#25


 その日、わたしは初めて彼女の涙を見た。




「おかえりなさい、いおり」

 母親代わりだったという女性のもとへ行っていた神田が帰ってきた。椎葉は帰宅するなり仕事だと言い半笑いで出て行ったのだが。
 神田はちいさくただいま、と言ったきり、温かいカフェオレを淹れたマグカップを両手で挟み、じっと窓の外の空を眺めている。いつもと様子が違う、と、そんなことは分かっていた、顔を見たその瞬間から。もとからとても口数が少ない少女ではあったけれど、いまはそういう性分とは関係ない要因があるのだろう。いつもと変わらない無表情でも、張り詰めた空気やぼんやりと虚を見つめる瞳、硬く結ばれたくちびるから、いつもとは違う気配を感じ取れる。

「…いおり、なにかあったんですか?」

 すこしだけ、迷った。自分が首を突っ込んでもいいことなのか分からない。
 彼女は、例の母親であった女性のことを、当たり前だがひどくいとおしく思っている。わたしにも神田をはじめ大切なひとがいる、それを失ってしまう恐怖やかなしさも痛いほど。だからこそ彼女のなかの「家族」に入り込みたくはなかったけれど、それでも全く気付いていないように振る舞うのは優しさなのか冷淡さなのか、わたしには判断がつかなかった。彼女がもしなにもない、と、そう言うなら、すぐいつもと同じ振る舞いに戻ろうと思っていた。
 けれど神田は、窓の外を眺めたままで幾度かゆっくりまばたいたあと、こくんと力なく頷いた。一度だけ床へ視線を這わせて、けれど緩やかな動きでわたしの瞳を見つめる。いつものような力強さは、そこにはなかった。

「…あのね、」

 ぽつりと一言そう落として、しかしすぐに黙り込んでしまった。ぎゅうとマグカップを握るその手に力がこめられていく。
 どうしよう、と悩んでしまった。自分から口を出したのに、彼女がなにを思いなにを言おうとしているのか、なにも汲み取ってあげられない。神田はきっと隠しごとがあまり好きではないから、訊かれたことに対して拒絶を示すということを知らないのかもしれない。言いたくない、知られたくないという感情を。それを想定できず掘り返してしまった数秒前の自分の軽率さを悔やんだ。

「いおり、あの、無理になにもかも話さなくてもですね、…っ」

 ぽた、とひとつ、彼女のおおきな瞳から涙が落ちた。息を飲んで硬直する。

 ああ、やってしまった。わたしが彼女を傷つけてしまった。パニックを起こしてなにも言えずにただその涙を眺めていると、彼女は自分が泣いていることに気が付いたのか、ぱっと顔をあげて細々しい笑顔をみせた。

「ごめんね、すこし、お母さんのことを思い出して」

 けれど彼女の涙はとまらない。次々溢れて頬を伝っていく。違うんです、なんて、謝罪にもならない言い訳が口をついた。笑っていてほしいと願ってはいるけれど、涙を隠すために使ってほしいわけはない。机の下で爪が食い込むほど拳を握り締めた。
 それでもわたしの手は彼女と違って優しくなんかない。そうなりたいと祈ったってもう遅いのだ。彼女にこの手で触れたことを、今更後悔した。

「ひな、泣かないで、わたし、今だって幸せだよ」

 けれど彼女のやさしい手のひらは私の頬を撫でる。反射的に振り払いそうになった手をさらに握り込んで堪えた。

 あなたに笑ってほしいとき、どうすればいいのでしょうか。もっと幸せになってほしいという願いは、どうしたら叶えられるのでしょうか。
 なんにも知らないまま大きくなってしまった。しあわせな暖かい空気が肺を痛めつけていく。どうしたらだれかを正しく大事にする方法を知ることができたのだろう。わたしはずっとずるくて臆病なまま生きてきて、きっとこの先もずっとそれは変われない。
 どうすればいいの、なんて、訊いたってもう、こたえてくれるひとはいないのに。

