#20


 突然舞い込んだ仕事の依頼に、千ヶ崎は爛々と瞳を輝かせたはずだった。

 白い砂浜、青い空、輝く海。椎葉率いる一行は、都市部のビーチへ足を運んでいた。
 まだ春先だが、そのビーチはいつでも人で溢れている。遊泳は禁止だが、ボートはいつでも貸し出されているし、砂浜の利用も自由だ。バーベキューや花火を楽しむため訪れるカップルや家族連れは数多い。
 そんな賑やかなビーチの真ん中で、きゃんきゃんと不満に喚く少女がひとり。

「なんでバーベキューどころか海の家の利用すら禁止なんですかあ!?」
「そりゃ仕事だからだろ」
「理不尽です!」

 千ヶ崎が砂浜に座り込んで駄々をこねるのを、椎葉が呆れたように見下ろしている。
 彼女たちに託されたのは、ビーチの監視。ナンパや爆竹などの迷惑行為を即刻やめさせること、遊泳をはじめる者がいないか見張ること、そして異能犯罪者が紛れていないか目を光らせること。けれど彼女らが異能であることが関係し、余計な枷も付け加えられているのだが。
 椎葉率いる神田、千ヶ崎の3人は、通称「異専」――治安維持局犯罪対策部第四課の、対異能専門特別戦闘班という、「異能に対抗できるのは異能のみである」という結論に基づき結成された、武装警察組織に所属している。異能犯罪の取り締まりを主な仕事としており、スラム勤務である彼らは、特別に戦闘行為が常に許可されているような、過酷な環境に身を置いている。異能犯罪の多くは痕跡を辿るのが非常に困難で、現行犯での確保が何より重要視されることから、休日はほぼ無いに等しく、必要があればいつでも出動できるような態勢を要求されていた。加えて異能であるという差別も変わらず組織内に存在しており、非常に待遇が悪くこき使われているのが現状である。

「ったく、便利屋じゃねーんだけど」
「都市部に異能が入り込んだって情報があったから、私たちが呼ばれたんでしょう?都市部勤務の異専はなにしてるんです?」
「相も変わらず巡回を強化中。働く気ねーだろあいつら」

 都市部は富裕層の安全の保証を目的として隔離されており、異専などの例外を除き、異能は一切の立ち入りが禁止されている。といっても、異能を見た目や検査で判別することは不可能であるため、至る所に異専を配置するくらいの対処しかとれないのが現状であった。そのため時折、都市部内で異能犯罪が確認されると、こうして市街地やスラムに勤務している異専が借り出されることは、ままあることらしい。それでも椎葉たちが雇われて数ヶ月、これが初めてのことである。

「酷いですよぅ…せっかく都市部に、しかもビーチに来られたのに、遊びもせず見てるだけだなんて…私たちみたいな底辺にはもう一生縁がないかもしれない所なのに!」
「頑張って働いて這い上がってくれや」
「ひな、泣かないで」
「わーんいおりー!」

 悔しさに泣く千ヶ崎を一瞥することすらなく、椎葉は淡々と監視台から海を眺めていた。神田はそんな椎葉を見遣ると、よしよし、と千ヶ崎の頭を撫でている手をそのまま動かしながら、ふと疑問を投げかけた。

「椎葉、それ、ひとつしかないの?私たちは巡回していればいい?」
「俺がまとめて見とくからどっかで涼んでろよ、結構日差しあるぞ」
「…いいの?」
「大体そんな千ヶ崎連れてたら仕事になんねーだろーが」

 なるほど、あやすのは面倒だからお前に任せるといいたいのかと合点して、神田は言われた通り千ヶ崎を連れ、とりあえず近くの木陰を目指し歩き出した。椎葉は根は優しいことに間違いはないが、同時に根からの面倒くさがりであることもまた事実で、自分を犠牲にして人に気を遣うというような性格でもないことを、神田はよく知っていた。6年弱を共に暮らしていただけのことはある。けれど恩人の宝へ向けた静かな優しさであることには、神田は気がつかない。

