Lemon

 

「鳴海?どうした?」

 

 ふ、と顔をあげる。夕焼けが強く教室に差し込んでいる。

 あれ、と、思う、自分はいつここにいたのだったか。中学校の教室、その自分の席に俺は座っていて、前のだれのものか知らない席にカオルが腰かけて、椅子を傾けて俺の顔を覗きこんでいる。

 

 眩しい。眩暈がする。彼の強い牡丹色のひとみがじっと俺を射止めてやまない。夕焼けの濃い橙色が教室を染め上げている。懐かしい景色だ、初めて彼を見た日と同じ。いま自分が座っているここは確実に中学のものだけれど。

 いつからここに?眠っていたのか、どうして。けれどここにいる。ならば、そうなのだろう。なぜ違和感を覚えているのか、分からないままなかったことにした。

 

「あー…なんか、ぼーっとしてたわ」

「寝ぼけてんのか?ほら、帰るぞ」

 

 カオルが鞄を持って立ち上がる、それに続く。いまだに眩暈がするが、歩けないほどじゃない。いまは何月だったか、春なのだろうか。そうならば調子の悪さもふわふわする意識にも理由がつく。

 

 赤い夕焼けのなかを、中学の制服を着て、指定の鞄を持って、カオルと並んで歩く。なんだかひどくゆるやかなまどろみの中にいる感覚。黙って歩くカオルの左手が、揺れる髪が、ひどくいとしい。

 

「…なに?」

「え…ああ、なんでもねェ」

 

 じっと見つめていた俺を不審に思ったカオルが振り向く。強い牡丹色のひとみは呆れたようにほそまって、その視線はすぐに俺から外された。瞬間、ぞわっと寒気が全身を包んで、ぐらぐらと眩暈が強くなり、立ち止まる。

 足が、動かない。石のように。ただじっとカオルの、柔い若苗色の髪を見ていた。離れていく。声が出なかった。どうして。引き止めなければと脳は激しく脈打つ。それなのに。

 

「…鳴海、言わなきゃならないことがある」

 

 声にはならず、けれどカオルは立ち止まった。振り向かないまま、俺に向けて話す。ガンガンと叩きつけられるような頭痛が始まった。

 やめてくれ。そのさきを、俺は聞きたくない。

 

「俺はここを離れる。家族が死んだ。冷えた家庭が燃え上がったんだ、笑えるだろ?」

 

 やめてくれ。

 喉がカラカラに渇く。まばたきすらゆるされない。手から鞄がすり落ちる。やっぱり脳はガンガンと叩きつけられている。まだ、眩暈。立っているここがゆらゆらと歪んで波打っているよう。

 

「2年半で戻ってくる、16に、働ける歳になったら。それまで、」

 

 やめてくれ。そのさきを、ききたくない、おれは何度、何度、何度、

 

「ひとりでも生きてろよ」

 

 何度この光景を見ればいい。

 

 バチン、目が開く。うつるのは見慣れた暗い天井ばかり。息が上がっている。いつもそうだ、この夢を見たあとは。いままでずっと呼吸をしていなかったみたいに息が乱れておさまらない。やっぱり喉はカラカラで、まだ、眩暈。

 

 なんとか上半身を起こして、サイドテーブルに置いてあったぬるいミネラルウォーターを口にふくみ、飲み下す。どこかでつっかえたような感覚に咽る。咳がおさまる頃には頭痛も消えていた。ただ、眩暈だけはしばらく続く。あの眩しく強い牡丹色のひとみにあてられたみたいに。

 

 もう俺はとっくに18になった。彼は…生きていればもう19になったろう。約束を違って何年になったかなんて考えたくもない。

 そっとベッドから降りる。ぐらついて一度サイドテーブルに手をついた。けれど足を前へ。適当なコートを羽織って倒れこむように部屋を出た。鍵なんかかけない。バタンとドアが閉まる音が頭のなかで反響する。

 

 やはり雨が降り始めた。なぜかは知らない、けれどあそこへ行くときはいつも雨だ。きっと彼女が泣いているから。泣かせているのは、ほかの誰でもない、俺だ。あのひとのなみだはいやというほど見てきた。俺に意識があるとき、あのひとはいつだって泣いていた。謝ろうにも声を出すことはもはや禁忌のように。ゆえに謝れたことがない、だから俺はいつまでだってあのひとのところへ足を運び続けるし、そのたびまた彼女を泣かせて雨が降る。

 

(母さん、)

 

 まだ、眩暈。崩れるように彼女の前で膝をつく。雨がしだいに強くなる、叩きつけるような大粒の雨が全身をくまなく濡らしていく。もう秋だ、ずいぶん冷える。夢を見て焦ったように鼓動をうつ心臓には丁度良い。

