1:
じめじめ。じめじめ。……と、うっとおしくて重たい湿気が肌にまとわりつく日々が続いて、
出歩いていた街の中耳に入ってきた「梅雨入り」という言葉に、
いよいよもって宣告されたように、わたしは大きくため息をついた。
テレビを見ないわたしは、スマホの天気予報アプリが知らせた一週間の降水確率を眺めてうなだれていたばかりで、
この日本にはその季節がやってくる時期だということを、すっかりと忘れていた。
梅雨。梅雨だ。雨がふって、次の日もふって、その次の日は曇りのちまた雨で、……そうかこれは、……梅雨、か。
なにせ、日々はただでさえ憂鬱だ。道行く垣根に花咲いた紫陽花の色になんて目もくれず、
どんよりと瞳を沈ませて、濡れた灰色のコンクリートを引き摺るように、
ずるり、ずるりと歩みゆくほかに、なにがあるというのだ。
のろまなわたしを、季節は軽々と置いていく。気づけば春は終わっていたし、
夏が来るのならそうか、ああ。梅雨がきたんだ。
気分転換になるよ、とわたしよりよほどアクティブなガールの友人は可愛い折り畳み傘をわたしに勧めたが、
コンビニで買った間に合わせのビニール傘に慣れてしまって、今更そんなお洒落をする気にはなれなかった。
気恥ずかしい、し、なにより滑稽だ。いくら傘が可憐で幸せな色をしていても、
さしている人間が目の下にクマをのせて治らない猫背でそれを背負っていては、
……哀しいというほかに、なにがあるというのだ。
わたしはずぶずぶに濡れたボロッちい安物のスニーカーと、大きさだけは頼りになるこのビニール傘と、
湿気で崩れた化粧がお似合いの、のろまで、哀れで、滑稽な、……、
女どころか人間にも成り切れないまま街にしがみついた、なんか、どよんとした、へんなシミみたいなものだ。
空を見上げれば相変わらず、暗い雲はぬるい水をぼたぼたと落としているだけで。
水たまりにはしゃいで飛び込んだり、大きな葉っぱの裏に隠れたカタツムリを宝探しのように見つけ出すような、
そんな幼いころの、今となっては眩しいだけの才能も、もはや自分の物ではなくなっていた。
上司のイビリ。同僚のイヤミ。終わらない残業に、上がらない給料。
疲れたということすら馬鹿らしい。一晩寝て起きてしまえばどうせまた働ける。人間は丈夫にできてんだ。馬鹿らしい。
それでも少しオセンチになって、なんでもないのにビニール傘ごしの空を見上げてみたりしたんだ。
そしたら、でっかいミミズを踏んだ。雨でぐちょぐちょのミミズ。……の、死体になったもの。
現実はいつもこうだ。いい加減にしろ。ワンシーンぐらいセンチメンタルなポエムを挟ませろ。
やり場のない怒りをそのまま蹴り上げて、誰もいないと思ったら人がいて、
気まずさに意味なくせき込んでみて、ああ、もう、なんかもう、いつもどおりで。
やってらんねぇなぁ。梅雨。そうぼやいてから、数分前の自分の言葉を思い出す。
……結局のところ、梅雨だろうとなんだろうとそうなのだ。
"日々は、ただでさえ憂鬱だ。" わたしはまたため息をついた。
だから、べつに梅雨のせいじゃない。……ない、けど。嫌いだ。梅雨、梅雨が嫌いだ。わたしは。
2:
毎日毎日、雨が世界を煙らしている。
それでも今日は大切な日だから、と、祈るような思いで作った小さな照る照る坊主。しかし、効き目はなかった。
天気予報が示した高い降水確率の通りに、しとしとと雨音が響く。
窓にぶら下がった太陽を乞う人形が、心なしかしょんぼりとうなだれているように見えた。
空模様を残念に思う私の心情のせいなのか――いや、もしかすると、役目を果たせなかった人形が、本当に落ち込んでいるのかもしれない。
くだらないことを考えながら、瞬きをひとつ。
鈍色の空が吐き出す雫と、雫を受けてきらきらと光る紫陽花。
雨の季節真っ直中の今日、晴れるはずがないことなんて、知っていたのだ。
三年前の同じ日。雨に溶けて消えていった君に、言いたいことはたくさんあった。
でも、そうだ、まずひとつ。
「私、君の年を、今日追い越したわ」
3:
重い雲から濁った雨が降る。ぱたぱたとドアをノックするような音が不定期に天井から響く。男はだるそうに寝返りを打つと、ひとつ溜息を零した。その様子を見届けてから、俺は手に持っている雑誌へ目を落とす。
かれこれ数時間もこんな状態が続いている。せっかくの休日なわけだが別に苦痛ではない。ただ定期的に寝返りをうつだけの男と、そのへんに置いてあった雑誌とを、見たり見なかったり、とりあえず目で追っている。俺はこういう休日は好きだ。ただなんでもなく、騒ぎもせず、鬱屈と縮こまるわけでもなく、かといって開放感があるわけでもないこの閉ざされた空間で、時間がゆるやかに流れるのに身を任せるだけ。カチ、カチ、と定期的に鳴る時計の音と、俺が雑誌をめくる音、そいつが布団を引き寄せる布擦れの音。静かにそれらを聴きながらたいして読んでもない紙面を目に写す。有り体に言えば無為に過ごすこの休日が好きだ。
けれど目の前にいるこの男はそうではないのだろう。季節の変わり目、ほぼ必ずと言っていいほどの確率で体調を崩すこいつは、「慣れている」とは言いながらも、苦痛からは逃れられないようで。気だるげな瞳と動作でもって今日をやり過ごそうとしている。また寝返りをうって、そいつは俺を見た。
「……頭いてェ、薬」
「鎮痛剤飲むならなんか食わねーとな。熱も測るか」
「いいわ…どうせ下がってない」
「粥レンチンしてきてやっから、薬は一口でも食べてからな」
「…うん」
よっと、なんて声を出しながら立ち上がって、寝室からリビングに繋がるドアを開き、ふと男を振り返る。
そいつはのそりと体を起こして、じっと窓を見ていた。ただ雨が叩いているだけの窓を。その濁った雫が地に落ちていく、あるいは窓を流れていくさまを、目で追っている。時々跳ねている寝癖もそのままに。
ひとみにはいつものような強気な光は散っていなくて、ああ、あの群青のひとみに金の光が散るのは晴れているときだけなのか、と、曇っているだけのそいつの目を見ながら思った。こいつの、いつもどこか霞んで、そしてこの雨のように濁っている群青のひとみは、まるで雨上がりの水溜りのようだ。鈍い雲を写し、その微かな隙間から差す大して美しくもないくせに強く細い日差しを反射するさまが、似ている。
そういえば金の光なら俺の目にも散っているらしい。いつだかの昔にこいつに言われたのをたまたま覚えている。俺のひとみは強く眩しいそうだ。瞼の裏に焼き付くほどに。どうでもいいような、なんだっていいような、そんな気持ちで聞いていた。そいつの声を。そう、俺はきっとこいつの話なんかよりも、その声を聴いているのだろう。その心地良いテノールを。
ぱたん、ドアを閉める。雨があちこちを叩く音がするだけのこの部屋は、まるで俺達をぬるいまどろみに閉じ込めているようだと、思った。
4:
『水溶性サヨナリズム』
あの日も雨が降っていた。
仕事から帰ってきて、適当にシャワーを浴び、髪も乾かさないまま冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に喉に流し込んで、それから。「マジか……」タバコを切らしていたことを思い出した。
マンションの真ん前にコンビニがあることが悪いと思う。ウソ、悪いのはオレの頭だ。サンダルをつっかけ、ビニール傘を開く。くすんだ白にはまだ帰宅時の雨粒が残ったままだった。
「マルボロメンソールのソフトひとつ」
サンダルなのも馬鹿だった。やけに前髪の重い店員がのろのろと商品を探す。天パやべーな、この時期大変そー。とまで思って、それが昔の顔なじみであることに気付いた。
「オマエ、こんなトコにいたの?」
天パの方はその前からオレに気付いていたようで、こちらにタバコを差し出しながら「お久しぶりですー」なんて言ってへらりと笑った。
中坊の頃の話だ。屋上で死にかけてる奴がいた。別に説得らしい説得をしたわけでもなかったが、結果的にソイツは死ぬのをやめにした。単にオレが鬱陶しかっただけかもしれない。それでも良かった。
「ちゃんとしてんの、エラいじゃん」
「センパイは相変わらずですねー」
他に客がいないのを良いことに、しばらくカウンターに居座る。オレがこれといって内容のない話を一方的に喋り、それにコイツが興味なさげに雑な相槌を打つ、という感じが懐かしかった。
