甘い男

 

「椎葉、今日誕生日だね」

 

 珍しくも3人の休日が揃った今日、ぐうたら過ごしていた昼下がりに、神田にふとそんなことを言われた。

 

 ああ、忘れていた。この歳にもなるとこんな世界では誕生日なんてないようなものだ。祝われたところでどんな顔をすればいいかも分からないし、明日死んでいるかもしれないのだから大して喜べもしない。自立した今、歳をとったところでなにができるようになるわけでもないのだし。

 どこにいても神田の声が聞こえるらしい、まあ騒ぎたいだけであろう千ヶ崎が、皿洗いをほっぽって飛んできた。

 

「え!そうなんですか、知りませんでした」

「まあ一応」

「いくつになったんです?」

「19」

「…ん?」

「サザエさん時空だからさ」

 

 今日はどこかに食べにいきましょう、なんて、自分が出かけたいだけの千ヶ崎が言いはじめて、面倒だと思いえーとかあーとか適当な返事をして流していたら、神田までいそいそと準備を始めてしまった。

 神田は昔から家族の祝いごとが好きだった。誕生日を忘れたという"彼女"のために、年に一度、蓄えに余裕のある時期に、盛大すぎるほど料理を作っていた。実をいうとあまり美味くはないくせテーブルを隙間なく埋めたそれらを、ひどく美味そうに平らげていた彼女の笑顔を、覚えている。けれどそれも彼女が病に臥せってからというものぱたりとなくなったから、神田はきっと寂しい思いをしていたんだろう。

 まあたまには子供らに付き合ってやるのも悪くはないか。そんな風に思っていると、狭い官舎にインターホンの音が響いた。はあい、と返事をして千ヶ崎が玄関へ向かう。

 

「なにが食べたい?」

「あー…肉」

「じゃあ焼肉に行こうか」

「そのへんのファミレスでいいだろ、金ねーし」

「せっかく誕生日なのに」

「せっかくもクソもねーわ、この歳になったら」

「椎葉さん、なんかケーキ届きましたけど…」

「は?」

 

 まさか自分で頼んだんですか?

 玄関から戻ってきた千ヶ崎が困惑した顔でそう言って、なわけねーだろと返しながらその手元を覗きこむ。だって今の今まで忘れていたというのに。

 取っ手のついた真っ白い箱は天井にビニールの窓がついており、そこから見えるのは紛うことなきケーキだ。しかも結構でかい、6号はあるだろう。宅配ケーキというやつなのか、箱に貼られたシールに宛名と会社名は明記されているものの、差出人の欄は空白だった。

 

 けれど、ああ、本当に、バカだな。平気でこんなことする奴はこの世にひとりしかいない。

 

「いおり、頼んだんですか?」

「ううん」

「まあいいだろ誰でも、ありがたく食わせてもらおうぜ」

「え?でも怖くないですか?」

「へーきへーき」

 

 台所から包丁と、それから3つ取り出した小皿を机に並べ、ケーキを適当に切り分けてやる。シフォンケーキであるらしいそれはふわふわとして背が高く、白い生クリームで飾られ、粉砂糖のかかった大振りのイチゴがこれでもかと並べられていた。蝋燭もチョコプレートもないそれは、別にバースデーケーキというわけではないらしい。大方気恥ずかしくなってやめたんだろう。神田と千ヶ崎は困ったように顔を見合わせていたけれど、本当に食べ始めた俺を見ておずおずとフォークを取った。

 食べ始めたら美味しい美味しいと絶賛しはじめた千ヶ崎が会社を調べたらしく、サイトを見たら空気が凍るほど高いケーキだと分かって、さすがに呆れた。ここに味の違いが分かる人間なんていないというのに。あいつの浪費癖はどうにかならないのだろうか。

 

 甘いなぁ、と、思った。別に甘味が特別好きなわけではないけれど、たまに食べるとなぜだか美味く感じるのも嘘じゃない。ほんとうに、甘い。すぎるくらいに。バカな男だと笑う。