 

 あの別れた日から、どうもうまく息ができない。「俺」というものがどういうかたちをしていたのかが思い出せないのだ。どんなふうにここに立っていたのかを。どんな目つきで、どんな声で。それら全てがもう失せてしまって取り戻せない。知っているのはカオルだけ。

 あの日のかなしみさえ、あの日のくるしみさえも、カオルが、彼が拭って笑ってくれるから愛していた。どんなことが起きたとしても、自分がどれほど自分を保つことが難しくなっても、「俺」を覚えているカオルがなにもかもを教えてくれる。だからせかいをあいしていた。眩しいこの世界のことを。強くほそまるその牡丹色を。そう、カオルのことを。恋しいと思っていた。ずっと。どんなふうにでも。

 

 目を閉じる、その暗闇のなかで彼の背をなぞる。はっきりと、覚えている。つよく、たしかに。その輪郭を。隠してしまう肩甲骨まで伸びた若苗色の髪さえ。いまは、いま生きているなら、どこまで伸びたのだろう。それとも切ってしまったか。もう知るすべもない。

 

(でも、俺、大丈夫だ)

 

 ひとりだけど、生きているよ。

 眩暈がして脳が揺れても、それが激しく叩きつけられても、喉元を絞め付けられ声が鳴らなくても。寂しくてあなたがどれほど恋しくても、あなたの言葉のとおり生きている。大丈夫だ。これがどん底だ、これ以上傷つくことなんてなにもない。ありはしない。自分から椎葉カオルを取り上げること以上に、麻木鳴海という存在を揺らがすことなどありはしない。大丈夫だ。こうしてひとりでも母さんのところへ歩いてこれる。そうして雨が降りやんだら「麻木鳴海」としてちゃんと振る舞っている。ひとりでも。

 そう、ひとりでも。

 これが寂しいということならば、知りたくなかったよ、寂しくないということを。一番はじめに教えてくれたあの感情を。それでも忘れてしまえない。鮮烈に覚えている。カオルとの日々、すべてを、これほどまでに鮮やかに覚えている。

 

 あの日々のかたちを。正しくすべてを覚えている。

 

 

あなたのそんなところが、

 

 俺はこいつが好きだ。でもきっとずっと言わない。

 

「鳴海、ギブ、休憩」

「またかよ」

 

 梅雨明けが宣告されたのは数日前、夏真っ盛りである今日、こいつの嫌いな太陽が燦々と輝いてアスファルトを熱していく。学校の帰り道を並んで歩く俺とこいつ、椎葉カオルは、コンビニを見かけては涼んで、またちょっと進んでは次は木陰で休んで、を繰り返して、亀のような速度で帰路をのろのろだらだら歩いていた。原因はカオルにある。圧倒的に暑さに弱い上に体力もないからすぐへばるのだ。俺はそんなこいつに付き合って、用もないのにコンビニに入っては、必要でもないのにコーラを買わざるを得ない状況になって、それでもこいつを置いて先に帰る気にはならなかったから、結局最後まで付き合うのだ。

 なんたってさっきも言ったように、俺はこいつが好きだから。それは別にどんな意味であってもいいのだけれども、多分一番一般的な分類、とか、好意の重さとか、を表すんなら、恋慕というのが近いのだろう。そもそも異性に恋をしたことがないけれど、誰より好きで大事で、そばにいてほしいと願うそれが他人に恋と映るなら、別にそれで構わない。俺自身、特にこの感情に名前をつけようとは思っていないのだ。カオルを家族としたって友人としたって、結局思ってることは同じで、世界の誰より信頼していることは変わらないし、世界の誰より麻木鳴海にとって必要な存在であることも変わらない。幸いにもそういう感情をゆっくり飲み下すだけの時間があったから適応できた。こういうカオルとの関係性に困惑せずに済むだけの時間をかけてこいつと付き合ってきた。俺にはカオルさえいてくれればいい。ゆっくり時間をかけて俺をそうしたのはカオルだけれど、気紛れなやつだから明日の保証はない。けれどそれでもいいと感情を飲んだのは俺だ。俺は俺の選択肢だけは絶対に悔やまない。そういう男だと分かって惚れたのだ、初めっから俺の負けなのだ。

 

「あ~来年までにはぜってー金貯めてチャリ買うわぁ」

「どうせ漕ぐのは俺なんだろうな」

「わーってるじゃん鳴海くーん」

「うっせ、うぜェ」

 