「また来るわ」
「はーい。ありがとうございまーす」
タバコの他に、ホットスナックの入ったレジ袋を指にぶら下げて店を後にする。気分良く濡れて帰って、コンビニの傘立てに忘れ物をしたことに気付いたのは、翌朝のことだった。
***
その日も雨が降っていた。
「うわオマエ、なに窓なんか開けちゃってんの!?」
「あ、センパイ。おかえりなさーい」
バイト先の真ん前に建つこの人の部屋に居候を始めてしばらく経つ。進学も就職もせず、食べたり食べなかったりだったおれを見兼ねたセンパイが拾ってくれたのだった。昔からお人好しなところは変わらない。
「洗濯しておきましたー」
「お、サンキュー。でも、窓開けてたら意味ねーじゃん」
笑いながら窓のそばまで近付いてくる彼をおとなしく待つ。3階。さすがに死ねる高さではない。風はそれほど強くないものの、細かな雨は少なからず窓の内側を濡らした。
「センパイ、彼女いないんですかー?」
暗い外を見下ろしながらへらりと笑ってみせる。「はぁ?」彼はなにか言いながら窓と、それからカーテンを閉めた。先に濡れたところを拭いたほうが良かった気もする。
「もうオマエが彼女みてーなモンだわ」
「お世話になってますー」
ぐしゃぐしゃとおれの頭を撫でる手に少しだけ身を任せる。この人は余計なことを訊かない。あー腹減ったなーカップ麺とかあったっけ? などと一人で喋りながら台所へ向かう背中を目で追う。
「オマエ、オレに彼女できたらどーすんだよ」
冗談めかして言った声は、もしかすると震えていたかもしれなかった。彼は優しい。
「できるんですかー?」
「バカにしてね?」
「センパイ、優しいからモテそうですもんねー」
「急にそーゆーのナシ」
そろそろ出かける支度をしなければならない。時計を見る。今夜もバイトが入っている。部屋干しの洗濯物が重くぶら下がって、じっとりとした空気が肌にまとわりついた。
「センパイに彼女できたら、おれも彼女探しますねー」
「いーよ、別に。オマエが彼女で」
「お世話になりますー」
へらへらと、図々しく笑ってみせる。不確かなこれからの話を彼がどんな顔で聞いているのか、その背中だけでわかる気がした。これは恋愛ではない。この雨が止んだら出ようと思った。
***
雨が降っている。
仕事から帰ってきて、電気を点ける。適当にシャワーを浴び、髪も乾かさないまま冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に喉に流し込んで、それから。
吸っていー? と、タバコを手に取る流れでつい口に出しそうになる。「どうぞー」と返す気怠げな声はない。なんの前触れもなくアイツがこの部屋を出ていった梅雨の終わりからもう何年も経つ。
実のところ、こんなふうにアイツが突然いなくなるのはこれが初めてではなかった。唐突に私物のすべてを処分して姿を消す。慌てたオレがソイツのバイト先やらネカフェやらビルの屋上なんかをあちこち捜し回る。見つけた先でソイツはいつもへらへら笑いながら不思議そうに首を傾げた。
「なに考えてんだよ、オマエの家はあそこだろ」
「センパイ、雨すごいですねー」
雨なのか汗なのか、もはやなにで濡れているのかわからない髪を雑にかき上げる。お節介なのはわかっていた。自力で生活できないヤツではなかった。それなのに、いつだって声が掠れるのを誤魔化せない。
「てゆーか、歯ブラシはともかく、コップまで捨てんなよ。なにでうがいするつもりだよ」
「すみませんー」
相変わらず緊張感のないコイツに、いつものように郵便受けから見つけ出した合鍵を半ば無理矢理握らせてマンションに帰る。いつものように。そうやってまた何度でもやり直せると、心のどこかで思っていた。
アイツはついに空を蹴った。
タバコの煙がじっとりとした空気に混じる。アイツのことは大切で、用がなくても名前を呼ぶし、なにかあればすぐに駆けつけるし、抱き締めるし、アイツが望むならきっとキスだってした。例えばこれが恋人同士だったなら、あるいはなにか変わっただろうか?