 コンビニの利用は禁止されてませんから、と千ヶ崎が屁理屈をこねて、ビーチのすぐ向かいにあるコンビニでアイスを買ってきた。ちょうど木の陰になる位置で防波堤に並んで腰かけて、しゃくしゃくと爽快な音をたてながらアイスを食べる。一応制服を着ているのだが、都市部勤務とはデザインが違うし、スラムへ赴いたことのある市民なんていないだろうからと、開き直った千ヶ崎はくつろいでいた。
 確かに椎葉の言ったように、日差しが強くなってきている。もうそろそろ梅雨だというのに。これを食べたら交代に行ってやらないと、椎葉がダウンしてしまうだろう。きっと無駄に長い椎葉は、千ヶ崎と2人がかりでも運べないから、早めに休ませなければならない。神田はそんなことを、ぼんやり、遠くの雲を眺めながら考えていた。
 確かに、こんなところに来れることは、3人揃ってとなると、もう二度とないのかもしれない。遊びに来たわけじゃないけれど、監視の目があるわけでもなくて、少しくらいならサボってしまってもきっと怒られない。3人で過ごす時間を、1秒でも長く大事にしたかった。

 と、そこへ、足音が3つ、近付いてくる。神田が顔を上げると、そこにいたのは都市部の市民だった。にやにやと締まりのない笑みを浮かべて、千ヶ崎と神田を品定めするように、上から下へと見比べている。

「ねぇ君ら、2人?ちょっと遊ぼうよ」

 ああ、これがナンパというものか、と、神田は思った。椎葉に教えられたものと全く同じ文句が男の口から発され、ようやく記憶と繋がった。
 隣で千ヶ崎が、わたしたちは、と口を開いたのを遮るように、男が1人無遠慮に距離を詰めてきて、千ヶ崎のほそい手首を強引に引っ掴んだ。神田の肩にも気安く手が触れる。千ヶ崎が痛いと高く声をあげて、掴まれた右手に持っていたアイスが滑り落ちた。それを見た瞬間、神田はかっと頭に血が上がって、すぐさま強く拳を握った。

 彼女の異能は「身体強化」。全力を発揮した神田の身体は鋼よりも硬く、地を蹴れば弾丸のように飛び、拳を突き出せばコンクリートさえも砕く。攻守共に優れた異能で、発動にも時間を要さない。
 ひとつ欠点があるとすれば、彼女が直情的なことだった。山奥で迫害された経験もなく育った彼女は、異能というものへの拒絶を一切味わったことがなく、ゆえに意思が伴わずとも異能を発動させてしまうことがある。当然、加減などすべて無視して。外の世界で生きるには、幼い少女には些か強すぎる異能だった。
 そうして拳を振り上げる直前、

「待てよ、落ち着け」

 現れたのは、涼しい顔をして神田を見据える椎葉だった。

「は?何だよお前」
「そいつら俺の連れ、ていうか警官だ。大人しく手ぇ離せ」
「急に現れて好き勝手言ってんじゃ、」
「迷惑行為を中断させる際、やむを得ない状況であれば命に支障をきたさない程度の異能の使用が許可されているわけだけど、まだやる気?」

 すらすら言い切ってみせた椎葉に、なんだよ異専かよ、と男たちは渋々手を引いて、つまらなそうに、足早にその場を去って行く。
 千ヶ崎は手首を軽く回しながら、椎葉へ向き直った。

「椎葉さん、いつそんな許可とったんです?」
「出任せに決まってんだろ」
「うわぁほんと口先だけで生きてますね、あなた」

 いつも通りのやりとりをする椎葉と千ヶ崎を見て、神田は、ふ、と肩の力を抜いた。知らず知らずのうちに異能を発動させてしまっていたらしい。少しばかり軋む右手を一度握り、力を抜く。アイスは勿体なかったけれど、千ヶ崎が守られただけで良かった。守ったのは自分ではなく椎葉だけれど。
 落ち着けと神田のひとみを射抜きながら言った椎葉はきっと、自分が既に異能を発動させてしまっていることに気付いていたのだろう。あのまま殴っていたらどんな騒ぎになっていたか分からない。一般人なんて当たり所が悪ければ即死だっただろう。事実、異能を収めたあとでも、どれだけ力をこめていたか分かっていない。人相手にうっかり本気を出してしまったらどうなるか、想像に難しくなかった。
 千ヶ崎を守るためには、もしかしたらもっと、今よりずっと、頑張らなければならないことがあるかもしれないと思った。異能を制御することとか、もっと周りをよく見ることとか。今まで自分がずっと前だけを見ていられたのは、こうして椎葉や、それから瀬東が、自分の狭い視野を補ってくれていたからだ。