 

 ケーキを食べ終えたあとも、新聞を適当に読みながらやっぱりぐうたら過ごし、夕方になってそろそろ家にいる頃かと立ち上がる。その気になっていた神田たちには悪いからと数千円をテーブルに置いて、夜は勝手に食べにいくように言い残して家を出た。向かう先なんて決まっている。

 

 女子供は甘いものが好き、と信じている奴だから、神田も千ヶ崎も美味そうに食ってたぞと教えてやれば、多分満足するんだろう。知らばっくれるか、無視を決め込むか。恐らくはそのどちらかなんだろうが、いくら可愛くない奴だからといって、会わないわけにもいくまい。かわいそうに、いまごろひとりでコンビニのサラダをつつきながらカップ酒でも飲んでいるのだろうから。付き合ってやっても罰は当たらない。

 あんな馬鹿みたいにでかいケーキを送りつけてきたのも、そこに自分は必要ないと判断したのも。俺があの子供らをどう思っているのかとか、俺が大事にしているものとか、俺の日常とか、それら全てを尊重した結果なんだろうから、つくづく頭が悪いくせ器用な男だと思う。あいつにとって自分を制御するということは、そんなにも容易なことなんだろうか。

 俺にしてみればお前と過ごすくだらなくて意味のない時間も、と、そこまで考えて、思考は止まった。意味のないものに感情を付属させて一体なんになるというのか。これ以上考えてしまっては、どういう顔であいつをからかえばいいのか分からなくなる。

 

(…甘いなぁ、ほんと)

 

 未だ残る甘さを口内で転がしながら、そいつのことを考えていた。

 

 

2018/9/4

 

分かりにくい男


 鳴海が大怪我をして、長塚のおっさんのところで一日世話になったらしい。忙しくて行ってやれない自分の代わりに迎えを頼む、と、あいつの親代わりの存在である千秋さんから電話があった。またバイクでこけたりでもしたんですか、と冗談めかして言ったが(実際あいつは俺が山暮らしを余儀なくされていた間に、飛び出してきた猫にビビって避けた結果転倒し足を折ったことがあるらしい)、どうにもそんな馬鹿みたいな理由ではなく、それも結構深刻な怪我だったらしい。了解ですと返事をして通話を切り、俺の滅多にない休みと重なるなんて運の良い奴だと思いながら官舎を出た。
 あいつは怪我なんてあればあるだけみっともない、と考える奴だから、そんな怪我をするなんて珍しい話だ。なにかに巻き込まれたのか、あるいはまた同僚と揉めたりでもしたのか。同僚と殺し合うなと毎度思うのだが。そんなことをつらつら考えながら、その診療所に向かった。

「おっさーん鳴海引き取りに来たぞ」

 診療所のドアを開いて中を覗き込む。3つ並んだベッドは、一番奥のひとつだけカーテンが閉められていた。血を噴きながら戦うのが好きな自分でさえ、まる24時間もの安静を言い渡され拘束されたことはない。本当になにをやらかしたのかと思いながら足を踏み入れる。

「あ?赤間が来るっつってなかったか」
「忙しいんだと、俺は代理。長塚くんによろしくだってさ」
「職場に遊びにくんなっつっとけ」

 つったってあんたここで寝泊りしてんじゃん、と目を細めながらカーテンを掴むと、ああ、と長塚から声をかけられた。

「気をつけろよ、なんか頭おかしくなってっから何するかわかんねえ」
「は?なんだそりゃ」

 生きて帰ったということは勝負には勝ったということで、負ける以外にあいつの頭がおかしくなるようなことなんてない。多少気分が高まって攻撃的になっているなんてこともなくはないだろうが、鳴海は理性で生きているからその可能性は限りなく低い。大体、いくらか気がおかしくなっていても俺の顔を見ればおさまるだろうから、そんなに問題はないだろうに、
 と、思っていたのだが、