 カオルが避難した先、コンビニのアイスクーラーに片手を突っ込みながら、もう片方の腕の肘を俺の肩にのしっと乗せてきて、それが鬱陶しくて手で払う。そうするとつれねーの、なんて興味もなさそうな顔で笑う。そういう男だ、だからこそ俺には必要だった。興味なんてないくせに、俺なんて生きる上では不必要であるくせに、俺が隣にいることを許すそのひとみが、やさしいから。他人からの施しなんて一切必要としない、強く薄情な人間であるのに、弱っている他人に手を伸ばすから、タチが悪いのだ。あまりにも無責任で、掠めて掴めないくらいいい加減な「親切」。けれどそれは偶然か必然か、俺の胸を深く貫いたのだ。本人はきっとそんなつもりはなかった、いつもの気紛れの延長の戯れだったんだろうけれど。それでも俺は確かに射抜かれた。深く、突き刺さったまま、いまこの瞬間もこの胸にある。だって他人が無条件に手を差し伸ばしてくることがあるだなんて知らなかったのだ。ほんとうに、初めてだったのだ。あの日の夕焼けを強く、強く覚えている、忘れられるはずもない、オレンジ色に焼ける空を背負って立つカオルの、眩しい、強い牡丹色のひとみが、今も、何度も、俺の胸を貫く。

 でも、だから言わないのだ。好きだと、カオルには。

 

「あーやっぱあちい」

「そりゃそうだ、もう夏だかんな」

「どうせ異常気象なら寒くなるほうがいいよなー」

「いや俺はそっちのがムリ」

「あぁ、お前はそうだったな」

 

 並んでコンビニを出て、並んでアイスを食べながら、並んで歩く。この距離でいい。これ以上近付きたいと思っているわけじゃない。何度も言うように俺にはこいつが必要だから、失うリスクを背負う意味がない。俺はあいつの理解者足り得ないから、俺がどう認識されているのかまでは分からないけれど、少なくとも好意的であることは分かる。悪友とか、腐れ縁だとか、そんなもんでいい。隣に立っていても不自然でない存在と思われているのならそれだけでいいんだ。それに俺自身、これ以上近付くことは、すこしばかり怖い。気紛れなカオルだ、やっぱり明日の保証はないのだ、だから入れ込みすぎると自分が痛い目を見るのを分かっている。だからきっとずっと、こいつにだけは言わないんだろう、好きだ、と、この、どうしようもなく胸の傷口から溢れてやまない、愛ともつかない不思議な感覚を。

 カオルがどこまで俺のことを理解しているのか、時々恐ろしい。この感情すらも知られてしまっているのだとしたら、と。けれど変わり映えしない関係が続いているということは、言わない限りこいつも見ないふりをしてくれるという意味でもあるだろう。そう思って安心しようとする。そんな、薄っぺらな、覚悟だ。

 ほんとうは毎日こわいのだ。明日の保証がないこと。

 

「なー、鳴海」

 

 並んで緩い坂道を下る。考え事をしていたら気付けばすこしカオルより遅れていた。あの日みたくオレンジに焼ける空を背負ってカオルが振り返る。いつも通りの無責任なくちびるが、音を鳴らす。

 

「付き合うか?」

 

 なに、とは、言わなかった。言えなかった。ただ、歩みが止まった。

 そいつは悪戯が成功したようににんまり笑って、やっぱり無責任な色をしたひとみが遊んでいる。

 俺は絶対に言わない。

 

「…お前がいいならな」

「可愛くねー」

 

 言わない限りは見ないふりをしてくれるから、この、愛なんてものじゃない、ひどく凝り固まった、感情を。それでも今日もまたカオルの気紛れで、俺の首元を締め付ける縄は少しだけ、緩む。嗚呼、明日の保証なんて、ないのに、救われては、だめだ。視界が歪みそうになるのを、まばたいて阻止する。息が、できる、酸素がいつもより多く脳に回って思考も回る。

 

 だから絶対に言わない。きっと、ずっと、好きだとは、カオルにだけは。

 

「可愛くてたまるか!」

 

打上花火

 

 あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。

 

 夏の日、ふたりで裸足になって、ばしゃばしゃと波を蹴った。朝とも夜ともつかない時間のことだった。中学一年生、カオルと最後に迎えた夏。

 藍色の空が海と溶けて交わっていく合間を見ていた。足を攫う冷たい波をざぶざぶと蹴りながら歩いていく。カオルはもう何十歩ぶんも先を歩いていて、遠い。時々その背中を見て、声をかけようとして、やめる。そうしてまた海と空の境に目をやった。

 カオルは来週いなくなる。彼は俺を置いていく。仕方のないことだ。俺たちではどうにもできないことだ。ひとりで生きるには未だ幼い。大人たちに逆らっても生活を保っていくことはできないのだ。だから彼は引き取ってくれる大人たちのもとへいく。いまは俺の部屋、千秋さんの家に身を寄せていて、ずっとこのままであればいいのにと思うけれど、身内が彼を引き取ると手を挙げている以上、俺たちはそれに従うしかない。そう、どうしようもない。