「…ありがとう、椎葉」
「は?なんだよ気持ちわりーな」

 もしかしたら彼はこれまでも、自分が気付いていないだけで、細かくフォローを入れてくれていたのかもしれない。なにが彼をそうさせるのかは分からないけれど、慣れたような彼の顔に、そう感じた。

#21


 ぐい、一歩踏み出せば、露骨に不快そうな顔をしてみせる。それが面白くて好きだった。麻木鳴海と違うのは、自分はなにも知らないだけ、誰にでもこうなだけという体で距離を詰めているということだけだ。

「ルイさーん」

 名前を呼ばれることさえ吐き気を呼びかねない、といった表情をしてくれるこの先輩は、なかなか遊び甲斐がある。

 このルイという人は、暖かいものが苦手らしい。その異能は炎を操るというのにおかしな話だと思った。気分で時々ひとつだけ砂糖を落とすコーヒーは温くなるまで放置、コンビニで買った弁当の類も規定の半分ほどしか温めないし、きちんと記述通り温めなければならないチルド系には手を出さない、飲料は冬でもとにかく冷たいものを求めるし、まあ早い話極端な猫舌なのだ。じゃあそれはつまり、幸せってものが苦手なんじゃないか。橘はそう思った。

「千秋さんから差し入れっすよ」
「…、ああ」

 千秋さん。この名前はまるで魔法の呪文のようだと思う。ここに来て何度そう感じただろうか。彼の名前を出せば、拒まれるはずだったそのスティックのインスタントコーヒーも、一拍おいて、少しだけ顔を歪められはするが、しかしゆっくりと受け入れる手は伸ばされる。自分も拾われた側だから分からなくはないが、どうにもここの人間は、千秋さんという人の好意にあんまりにも弱い、弱すぎる。呆れて笑ってしまうほど。

 話を戻すと、ルイはきっと幸せが苦手な人なのだ。黒瀬がそうだったからよく分かる。彼女もよく、自分に手を握られることを、反射的に拒んだ。他者の温もりに慣れていないこと、それが冷めるのが怖いこと。申し訳なさそうに打ち明けてくれたあの表情を、きっとずっと忘れられない。寂しそうで、頼りなくて、今すぐにでも消え入りそうだった。
 自分は今すぐ、彼女のもとへ帰らなければならない。紆余曲折あって指名手配されている身であること、仕事がなかなか画面の前を離れられない内容であることが重なって、彼女、黒瀬あやねを迎えに行くという本懐を遂げられずにいる。それがどうしても歯痒かった。

 黒瀬とは、所謂恋人という関係である。彼女は精神面が脆く、ひとりでは生きていけない少女だった。
 はじまりは彼女の手首に刻まれた傷痕を見てしまったこと。正直な話、それはそれは引いて、関わりたくねえななんて思ったものだった。けれど以来、彼女から家庭のことに関する相談を持ちかけられるようになり、いつも適当なことを言ってあしらっていたのだが、そのうちに妙に懐かれてしまったのだ。厄介だと思いながらその日も何度目かの相談を聞いて、別れ際、彼女は自分に「アキくんがいてくれてよかった」と言った。
 その細まったひとみが、柔らかな頬が、穏やかな声が、それに紡がれた言葉が。途端にひどく、いとおしく思えた。そんなことを、今まで誰かが自分に伝えたことなんて。
 単純だと自分で分かってはいる、けれど誰にも心を明かすことなく生きてきた自分に、どこまでもその胸のうちを吐いて信頼を示してくれた彼女を、自分以外の誰かに渡すことも、誰かが自分より彼女の力になってしまうことも許せないと、そのときに分かってしまったのだ。お互い言葉にすることはなかったが、手を繋いだり、唇を合わせたり、そういった営みをしたりもした。幸せだったのだ。それらは自分の好奇心のせいで泡と消えてしまったのだけれど。