「なーるみ、お前どうし、」

 え。
 情けない声が出た。カーテンを引き、その奥の群青の丸い瞳を認めた瞬間、

「…なんでお前が来たんだよ、千秋さんは」

 光の如き速さで鳴海は俺の腰に抱きついて、上目遣いにそう言った。

 こいつは一体どうなってしまったんだ。
 なんとか鳴海の部屋まで辿りついたものの、帰りの道中すらこいつは俺にぴったりくっついていた。絵面がキツいため細い路地を選んで通る俺に、「なんで遠回りしてんの」なんてほざいたほどには気が狂っている。室内に入ってからなんかは、ずっと床に転がり雑誌を読む俺の腹に頭を置き腕を回していた。わりと重い。

「…お前、ほんとにどうしたわけ」
「どうもしてねぇよ」

 へなと眉を下げて笑う。まあ確かにこの表情は鳴海のものではあるのだが、それにしてもなんというか、ふやけている。声すらも。毒という毒がことごとく抜かれてしまっていた。嘘を吐いているようには見えないが、明け透けすぎて逆に怪しい。こんなに素直な男ではなかったはずなのだが。どうすべきか悩みながら紙面に目を滑らす間にも、そいつは俺の腹に額を擦りつけている。犬か。いやわりといつも犬だけども。
 そうこうしているうちに時刻は昼の一時。そろそろ腹が減ったなと思い、鳴海を無理やり引き剥がして立ち上がる。台所へ向かう俺にやはりそいつは後ろから抱きついてきて、離れろと軽くこめかみを叩いてやれば、

「なんで?」

 ああ、なんだかもう頭が痛い。

 とりあえず楽だし、あとこいつの家の冷蔵庫にはいつも通りろくな食材がないので、炒飯を作って机に並べる。当たり前だが向かいに座ろうとする俺を、鳴海は上着の裾を引っ張り引き止めて、隣に座れと目で訴える。数十秒ほど睨みあった末負けて、結局そいつの隣に腰を下ろした。なんだこの気持ち悪い状況は。ていうか狭い。
 鳴海曰く俺が早食いなだけらしいが、自分では普通に食べているだけという感覚しかないし、むしろこいつの一口が小さいようにも見えるそう思いながら黙々と食べ進め炒飯が半分まで減ったところで、ピンポン、とチャイムが鳴った。
 が、部屋の主である鳴海は動こうとせず、淡々とスプーンを動かしているばかりだ。

「出ねーの」
「…やだ」
「なんで」
「二人でいんの久しぶりなのに」

 俺は速攻で玄関へ向かった。

 結構待たせたがまだいるだろうかと、一度鳴ったきりだったチャイムを思いながらドアを開ければ、そこには赤間が立っていた。俺の顔を見るなりあからさまに顔を歪めたあと、深く溜め息をこぼす。

「…そういうことか」
「開口一番なんの話だよ」
「…、…とりあえずお前にだけ事情話しとくから」

 赤間は最後まで徹底して俺と目を合わすことなく、淡々と鳴海の状況を説明した。疑問に口を挟むことすら許さずに。どんだけ俺と会話したくないんだこいつ。

 曰く。
 鳴海は仕事でなんだかよく分からない異能と戦闘になったという。仕事って結局なにしてんだ、と訊いても「千秋さんの手伝い」としか言わない鳴海同様、赤間が仕事内容を明かすことはなかったのだが、とにもかくにもそいつの異能は「一度目を合わせた対象から血を流させるごとに理性を削いでいく」ものだったと。仕事を終えてからの鳴海に異常を感じた赤間が、相手の異能を調べさせて分かったことらしい。呪いのようなそれを解く方法はただひとつ、「本能が満たされること」。
 淀みなく紡がれる言葉を飲み込もうと眉を寄せる俺を他所に、必要なことは全て伝えたと言って赤間は踵を返す。