「どうせ、オレの彼女になりたかったわけでもないんだろ」
部屋干しの洗濯物が重くぶら下がっていた。やけに前髪の重い天パが瞼に浮かぶ。雨が降り続けていた。窓は閉まっている。アイツは帰ってこない。
***
今日も雨が降っている。
5:
『吸水する空気』
(或いは木製の扉、)
「降るよ、」
雨。天宮がそう言った。
肌に湿り気。開いた扉。ピアノと湿った店内、外には車道。天宮にはなにが見えているのだろう。見上げた空は青かった。
「雨の匂いは昨日の残り香だ。天宮、部屋にいたあんたは知らないだろうが、昨日の夜は雨が降っていた」
「今日も一日部屋でピアノを弾いている」
いや、そこじゃなくって。脳内でツッコミを入れながらも、雨だという忠告はありがたいし、折り畳み傘くらい持っていこうかと店の扉を閉める。埃一つ被っていないアップライトピアノの前を通って暖簾をくぐったバックヤードはごちゃごちゃとしていた。
それはそれとして、天宮にはなにが見えているのかが気になる。
「天宮。きみ、窓も見てないのに天気がわかるのか?」
「なんとなく」
そりゃすごい。十代にして世界的なピアノコンクールで何度も優勝するような『天才』様はピアノ以外のことに関しても繊細なのだろうか。いや、その線は薄い。料理の味はわからないし、俺の蔵書から貸してやった本は二行で寝落ちた。
やっとのことで見つけた折り畳み傘をバッグに入れてベースを担ぎ直す。通り道で後ろから見た天宮の指先はアップライトピアノの鍵盤の上で小さく震えていた。腱を断裂した指先で奏でられるのは昔のような超絶技巧ではなく、やわらかな旋律。コンクール用に鍛え上げられた正確な打鍵と、繊細な音色。
「音が」
「え?」
「最近、雨が近づくと音が変わると気が付いた。昔から湿度はピアノの音色に影響を及ぼしていたが、最近は湿度ではなく天気で変わる」
鍵盤も見ずに指先の感覚だけで奏でられるピアノの音が雨音のようにころころと響いて耳を支配していた。合った視線の青色がみずたまりのようだと思う。微笑みを投げかけられれば微笑みで返すしかない。
なるほど、この『予知』どんな環境でも最高の音を奏でてきた天才ピアニスト・天宮伶の感覚そのものだったのか、と納得する。背にかけたベースが湿気で重みを増している気がしていた。
「音楽家にとっては最悪の季節だものな、梅雨とか、日本の夏って」
「音の変化が楽しいんだ。私の音はこんなにも変わるものだったのかと感動すら覚えるほどに」
伏した目が、睫毛を透かしてあおい瞳が明々とひかるさまを際立てていた。『美しい音』を奏でていた天宮にとって雨や湿気で籠りがちな音は今までにどれほど邪魔だったのだろう。頭に疑問が過ぎった瞬間、天宮の弾くアップライトピアノはいつもよりも柔らかな(変、と言っても差し支えがない)音を上げ始めた。驚きに目を見張ると、動く指はそのままに天宮がくすくすと声を上げて笑う。よくよく足元を覗き込むと、いつの間にやらピアノは鍵盤のハンマーと弦の間にフェルトを挟む、弱音ペダルが踏まれていた。湿気でただでさえ籠る音をさらに歪ませてこのピアニストは楽しんでコロコロと笑っているのだ。
「梅雨がこんなに楽しいと思ったことはない」
「そりゃよかった」
時計を見る。午後一時半。もとより時間も決まっていないようなゆるい集まりのバンドではあるけれど、夜に店を開けることを思うと早めに出るに越したことはない。奏で続けられるピアノは弱音ペダルを外してもとの音に戻る。梅雨特有の、湿り気を帯びた空気に響く、やわらかな音だった。