 だからこんな所で、いつまでも燻っているわけにもいかない。異能でもないのに家族に疎まれている彼女の心を休ませてやれるのは自分だけで、また自分が本当に安心できるのも彼女の隣だけ。ぐっと右手を握り込む。身の安全のためと乗り込んだ組織だが、今となっては気まぐれで牙を剥くこともふらりと離脱することもできやしない。例え一時であれ情報の中枢を握った自分が消えたとなれば、彼らは総力をあげて自分を殺しにくることだろう。ただ無理矢理作った仕事の合間、それを縫って市街へ足を向けることしかできない日々に、焦りだけが募ってとまらない。
 だからこれは、この組織に属する偉大な先輩たちとの戯れは、その間の暇潰し。憂さ晴らし、八つ当たり、なんて言われたっていい。とにかくそんなようなものだし、否定もできないことだ。

「…貴様は」

 え、と、不意をつかれて耳を傾けた。
 ルイにこちらから話しかけることは何度かあっても、彼が自ら自分、どころか男に会話を持ち掛けることなどほぼ無い。珍しい、なにを言われるのだろうという好奇心で、僅かに胸が高鳴った。不愉快そうな顔をしてくれれば、なおよし。けれど振り向いた先、ルイの顔は前髪に隠れ、見えない。

「長いこと、ここにいない方がいいだろうな」

 はい?自然とそんな声が出た。今のは流石に間が抜けすぎていたかと思い直すも、出てしまった声は戻らない。ただ続きを促すように首を傾げながら、先ほどの言葉を頭の中で繰り返す。
 長いこといない方がいい?そんなのはこちらの台詞だ。さっさとおさらばできるんなら、とっくにそうしている。千秋は自分の身柄の保証を約束したし、その約束が破られたことは今のところないから、ただもう一度黒瀬に会うために、仕方なくこんなところで労働に勤しんでいるだけなわけで。じゃあ解放してくれと言ったとして、してくれるものか。

「溺れるなよ、ここの人間は大体が、千秋の首を最優先で守るということを覚えておけ」
「はあ、…なんですかそれ。俺だって拾われた身で、千秋サンを狙うつもりはこれっぽっちも」
「あの阿呆は」

 珍しくも、今日はよく喋る日らしい。
 言葉を遮られたことに多少なり不満を感じながらも、ただ大人しく耳を傾ける。それは機嫌がよかったのかもしれないし、ただ更に話を遮る気分ではなかっただけかもしれないし、聞かなければならないとどこかで感じたからなのかもしれない。

「…あの出来損ないの阿呆は、出来損ないで駄目でどうしようもない傲慢だがな、だが目だけは貴様より幾分マシらしい」

 幾分、だが。
 この人が阿呆呼ばわりするのなんて、更にそこに出来損ないまで付属したら、もう麻木鳴海、ただその一人のことでしかない。
 かっと自分でも驚くほど一瞬で頭に血が昇り、らしくもなく絶句してしまった。その間に男はいつも通りの優雅な足取りでもってオフィスをあとにする。
 頭が熱い。ああだめだ、これじゃあ、自分があの人に劣っていることを自覚して、その上で見下しているなんて不名誉な認識を、肯定しているようなものではないか。思ったところで後の祭だ。もう弁解の余地などない。

「…そりゃあね、敵うだなんて思ってねえよ、…でも」

 まったく勝てないひとだとも思っていない。
 あの男の底が知れないことなんて分かっている。馬鹿なふりをしているのか、はたまた本当の馬鹿が賢いつもりでいるだけなのか、それすら区別がついていない。確かに隙なんてひとつもない、けれどあの男も人間だ。人間でいることをやめられない、弱い生き物なのだ。いつか綻びを見せる日を、いつだって待っている。彼への下克上さえ成し遂げられれば、組織は自分のものとなる。そうさえすればそれだけで、黒瀬をいつだって迎えに行けるのに。

 少しだけ冷静になって、ああ彼が部屋を出てくれて助かったと、少しだけ思った。そんなことを言おうものなら、あの赤間千秋の首を守るための組織に解れなど許さないと、その場で斬り捨てられていたことだろう。ルイが言ったのはそういうことだ。結局こっちの世界じゃ物理的な力がものを言う。
 さみしい、と、彼女のことを思い出していた。