「…てめえがいるんじゃ無駄だろうけど、仕事来てくださいって麻木さんに一応言っといて」

 去り際、あの鳴海が仕事を放棄している事実まで突きつけられ、いよいよ眩暈がした。

 理解したかと言われると怪しいところではあるが、納得はした。思考することで自分を動かしている鳴海から理性を奪った結果があの大怪我だということだ。いつも最短で導き出している最善を、あいつは選べなくされたのだ。それでも生還したのはほとんど奇跡に近いだろう。
 あいつが俺を心底好きでいるのは知ってはいたが、まさかこんなことになろうとは。小さく息を吐き出して玄関を閉める。つまるところ俺は、あいつの気が済むまで付き合ってやらなければならないわけだ。重くなった肩を一度回して、不貞腐れているであろう鳴海の待つ居間へ引き返した。

 疲れる。
 多分こいつは悪く、はない、と思うので(いやでも少しくらいはこいつも悪い、本能で俺を好きすぎだ)溜め息を飲み込んではいるが、敏感な奴だから俺が疲れていることを感じとってはいるんだろう。それでも態度が変わらないあたり、本当に理性はほとんど残っていないらしい。
 鳴海は俺がなにをするにもどこへ行くにも、べたべたと引っ付いて回った。風呂にまでついてこようとしたのにはさすがに困った、勘弁してくれと言って聞かせたら拗ねながらも洗面所までで我慢してくれたのだが。それ以外はなにを話すでもなくただ黙って抱きついて、時折俺の目をじっと見つめているばかりだ。とてつもなく居心地が悪い。あれから無理やり引き剥がすことはしていないが、一体いつになったら満足するのだか。もう日付も変わったというのに。

「…鳴海、俺そろそろ寝るけど」

 座椅子に胡坐をかき寄りかかって雑誌を読む俺の膝の上に乗って(やっぱりわりと重い)じっと俺を見ていた鳴海にそう言うと、案外素直に退いて立ち上がった。雑誌を放ってもいつものように「ちゃんと片付けろ」と説教されることすらない。俺に甘い奴だと分かってはいたのだが。

 寝室へ向かおうと一歩踏み出したとき、くいと髪を掴まれた感覚に振り返る。俺の湯上りにおろしたままの長い髪をひと房掴んだ鳴海が、罰の悪そうな顔でカオル、と、ちいさく名前を呼んだ。

「どした」
「…、なぁ、その」
「…なんだよ」
「……してほしい」

 え。
 ぱっと顔をあげてそう言った鳴海は、目を瞠り硬直する俺を、顔色も変えずにやっぱりじっと見つめている。
 や、それは、喜んで。そう言いたいところだが、黙ってしまった俺に瞳を不安げな色で揺らしはじめた鳴海を見て、ああ違うのかと少しばかり安堵する。こいつが願って「してほしい」なんて言い方で強請るのは、そんなに分かりやすくて自身の快楽に繋がることじゃない。苦笑いしながらそっと頬を撫でてやれば、眉尻を下げてやっぱり毒の抜けた瞳で手のひらに擦り寄った。
 そのまま手を滑らせ頭を抱き込んでやる。右腕も腰に回して密着すれば、鳴海は肩の力を抜いて、おずと控えめに俺の背に腕を回した。
 こいつは、するんじゃなくて、されたかったのか。明け透けに見えた態度は鳴海らしい本当の願いを隠す手段で、いつもと違う声と態度に惑わされ、それに気付いてやれなかった。

 謝るように髪を掻き混ぜた瞬間、そいつは突然膝から崩れ落ちる。ぎょっとしながら支えて顔を覗き込めば、呑気にも眠っているようだった。恐らく異能の効果が切れたのだろう。
 本当に、困ったやつ。一度だけその鼻の頭に小さく吸いついてから、肩に抱え上げて寝室へ向かった。

 翌朝、一連の記憶がしっかり残っていたらしい鳴海が投身自殺を図っていたことは、言うまでもない。


天性の弱虫


(バンドマンパロ)



