつかなかったのか。細くなっていく鳴海の腰を抱いて、なぜなにも思わなかったのか。
 あいつはどんな思いで、女に会いに出かけていく俺を見送っていたのだろう。

(抱き締めたい、)

 結局辿りつくのはその欲求で、心臓はばくばくとうるさく脈打って止まらない。今すぐ走り出したいのに、部屋に案内すると言ったシャルルは落ち着いた足取りで歩いているし、この別荘はやたらに広すぎる。イライラする脳に落ち着けと何度も命令を出すが、眉は寄ったまま戻ってくれることはなかった。

「ここだ」

 シャルルがそう言いながら立ち止まり、俺は倒れこむようにして指差されたそのドアを開いた。

 

 

 ふたつの足音が近付いてきて、狂ったように脈打つ胸がひどく苦しい。いま、会ったって、どんな顔をすればいいかもさっぱり分からない。シャルルはどうしてカオルを呼んでしまったのだろう。今すぐ逃げ出したくても逃げ場なんかどこにもない。ベッドの上で上半身を起こして、ただじっと皺のできたシーツを見つめていた。

「っ鳴海、」

 ばたん、と派手な音がして、ついにそのドアが開かれる。その声に弾かれたように顔を上げて、けれど眩しく滲むその牡丹色と目が合った瞬間、反射的に俯いてしまった。カオルはずかずかと大股で距離を詰めてくる。シャルルが静かにドアを閉めた音がした。

 馬鹿みたいに広い部屋を、カオルはほとんど走るみたいに足早に突っ切って、そのままの勢いでベッドに片膝をつき乗り上げるときつく俺を抱き締めた。目を見開いて硬直する。なんで、と、くちだけが動いた。
 抱き締められるのなんていつぶりだろう。

「鳴海、鳴海、」
(カオル、…なんで)

 俺は応えられないのに、彼は俺を呼ぶばかりだ。どんどん俺を抱き締める腕の力が強まって、苦しいのにそれを伝える術もない。頭は確かに混乱しているのに、片隅では幸福を感じている。単純なつくりだと思った。
 拒絶、しなければ。なによりも彼のために。俺がそばにいたら、彼はいつまでも幸せになれない。したくもないのにイライラして、ふるいたくもない暴力をふるってしまう。そうして俺が悪いのに、彼が心を痛めるのだ。そんな顔はもう見たくなかった。ただ笑ってほしくて、だから彼の歌のために、ギターを鳴らしていたはずなんだけどな。俺がすることはいつも、裏目に出てばかりだ。
 母のときと同じ。

 ぐ、と、震える腕を持ち上げて、カオルの胸を押し返す。本当はその背に回したかったけれど、もうそんなことはできない。カオルは腕の力をふっと緩めて、腕は回したままに少し体を離し、困ったような顔つきで俺の目を覗きこんだ。ああ、やはり俺では、カオルを笑わせられないんだろう。

「…鳴海、本当に声、出ないのか」

 こくんと力なく頷く。そうするとカオルは俺の首筋に額をあてて、ごめんと、また繰り返し謝った。自分の不甲斐なさに涙が出そうになって、つよくまばたきをして堪える。喉も震わないこんな状況で泣いたりしたら、彼が余計に困惑してしまう。
 カオルはまた少しずつ強く俺を抱き締めながら、ぽつりぽつりと、小さく言葉を落としていった。

「鳴海、ごめん、ごめんな、俺は、お前を傷つけたいわけじゃなかった、そんなこと一度もなかったんだ、でもなにかが思い通りにならないたびに、お前を乱暴に抱いていれば、誰の思い通りにもならないお前を、俺が、俺だけが思い通りにできると思って、それがやめられなかった、誰も知らない鳴海を、どんどん知りたくなって、全部手に入れたくて、俺のもんだって安心したかった、全部全部俺のためだった、ごめん、本当にごめん、ごめん、」

ごめん。

 カオルは繰り返し謝り続ける。俺は何度も首を横に振って、気にするなと伝えたけれど、彼の口から謝罪の言葉が途切れることはなかった。せめてなにか言葉を伝えたいと思ってまた胸を押し返すと、カオルは素直に離れてくれて、片方の足もベッドにあげると胡坐をかいて項垂れてしまった。
 サイドテーブルに置いてあったメモとボールペンを掴んで書く。べり、とそれを剥がして、項垂れる彼の視界に入るように差し出した。

(お前に笑ってほしかっただけだ、カオルは悪くない)

 カオルはメモを手にとると、しばらく感情の読めないひとみでその文字列を見つめていた。ようやく顔がまともに見られたけれど、隈はできているしなんだかやつれていて顔色も悪い。彼は普段めったに体調を崩さないぶん、一度駄目になってしまうとひどく寝込むから、それが心配になった。
 そんなことをぼんやり思っていると、カオルは紙がよれるほど指にちからをこめたあと、シーツの上にメモを置いて、その手をそっと俺の右手に重ねた。ぴくりと肩が跳ねて、おずおずと手を引っ込めようとしたけれど、きゅうと掴まれて逃げられなくなった。どうしようか困ってしまって、ただ彼の言葉を待つしかない俺は、またシーツを眺めるばかりになってしまった。
 しばらく待つと、なるみ、と、ひどく弱々しくカオルが呟いた。

「…すきだ」

 ばっと顔を上げる、つよく滲む牡丹色のひとみと視線がかち合う。今度はそらすこともできずに、ただ息を飲んでその色を見つめていた。
 いま、なんて。静かにくちびるだけがそうなぞる。分かったわけではないだろうけれど、彼はもう一度同じ言葉をはっきりと口にして、俺の右手をいっそう強く握った。

 そんなこと、一度だって言われたことはなかった。

「だから、なぁ、鳴海、帰ってきてくれ、そばにいてくれよ、…頼む」

 そんな、縋るような、目で。
 目の奥がひどく熱くなって、耐え切れず涙が溢れた。かれは、俺を好きだと、言ったのか。脳が理解して、心臓が意味を噛み締めて、くるしくて肺が軋む。体の底から幸せが湧き上がってとまらない。左手で口をおさえてみっともなく泣いた。彼は繋いでいないほうの手で、昔にしてくれたようにくしゃくしゃと俺の髪を掻き混ぜた。いつもの低い体温がひどく心地よくて、余計に涙が出る。
 俺たちは言葉もなく、しばらくの間寄り添っていた。

 

 

「解決したか」
「…まぁ」
「…悪ィ」

 翌朝には声も戻り、俺は本当に単純なつくりをしているのだとつくづく思わされた。別荘から帰ると駅でフェローチェが呆れ顔をして待っていて、カオルは俺の横で「こいつに借りつくっちまった」と、苦く呟いた。
 俺もシャルルとその家族にずいぶん世話になってしまった。こういうときの礼にはなにを贈ればいいか、正直よく分からない。シャルルが喜びそうなもの、と考えていると目があって、満足げに微笑まれてしまって、なんだか困って目をそらした。頭の中とはいえ余裕がなくひどいことを思ってしまったのに、気付いていないのか知らないふりをしているのか、彼も大概お人好しだ。

「腹減ったわ、お前のメシが食いてー」
「…なにがいい?」
「ささみフライ」
「またか」

 肩を竦めて笑うと、果たしてカオルも柔いひとみで穏やかに笑ってくれたから、それだけで俺はどうしようもなく、幸せだった。