#22


「…明日だね」

 神田がカレンダーを見て呟いた。今日は6月1日。ああこいつも、母親の月命日が近くなるとこんなことを言うのか。
 彼女の死にたいという意思表示を聞いて背中を押したのは俺だ。俺には神田の面倒を見る義務がある。静かに目を伏せた。

「会いに行くか?」
「私は先月行ったから…椎葉が会ってあげて」
「あ~そりゃ無理だな、署長がぜってー俺だけは休ませねーもん。お前行って来い」
「でも…」
「いいよ、俺は時間あるとき行くから」

 俺は特に日付には拘らない。けれどきっと彼女はそれでも喜んでいるだろうから、俺も気にしないのだ。それよりも、その日を大切にしている神田に行かせてやりたかった。最期の瞬間そこにいてやれなかったことを神田は後悔している。だからこそ明日、必ず彼女に行かせてやりたい。

「じゃあ、一緒に行こう。母さん、喜ぶと思う」
「…つったってなぁ…二人で休んだら千ヶ崎が文句言うぞ」
「ひなも連れて行く?」
「それこそ無理だろ」

 呆れたふりの溜息をつく。呼び出しがかかれば休日だって一瞬で溶けてしまう職場なのに、3人揃って休みますなんて許されるはずがない。というか下りたとしてもあとが怖い。まあ座標移動の異能を持つ俺は、多分なにかあれば遠くにいても強制的に駆り出されるのだろうが。今度こそ、本当の溜息が零れる。


「墓参り?」
「そう。母の」
「椎葉が世話になったのって神田の母親だったのか」
「あー…ま一応、そうっすね、はい」
「ま、ならたまにゃいいだろ。今回だけだぞ」
「ありがとう。感謝する」
「え、マジで?嘘だろ!?」
「帰ってきたら分かってんだろうな、椎葉」
「…ういっす」

 署長からは意外にもあっさりと許可が下りた。戻ってきたら激務確定とはいえ、あの人がポンと休みをくれるなんて怖すぎる。嵐でもくるのか。

 そんなこんなでわりと簡単に休暇が取れた。鳴海と千秋さんにに土産でも持ってくかなあ、と思ったけれど、そういえば鳴海はとっくに千秋さんの家を出ていたのだったと思い出す。どころかまず俺がいなくなってすぐに髪を染めたようだし、なんだか思春期の子供を放って長期出張に行って帰ってきたらそいつが拗ねてグレていたような気分だ。もとから擦れたやつではあるのだが。途中大きな市街地を横切るので、そこの名物かなにか買っていってやろうかと思ったのだが。まぁ鳴海に三人分渡しておけばいいだろう。流石にまだ赤間は一人暮らしなんてしていない、…と、思う。知らないのだが。
 神田はうれしそうに千ヶ崎に報告していた。千ヶ崎は「お二人の邪魔をするほど野暮じゃないですから!」と笑顔で神田の手を握っていた。こいつは神田が笑っていればそれでいいんだろう。出発の日の朝も、笑顔で俺たちを見送った。俺と神田が欠けたぶん、千ヶ崎には二日間かなりの負担がかかるというのに。帰ったら休ませてやらなければ、と頭の隅で考えた。


「久しぶり、ただいま、お母さん」

 神田は、木材で無理やり作った十字架の前に膝をつき、手をあわせている。そうしていろんなことを報告していた。
 千ヶ崎という少女のこと、その少女と交わした他愛のない会話や、休日に二人で出かけたこと。毎日穏やかにすごせていることなどを、淡々と、けれどうれしそうに話す。神田はもともと表情が乏しいが、異専に入ってからはそれがより顕著になり、無表情でいることが増えた。それでもここに帰ってくるときは、向こうにいるときよりは比較的よく笑う。まるで瀬東がそこにいるかのように。

「…終わったよ。私は教会の掃除をしているから」

 神田はゆっくりと立ち上がるとそう言って教会の中へ姿を消した。気を使っているのだろうか。まぁ別にどうでもいいんだけど、と思いつつ、瀬東の前に胡坐をかいて座り込む。
 こういうのはあんまり得意じゃない。鳴海のことを、見てきたからだ。