「なあ、もう終わりにしよう」

 鳴海がひどく暗い声で落としたその言葉に、なにが、と返すことしかできなかった。本当は、分かっている、のだけれど、そうやって誤魔化せば、なんでもないと取り下げさせることができるから。そんなことをして、今までにもう二度、逃がすことで逃げてきた。
 分からないわけはないのだ、こいつの望む言葉が。けれども口にしたくはなかった。単純な、プライドの問題だ。互いの負けず嫌いを、互いが一番知っている。

「恋人の真似事は、やめにしよう」

 ああ、もう、逃げてはくれないのか。お前が俺から手をはなすなら、二人を繋ぐものはなにもなくなるというのに。
 大して揺れてもいない鳴海の声、けれどそれは繕ったものだと知っている。それでも、繋ぎとめようと縋るのは、俺の役目じゃない。いいわけはないくせこいつは頷くのだと分かっていて、俺はさよならを口にする。

「お前がもういいなら」

 鳴海はつくづく俺に甘い。当たり前だ、まだ俺のことが好きでたまらないのだから。これからだってきっとそれはやめられないんだろう。
 住むところがなくなるのは困るだろうからと言って、鳴海が実家に帰り、部屋には俺だけが残された。俺の実家は家族ごと燃えたので確かにありがたくはあるのだが、いざとなれば女の家を転々とすることだってできたのに。そのうえひと月で仕事を見つけろと金まで置いていった。
 けれどそれは優しさじゃない。鳴海の、いつでも待っているという、未練の言葉だ。追い出すのではなく、自分で築いた城に俺を残すことで、いつか再び受け入れてくれる日を待つことにしただけだ。待つくらいなら初めから離れなければいいものを。自分の首を絞めるだけなのに、それでもわざわざ離れたということは、俺になにかを求めているのだ。それがなにかなんてことは、それこそ初めから分かっているけれど。答えが分かりきっている、と知りながらそんな課題をおいていなくなるなんて、一周回ってむしろ難題だ。あんまりにも馬鹿げてる。
 あいつのいなくなった狭い部屋は、がらんとして隙間ばかりだ。手が滑って砂糖を入れすぎてしまったコーヒーを啜る。ほんとうに、甘い。すぎるくらいに。

 あれから何日か経って、そう、経ったのだけれど、どれだけ寝てどれだけ起きて、起きていた時間になにをしていたかはあまり覚えていない。
 最適解は既に手元にあるのだが、どう発露させればいいかが分からなくなっていた。余計な意識を介入させるとそれはもれなく鳴海に気付かれてしまうし、かといって、あのとき「お前がもういいなら」と言ってしまった時点で、もう今更、なにも考えずなんてのは不可能だ。あの言葉自体が余計な意識そのものだったのに、いまから建て前を取り払うなんてのは、やっぱりプライドが許さない。
 狡猾な男だ。本当にそう思う。俺からたった一言を引き出したいだけなのだから、それに繋がるたった一言を直接言えばいいものを。回りくどい、のに、分かりやすい。面倒だと思う、鬱陶しいと、そう思っている、はずなのだけれど、それでもやっぱり鳴海のいない空間は、広すぎて、酸素が多すぎて、それからあまりにも寒い。あいつの高い体温、が、いつまでも帰ってこないのは、それは少しばかり、困らないこともなくはない。
 そう思って、連夜、女の家を渡り歩いたりしてみた。けれどもやっぱり、どれもこれも鳴海の温度とは違うのか、ちっとも温まりはしなかった。代替品が見つからない。俺はいよいよ、鳴海にその一言を、言ってやらなければならなくなってしまったようだった。そんなのは、白旗を振るのとおんなじことなのだけれど。

 あいつのバイト先の裏、出てくるであろう染まって傷んだ髪を待つ。今更と分かってはいるのだが、一体どんな顔をしろと言うのだろう。鳴海は俺に甘いけれど、甘やかされた俺がどんな反応をするかまでは、大して考えていないのだ。今後はもっと、俺が振る舞いに困らない接し方をしてほしいものなのだが、果たしてそれがあいつにきちんと伝わるかは、正直微妙なところではある。俺が本当になんにも考えず過ごしていると思っているのだ、あの男は。強く否定はできないが、それでもあいつが思っているほど頭を空っぽにして生きているわけじゃない、けれど鳴海のように思考に埋もれているわけでもないから、極端なあいつに正しく伝えられる気はしない。そうして結局面倒だと、そのままにしてしまうのだ。そしてその結果がこれだ。
 燻んだ群青のそれを、真正面から射抜けるものか、こんなときに。近付いてくる鳴海の足音を拾いながら、俺は未だに顔を上げられないでいた。