「天宮、夕飯何が食べたい?」
「レアステーキ」
「そんな高級品、なにかの記念日でもないのに作らないよ」
「知らない? この曲の作曲者、モーリス・ラヴェルの好物だったんだ」
え、ラヴェルってそんな肉好きなの? 著名なクラシック作曲家にしては珍しい、人生も女性関係もとくだん派手じゃない、というか、硬派なラヴェルが(世間的な分類でいうと雰囲気任せな印象派だけどね)。
「それに、今日は梅雨記念日だよ、私のピアノが雨にも負けず正しく響く日」
「またそういう冗談を当たり前に口にする……」
自分のピアノに合わせて鼻歌まで歌い始めた天宮をよそに、帰りに商店街の肉屋で牛肉を買おうと画策しながら扉を開けると、さっきまでの青い空はどこへやら、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。鈍色の空、白い雨の針。水の戯れなんてものじゃない。扉をくぐってすらいないのに足元が濡れはじめていた。この店内の防音、働きずぎじゃないか?
「さっきから降ってたよ、きみが気が付かなかっただけで、音自体は結構前から」
打ちひしがれる俺をよそに天宮が笑う。俺は思わず折り畳み傘を片付けにもう一度扉を閉めた。というか、ベースにもビニールをかぶせなきゃこりゃきつい。俺のフェンダーが大変な音になりかねない。諦めてドラマーのタクシーを呼ぶか、とか考え始める自分に項垂れる。
「え、すごい雨じゃん?」
「言ったじゃないか、雨が降るって」
「まさかこんなに降るなんて」
「梅雨だからね」
「天宮のピアノが雨乞いのピアノだったなんて……」
「おい。」
もうやめ、今日のステーキは明日以降に延期。適当についた嘆きの冗談に天宮から非難の声が上がる。演奏をやめたアップライトピアノに振り返った。でかい傘は店のカウンターの裏に置いてはいたけど、それは後。
「天宮、今度は晴れそうな曲を弾いておいてくれ」
「なんだよ、それ」
馬鹿じゃないのか、なんて笑われる。ピアニストにとっては最悪の季節。けど想定できないことって、ちょっと楽しい(いまの雨のように絶望をもたらすことも多いけど)。
肌に湿り気。閉まった扉。担いだベースと乾いた傘、自分の店の中にはジャンルの違う音楽家。そういえば雨の日のライブって、なんでか盛り上がるんだよな。
6:
脳内をひっくり返したような不快感がして目が覚めた。
瞬きの間で意識を取り戻した。はっとして目をしばたたかせて、そこが茫洋とした暗がりに沈む自室であること、鬱陶しい体温の染み付いたベッドの上であること、カーテンの向こう、窓ガラスの外側は雨であること──を認識して、それでようやく自分が悪夢を見ていたことに少年は気が付いた。タイマーをかけて放っておいたクーラーはとっくに役目を終えて沈黙していて、蒸し暑さが悪夢の一助となったことはすぐに想像できた。日頃の癖で指先がスマートフォンを探した。ベッドの端で固い液晶に触れた感触があって、立ち上がった端末には寝直すのにも起きるのにも不適当な時刻が表示されていた。