「…ちゃんと神田の面倒見てるよ。あいつから聞いてるだろうけど仕事も見つかったし、あいつにとっての新しい家族もできて…今は平和にやってる。あんたが心配するようなことはないから」

 風が、ふく、結んだ髪が攫われる。

「そう、あんたが心配するようなことは、絶対俺が、起こさせねーからさ」

 どんな表情をしていたかは自分でも分からないし興味もない。静かに立ち上がる。
 ここは美しい場所だ。美しかった彼女に相応しい。朝焼けはよく見えるし、夕焼けに赤く照らされる村もよく見渡せる。こんな田舎だから、星空だって綺麗だ。本当に、よく似合う。ひらりと彼女に背を向ける。

「…また来るよ」

 静かにそう言って歩き出した。そうしたらもう、二度と振り返ることはない。次会う日まで、この身に刻みつけた彼女の生き様を、ただ、覚えている。そういう毎日に、俺は戻っていく。

#23


 彼女の月命日に山奥まで足を運んだあとのこと。手土産を持ってふらりとそいつのもとを訪ねたのだが、家主はなぜだか床に転がり丸くなっていた。
 え、と短い声をあげると、そいつは群青の瞳をうすく開いて俺を見る。

「…カオル、」

 その顔は気持ち悪いほど真っ白で、ああ、と俺は察する。こいつまた体調崩しやがった。


「はい、貸して」
「……何度?」
「聞かないほうがいいと思うけど聞きてえ?」
「…いい」

 ぴぴ、と鳴った体温計を受け取る。鳴海は、う、と言葉を詰まらせて、肩までしっかり羽毛の掛け布団をかぶりなおした。もうわりと暑いのに、と思わなくもないが、こいつはもとから寒がりだしなあなんて考える。

 鳴海は笑ってしまうほど体調を崩しやすいやつだ。もともと精神状態が体調に直結しやすい男であるのに、なぜだか寒暖差にも弱く、季節の変わり目はほぼ必ず寝込む。しかし曰く慣れているらしく、その言葉のとおり、ここまで駄目になるのは正直珍しい。こいつは自分を制御するなんてことを平然とやってのけるやつだから、風邪をひくといつも倒れる直前まで普段となんら変わりなく動き回り、いざその時がくるとなると上手いこと体を休めて、しかしやはりそういう状態を脱したら完治を待たずまたいつも通りに戻る、なんていう、治す気があるのかないのか分からないサイクルを、しばらく繰り返す。正直毎度そんなに必死にならなくてもと思いながら見ているのだが、鳴海が自分を受け入れるためにはそういう生き方をするしかないので、なんというか本当に、難儀な男である。
 こいつは自分だけがただ憎いのだ。生きているのなんて嫌いだし向いてもないのに、だからこそ簡単に楽になったり逃げたりすることも許せない。かわいそうな生き方しかできないくせ、惨めな自覚があるからこそ、かわいそうと思われることを一番嫌う。だからあいつが強そうに振る舞うのは、なにも赤間のためだけではないのだ。

「なんか食えそうか?」
「無理、…いつもんとこに薬あるからとってくれ」
「多少はもの入れたほうがいいんだけどな」

 本当に珍しい、義務感で食事をとることすらできないなんて。そこまで弱っているなら強要するわけにもいかないだろうと思い、苦笑いをしながら戸棚からいつもの鎮痛剤と解熱剤を取り出して、枕元に放ってやる。鳴海は水がなくても錠剤を飲み込めてしまうから薬だけ飲もうとそれに手をかけたので、待て待てと声をかけてやめさせる。なにも食べられないならせめて水分を多く摂ったほうがいい、そんなこと分かっているだろうに、やはりよっぽど参っている。
 鳴海がこんな風になれるのは、ひとりの時か、そばに俺しかいないときだけである。たまになら甘やかしてやろう、なんて考え出してしまう俺が狂っているのではと思わせるほど、隙やほつれを感知させない人間なのだ。俺には知られることを許すということはつまり、俺以外に甘やかされるのは心底嫌、ということになる。鳴海曰く俺は根底にお節介な部分があるらしく、いや、ひとのそういうところを利用して甘えようとするのはほんと、やめてほしいのだが。確かに面倒を見たくなってしまうときがあるのでちょっと勘弁してほしい。