 

忌み子だった男


 さて、今年もやってきた12月19日。
 三ヶ月前、あいつは俺の誕生日に、ケーキを贈りつけてきた。三人で食うにはバカみたいに大きくて、ただの一般人には高すぎたそれ。それに見合うものをと言われると薄給である俺はどうにも参ってしまうのだが、俺にしてはそこそこ考えた結果、物質に興味がないあいつに物はいらないだろうという結論に至った。無欲な男で助かるよ、ほんと。
 ところであいつは別に自分の誕生日を嬉しく思わない。過去にも数回祝ってやったことはあるが、まぁどれも見事につまらない反応ばかりしてくれたものだった。生い立ちから考えて不思議なことではないのだが、なんとも祝い甲斐のない人間である。けれども自分で自分を祝えないだけ、その存在をありがたく思えないだけで、「祝われること」自体は嬉しくないわけでもないらしい。だったら素直に喜んでおけと思うが、性格上難しいのだろう。今更生き方を変えろとは言わないが、そういうところに自分が一番苦しんでいるのだろうから、つくづく不器用な奴だと思ったりはする。

 あいつは俺と違って、自分の誕生日を把握している。その数字を見ればなんの日かくらいは思い出せる。そうして後ろめたく思うのだ、また一年生き延びたことを。

 スラムへ帰ってきてからもう何度も歩いた道を行く。その間、懐かしい記憶が自然と思い起こされていた。
 俺は自分の誕生日なんかはすぐに忘れてしまうのだが、鳴海の生まれた日だけは覚えていて、近くにいるなら必ず祝ってやった。物を贈ったことは少ないけれど、毎年隣にいてやった。そうしなければ、あいつはますます、自分のことを嫌いになるからだ。


 小学六年生、つまりあいつと最後に過ごした冬のこと。その日、あいつは学校に来なかった。
 毎年祝っていたものだから、俺はなんとなく居心地が悪くて、家に帰る前に赤間の家に寄ったのだが、チャイムを鳴らしても玄関が開かれることはなかった。千秋さんに連れられどこかへ出かけでもしたのだろうか。俺はそんなことを思って、一度鳴らしたきりでその家をあとにした。

 その夜、俺がふらふらとあたりを散歩していると、見慣れた黒髪が公園のブランコに腰かけて、踵を地につけたまま、きぃきぃと静かに揺れていた。それを少しだけ眺めていたけれど、そいつは一向に動こうとしないまま、寒がりなくせひどい薄着でじっと夜空を見つめていたものだから、思わず肩を竦めた。またなにごとかを考えこんでいて、そうしてそれは良くない方向に進んでいるばかりなのだろう。俺は小さく溜め息をこぼした。

「なーるみ」

 公園の入り口から声をかけて、ゆったりとそちらへ近付く。ゆるゆると振り返ったそいつは、開口一番、可愛くない顔で「誰かと思った」、なんて声を落とした。視線に気がついていたのなら振り返ればいいのに。
 その隣のブランコに腰かける、がちゃりと金属が擦れる音がする。鳴海は相変わらず空を見上げていた。