少年はそういうとき決まって膝を抱えて蹲り、この空虚な時間をやり過ごそうとする。そうだ、初めてではない。実に七年も前から、梅雨は大量の雨とともに少年に悪夢を運んでくる存在になった。線香の匂いを嗅ぐとぱっと仏間を思い浮かべたりはしないだろうか? 柔軟剤の香りで母の背中が過ぎることは? 少年にとって濡れた街のにおいは死のにおいだった。まだ雨の降らないうち、それはあらゆるところにじっ、と潜んでいて、梅雨に入れば勝手に紫陽花が咲くのに似て、言わずとも彼の膚に纏わりつき、七年前の出来事をほじくり返そうとしてくる。それはときに幼い少年の姿をしており、ときに幼い少女の姿をしている。そうして舌足らずな声で彼を糾弾する。あのときこうなることを望んだのはお前自身なんだろう? 声から逃げようとしても無駄だ。結局のところそれはただの雨音なのだから。悪夢は少年の心に内生している。
七年かけて編み出した彼の対処法はこうして蹲ることだった。少なくとも陽が昇れば彼は日常生活のルーティンを思い出し、外見上の不審を取り除くため精一杯恐怖を捻じ伏せていられる。ところが夜の間はどうしようもない。空の機嫌は少年のことなどまったく考慮していないし、向こう一か月はこの暗い気分を少年にも押し付けてくるだろう。彼はそれを唯々諾々と受け取る他ないわけだ。せめてもの抵抗として彼は死人の振りをする。まるで、動かなければ世界が彼を生き物と認識しないのではないかと考えているように。
しかし──この一方的な自意識の防衛戦に今宵は光明があった。実際に光っていた。スマホの液晶画面だ。いつの間にそう設定されていたのか、サイレントになっていた端末が小さく身震いして、四角く切り取られた画面に素っ気ない言葉を並べている。短い文面は刺々しい嫌味に始まり(──それが舌鋒鋭い”彼女”の挨拶だ……)大体このような文章で締めくくられていた。「雨、やまないわね。私も寝れないの」
「……」
自分が起きていることを何故彼女は知っているのだろう。そういえば梅雨の間は雨音が気になって寝不足であることを、いつだったか彼女に話した。そのことを話したときは、授業中にあんまり寝てこれ以上知能を落とさないでとかばっさり切られた覚えがあるから、お互いその会話自体を気に留めていない感があったのだけれど。どうやら気を使わせてしまったみたいだ。こんな夜中にと思うと申し訳なくなったが、こんな夜中にと思うと嬉しくもあった。指がキーの上を彷徨う。なんて返事をしよう。こんな時間に起きていて平気か、とか。でも今更気遣っても格好がつかないか。茶化して言うと怒られそうだし。いろいろ悩んだ末に無難な返事をすると、すぐに既読がついて、ああ、本当に起きているんだ、とわかった。本当に──生きているんだ、彼女は。かつて自らの手で殺めた少女が、死が縁取るこの季節を土壌にして再び咲こうとしている。彼女がどこまで意図しているのかは知らないが、こんな素っ気ない一言だけで少し救われた気になってしまう。我ながら単純なものだ。だって本当はわかっているのだ──この世界には、少年をどうこうできるほどの力はないことくらい。
空虚な時間は気付かぬうちに彼女の手によって返事を考える暇にすり替えられていた。背後の雨音が遠くなったことにも気付かないまま、二人はそうして朝まで話をした。きっと明日も雨が降るだろう。君を死なせ、君を生かした、一年で最も寂しく、冷たく、美しい季節だから。
以上です。みなさま参加ありがとうございました!!
順不同:よいちさん、ちほ、汐月さん、たけうちさん、まりーさん、そして俺
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