 そんなことをつらつら思いながら、俺が以前から持ち込んで冷やしていた麦茶をコップに注ぎ持っていってやる。水のほうがいいことは分かっているのだが、冷えているものがそれしかなかったので仕方ない。もしかしたら内臓的にはあまり冷えていないもののほうが良かったかもしれないが、まぁもう鳴海は飲みはじめてしまったし薬くらいなにで飲んだって変わらないだろう。

「…助かった。帰っていいぞ」
「何様だお前は、メシくらい集ってくわ」
「冷蔵庫なんかあったか?」
「チャーハンくらいは作れそうだった」
「それでいいのかよ」

 鳴海はへなと眉を下げて困ったように笑う。俺としてはそんなに珍しくもない表情だが、多分俺以外で見たことがある人間は…かろうじて千秋さんくらいなんだろう。だからかなんとなく、俺はその笑い方に弱い。やっぱり面倒を見てやりたくなってしまう。ひとりですべてこなしてしまえる鳴海を、どうしようもなく構いたくなる。
 なんか他にほしいもんは、と問えば、やはりそいつは「もうなにもいらない」と言う。言外にそこにいてくれと言われ、俺はなんとなく、鳴海の鼻を甘く噛んでやった。

#24


 どうも椎葉カオルです。大分強くなってきた日差しにうんざりしながらもスラムを巡回中。なんだかんだ労働に励んでる俺ってほんと、なんて立派な人間なんでしょう。あ、なんか悲しくなってきた。

 まあそんなことはおいといて、今日は巡回と言いながらもある情報屋のもとを訪ねるべく足を進めているわけでして。情報屋は本来俺らにとっては規制の対象というか逮捕すべき人たちなんですが、案外気のいいやつらもいたりする。ヤクの売買の手引きしたり、口先で企業いっこ潰してしまえるような発言力を持つのが基本的な情報屋ですが、というかそのくらいじゃないと金が稼げない職業なんですが。だけどもごくまれにだが探偵の真似事みたいなことで飯を食っている人間もいる。これから訪れるのはそっち側の情報屋の事務所だ。
 なんでそんなやつを知ってるかっていうと、これまた意外なことに鳴海の口から名前が出てきたわけですよ。変なやつに会ってしまった、というから話をきいていたら、まぁ異専である俺相手に情報屋の女性のことを喋ること喋ること。お人好し、損得の天秤がぶっ壊れた聖人。鳴海の話を聞く限りではそんなところか。千秋さんに似てなくもない、捨てられているものを拾うあたりとか。なんでも鳴海は同僚と揉めて死体になりかけていたところを看病されたという。なんで同僚と殺し合ってんだろうねあいつは。いい加減なんの仕事をしているのかと訊いたとき「千秋さんの手伝い」としか答えないのやめてくれ。
 そんでもって、なんで義理堅い鳴海が異専の俺にその情報屋の話をしたかっていうと、俺がその人を捕まえるわけがない、そもそも捕まえる必要性がないと判断したからなんだろう。俺としても特に裏がないようなら検挙はしたくない。めんどくさいし、市民に好かれる情報屋なんて珍しいものをしょっ引いたらまた異専の株が下がる。

 と、いう事情で、あの洞察力の鬼みたいな鳴海が見誤るわけもないが、一応その情報屋と顔を合わせておきたいと思った次第。弱ってる時の鳴海は聖人を前にすると目が眩むから、「損得の天秤が壊れた異常者とも呼べる聖人」なる生き物をどこまで信用していいものか、俺が見定めておきたいといいますかね。俺は基本イイヒトという生き物が嫌いであるので、鳴海を変に刺激する言動をしかねないかどうか、あれの保護者代わりとして一応気にしておきたいわけです。結局あいつが傷を負ったとき頼りにするのは俺。いつでもどこでも駆けつけますよってなわけにはいかない程度には大人になってしまったため、鳴海が触れるものに棘がないか一通り調べておきたくなるわけですよ。いやあ俺ってほんとに面倒見がいい。