 瞼を閉じて、帰ってくると約束してくれた日のカオルの笑顔を思い出す。そうして自分を落ち着かせることが最近増えた。ああ、離れていくのだと、ゆっくりとでもそれを飲み干すように。受け入れるために。

 ふと、カオルが振り返る。強い牡丹色のひとみと視線がかち合う。藍色の空にそのひとみはあまりに眩しかった。目が眩んで、細まる。いとしい、と、思った。

 

「そんな心配すんなって」

 

 ポケットに手を突っ込んだカオルが、緩く首を傾けながら言う。耳の高さで括られた柔い若苗色の髪が潮風に攫われて靡く。俺は立ち止まって、なんにも言えなかった。

 

「大丈夫だから」

 

 そんな俺を見かねたように、カオルはこちらへ向かって足を進める。ばしゃ、ばしゃ、と波を蹴って、髪を揺らしながら。空はまだ暗いようで、けれどさっきよりも海との境が明確だ。温い潮風が俺の頬を撫でる。湿っているくせすこし冷える、上着を羽織ってくればよかったとちらりと思う。すると見透かしたようにカオルが羽織っていた黒いジャケットを俺の肩にかけた。

 

「大丈夫」

 

 そういってほそまるそのひとみを、俺はどこまで信じていいのだろう。明日になっても彼は、俺のことを覚えていてくれるのだろうか。

 

 

 

 カオルが帰ってきて数ヶ月。6年ぶりのふたりの夏が来た。

 近所では夏祭りをやっていて、時間になれば花火もあがるそうだ。俺たちはそんなものやっぱり興味なくて、河川敷をコンビニの袋片手にだらだらと歩いている。

 

 あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。

 彼が今日も俺を覚えていてくれてよかった。そう思う。眩しい牡丹色は今日もやっぱりまぶしいまま、時たま気紛れに俺を射抜いては、笑う。それが苦しいほど嬉しかった。

 彼があの日くれたジャケットは今も押し入れの奥、返せないまま。俺の知らないところで成長期を迎えたカオルには、もう小さいだろう。彼もきっと覚えていない。覚えていたところで、いらないと言われるだろう。だから俺がずっと持っているまま。きっと返すことも、引っ張り出すこともできない。あの日、あの湿ったくせ冷たい潮風から俺を守ったジャケットは、きっとカオルが帰ってきたら返そうと、そう思っていたはずなのに。

 

「そろそろ花火の時間か」

 

 走っていく浴衣を着た少女たちとすれ違い、携帯の画面に目をやったカオルはそう呟いた。小さな祭だからそんなに派手ですごいものではないのだけれど、スラムの住人にとってはささやかで特別な非日常だ。本当は異専は仕事で、この祭が異能犯罪で台無しにならないように見回りしなければならないはずらしいが、抜け出してきたと、カオルは悪戯っ子のようににんまり笑って、俺を迎えにきた。そうしてコンビニでいくつか酒とつまみを買って、いまはその帰りだ。

 

 夏の日、彼の強い牡丹色に射抜かれるたび、晒された足首を攫おうとする波の冷たさを思い出す。それを蹴る感触を。あの空と海が溶けて混ざった夏、彼が俺に大丈夫だと、そう言って笑ったあの顔を。

 

 ぱん、と乾いた音がして空が明るくなる。会場から遠ざかりながら斜め後ろで打ち上げられる花火を、ふたり立ち止まって眺めた。

 

「結構キレイなもんだなー」

 

 そう言うカオルの、照らされた横顔を見ていた。かれのひとみのなかで咲く花は、たしかに綺麗だった。ぱん、ぱんと続いて夜空に花が咲き続ける。そのたび照らされるカオルのひとみは、あの日よりずっと大人になっていた。足首にあの夏の日の波の冷たさを感じる。

 ふ、と、カオルと目が合う。おれの目を見止めた牡丹色が柔く細まる。

 

「な、大丈夫だっただろ?」

 

 やっぱり、あの日よりもっとずっと大人だ、今日、俺の隣を歩いているカオルは。どきりと心臓が高鳴る。それから安堵と、胸が痛いくらいの幸福感が脳を襲う。浸かってはだめだと思うのに、抗えないほど強引に、カオルが俺を引きずり込むんだ。

 いこう、と、カオルは俺の左手首を掴む。大の大人がふたりして恥ずかしい、なんて思ったけれど、誰も彼も花火に夢中なこんな暗闇では、どうせ誰も見向きもしないだろう。

 

 その鮮烈な牡丹色のひとみをみるたび、あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。