「なにしてんだ、こんな時間に」
「そりゃこっちのセリフだ」
「俺はまぁ、いつもの」

 するりと右腕の袖をまくる。俺はとっくに見慣れた小さな火傷の痕を認めると、鳴海は何でもないような顔で視線を上へ戻して、

「…そうか」

 それだけ言って、やはりきぃきぃと揺れる。
 鳴海は俺が、本当にほとんどなにも感じていないことを知っている。だから同情なんかは必要ないからしないし、俺だってされたら単純に困るのだけれど、鳴海はそれ以上に、どんな顔をすればいいかが分からなくて、困ってしまうようだった。可哀想と思っていないことは分かるが、それでも俺に傷痕が増えるのを見るのは気分が良くはないらしく、けれどそれすら知られれば俺が鬱陶しがるのではと勘繰っているのだ。鳴海にだって、時々は可愛いところもある。

「で、お前はなにしてんだ、そんなかっこで」

 すぐ風邪ひくくせに。つられるように俺も空を見上げながら問いかける。意味もなく散歩なんかする奴じゃない。きっとあの家には居づらいのだ。それは多分、今日がその日だから。

「…なんでだろうな、やっぱり、この日はくるんだ」

 きぃ。ブランコを揺らしていた足が止まる。

「また、母さんに近付いて、このままじゃいつか追い抜くんだと、そう思ったら、…そんな日がきたら、どんな顔して生きろっていうんだ」

 そんなの俺は、許してないのに。顔色も変えず鳴海はそう言った。
 ほんとうに、難儀なやつ。何度なにを言ったって、こいつはそれを受け入れやしないし、生き方だって変えられない。それでもこいつは生きていくのだ。ある日ぱったり、全てが手につかなくなるその日まで。

「誕生日、おめでとさん」

 そんなのは見たくはないなぁ。俺は漠然とそう思った。
 頭に手をやり、ぽんぽんと柔く叩いてやる。そいつはきゅうと眉を寄せて目を瞠り、その燻んだ群青のひとみを揺らしながら、俺を見た。けれどすぐにその目は伏せられ、顔はすっかり俯いて、表情すら前髪で見えなくなる。消え入るような、ひどく弱ってしまった声で、

「…めでたいものかよ」

 もごもごとそう呟いたきり、小さな肩を微かに震わせて、黙って撫でられていた。


 ああ、そうか、あれはもう、八年も前のことになるのか。
 俺の奥底にひどく根付いている記憶だ。寒空のした震えていた幼いあいつをよく覚えている。
 結局鳴海は寒がりを克服できないままだった。

 考えているうちそいつの部屋の前へ着いて、慣れた手つきでその鍵を回す。一度だけ座標移動で侵入したことがあったのだが、鳴海、と声をかけるより早く切っ先が喉を掠めて、一瞬驚いたような顔をしたわりにすぐ真顔に戻ったそいつが「殺すとこだった」、なんてけろりと言いやがったのをきっかけに、俺はインターホンを鳴らすようになった。なった、と言ってもそれを使ったのも一度だけ。あの日、インターホンを鳴らしてからしばらく待って、もう一度鳴らそうかと手を伸ばした瞬間に玄関は開き、迎えたそいつがなぜだかひどくむすっとしながら「面倒だからこれ使え」、と投げて寄越したそれを使うようになったからだ。

「なーるみ」

 適当に靴を脱ぎ、冷えた廊下を歩いて、居間の扉を開く。こちらに背を向け新聞を眺めていたそいつが、不機嫌そうな目線を一度ちらと寄越したきり、黙って新聞を読んでいるふりをしているので、俺は肩を竦め苦笑いして、赤茶に染められすっかり傷んだ頭を撫でてやる。
 祝ったって喜びはしないくせ、誰かに存在を許されなければ、こいつはどんどん、自分が生き続けているという事実の重さに、耐えられなくなっていく。自分の誕生日にまで決まって体調を崩すようになるなんて、そんなさまは見たくないから、お前が生まれたことをめでたく思う変わり者もいるのだと、そう教え続けてやらなければならない。ある日ぱったり、なんてそんなのは、この不遜な男には似合わないから。
 だから、

誕生日、おめでとさん」

 言えば、やっぱり鳴海はきゅうと眉を寄せて、くちびるをきつく結ぶと、俯いて表情を隠してしまう。どうやらもうしばらく、その頭を撫でていなければならなくなったらしい。


2018/12/19