 とかつらつら考えながらそのインターホンを鳴らす。普通に巡回のまま異専の制服で来たけど逃げられたらどうしよ。まぁもう今更か。
 ていうかスラムではありえないくらいあっさりとそのドアは開かれた。ああ、確かに異常者っぽい。

「あら、異専?なにかあったの?」
「いや~ちょっと道に迷っちゃって、道案内を頼みたいんすけど」
「それは大変。暑かったでしょう?お茶でも出すわ、時間あるかしら」
「あ、じゃあお言葉に甘えて」

 あーこれだめだ。鳴海の言ってたとおり、スラムで生きるのに一番向いてないタイプの人間だ。まずインターホンが鳴ってから出てくるまでが早すぎる。ドアスコープ覗いてすらいないだろう。それから普通スラムじゃチェーンつけたままドア開けて訪問者を色々と推し量るものだが、それすら無し。最初っからドア全開。大丈夫なのこの人、よく今まで生きてこられたな。もしかしてトンデモ級に強いのか。
 それにあの笑顔。だいぶ俺を疑ってない。俺は鳴海じゃないからそんなに人の顔色とか分かんないんだけど。気にしたことないし。でも気を張り詰めてる気配はしなかった。ゆるゆるだ。めっちゃ麗かな午後。ていうかあなた情報屋なんでしょ、ちょっとくらい焦ったらどうなんだ、よりによって事務所に異専あげなくても。

 通されるがままリビングに入って、促されるままソファに腰かける。なんとなくテレビをつけてニュースを見ていた。嬉しいことに胸の無線機は黙ったまま。ずっとこうならいいんですけどね。

「はい、麦茶でよかったかしら」
「あ、どーも。何でもありがたいっすわ、外ほんと暑くて」
「その制服だもの、余計にねぇ?」
「いやーほんと参りますわ…渚さんは飲まないんすか?」
「私はさっき飲んだばかりなの。ところで名乗ったかしら?」
「あ、俺は椎葉っていいます」
「うん?そうなの、椎葉ね。覚えておくわ」
「そりゃ光栄です」

 なるほど確かに、鳴海が懐きやすい人間だ、と、思う。
 世話焼きで、スラムなんかで死にかけの人間を拾うほどのお人好し、週末会える聖人、ってとこだろう。自身に降りかかるかもしれない厄介ごとを一切煙たがらないで、他人とともに生きようとする。その生き方はかなり、鳴海の目を眩ませる。警戒心が一切ないわけじゃないけど、基本的に他人が悪意のみを原動力としている場合をあまり想定しないんだろう。ていうか多分、俺がこの人自身に興味はないことに、気付いている。ただの馬鹿ではないようだ。

 とりあえずそのまま5分ほど様子を見て、他愛もない世間話なんかをした。見た感じ、裏があるような人間ではなさそうだ。損得やら利害やらの概念がすっぽ抜けてる、という鳴海の言葉の通りなひとだろう。人を利用したり支配したがる人間の振る舞いではない、鳴海とは正反対だ。どこまでも静かに、ただすべて受け止めてくれるひと。他人を慈しむだけのひと。これといった害は、たぶん、ない。俺はあいつと違うから断言はできないのだが。
 俺はきっと興味もないこの人のことを気にかけ続けるし、鳴海だってその洞察力で知りたくないことでも知ってしまう人間だ。なにかあれば距離を取るだろう。そう、そもそも俺が関与する必要なんてなかったのかもしれない。そもそもあいつの人間関係まで支配するつもりはそんなにないし、俺の知らないところで傷を負ったってそんなの知ったこっちゃない、あいつの責任だ。分かっている、とは言いつつ放置もできないのが、俺の駄目なところなのかもしれないが。まあなんだ、人見知りの愛犬に友達ができたからどんなやつか気になった、その程度の、好奇心なんだ。要するに。
 そういうところで、悲しいかな無線機から署長の声がする。適当に相槌をうって適当なところで切った。なんか怒っていた気がしなくもない、報告書提出してないのバレたか。

「んじゃ、俺はこれで」
「あら、道に迷ったんじゃなかった?」
「そうでしたっけ?」

 麦茶を飲み干して、ニュースの話題が切り替わったところで席を立つ。わざわざ見送りにきた彼女にへらりと笑って、そのドアを閉めた。