#26


 最愛のひと、ようやく見つけた。ようやく、みつけた。



「きみ、行くあてないのかい?」

 俺を見下ろした和服の男は静かにそう言った。

「…それが、なにか」

 俺は人を殺してしまったのだ。行くあてなんてあるわけもなかった。

 橘アキ、15歳。市街地に生まれ、父親ひとりに育てられた。俺が異能だということが分かった次の日、母親は綺麗に姿を消してしまったらしい。異能には詳しくないが、どうやら俺は「早期発症例」という厄介な生き物であるらしかった。物心なんてついているわけもない2歳のその日、俺は物質反射の異能を発現させたという。自我のない生き物が異能を振るうのだ、よほど恐怖だったろう、母と同じ立場だったら俺だって蒸発する。父ははじめから望まぬ子供だった俺に興味など欠片もなく、家にはほとんどいないし、いても会話をすることなんて年に数回あればいいほうだ。そんなだから俺が異能を持っているとを知っているかどうかすら怪しい、まあ母親が消えた理由を知らないわけはないとは思うのだが。だからきっと、いなくなったことにも気付いていないだろう。

 なぜそんなことをと言われたら本当に好奇心でしかなく、今になってみると自分でもなんて馬鹿なことをと思う。なにも知らない子供だったのだ、フェンスで区切られたその向こう側の世界が気になってしかたなかった。危険だと周りの大人から聞いてはいても、結局そこに、スラムに入ったことのあるひとなんて誰もいなかったし、そうやって隠されてしまうと余計気になってしまうものである。だからあの日、中学三年生の夏、興味本位でスラムへ足を踏み入れてしまった。

 たった数歩しか歩いていなかったのに、今にしてみると流石というべきか当然と言うべきか、間の抜けた「スラムの外の人間」というのはすぐに分かるものなのだろう。横の路地から俺に向けて投げられたナイフが飛び出してきて、俺は咄嗟にそれを異能で反射してしまった。弾かれたナイフは一直線に投げたと思わしき男の、心臓の位置に突き刺さって、男は膝をつきすこし呻いたあと倒れ込み、静かになった。広がる血に、男の死と、自らが人を殺したのだという事実だけが浮かび上がる。逃げ出そうとして足がもつれて、その場にへたりこんだ。市街地では犯罪自体なくはないが、直接目にしたことなんてなかった。突然人間に襲われたことにも、それを殺してしまったことにも、動揺と恐怖が湧いてとまらなかった。
 そうして呆けているうちに、男の仲間なのか怖気づいた俺を見ていい餌だと思ったのか、次々異能と思わしき人間が襲ってきたが、身を守るために必死で、そのあたりの記憶は曖昧だ。途中、俺を取り押さえようとしたのか、なにかを言いながらこちらへ向かってきた一般人と思わしき男もいたけれど、気が動転してそれも敵だと思い殺してしまった。
 その日は人を殺したことが誰かに気付かれることが怖く、そしてあまりに後ろめたく、市街地へ戻ることもできなかった。後ろめたい、のは、彼女にだ。この手では彼女に触れられないと思ってしまった。

 そうしてスラムで身を隠していたときに声をかけてきたのが、その和服の男――赤間千秋だったのだ。



 それから3年。その男に情報管理担当として雇われながら、俺は時折、市街地へ足を運んでいた。彼女を、黒瀬あやねを探すため。

 スラムに来て以来、騒動で携帯が壊れてしまって、誰とも連絡がとれていなかった。当然、黒瀬とも。
 彼女は俺の幼馴染であり、中学生の時分から付き合っている恋人でもある。最初で最後、唯一俺の心を動かしたひとだった。黒瀬あやね。14の誕生日、彼女から最後に贈られたマフラーを手放したことはない。
 仕事の合間を縫って市街地を何度も何度も探し回っているのに、彼女はどうしても見つからなかった。一度彼女の家を訪ねたことがあったのだが、確かに黒瀬の母親に間違いはないのに、「そんな人間は知らない」と門前払いを食らってしまって、それ以来彼女の家には近付いていない。

 今日はひどく空が重く濁っている。近いうちに降るかな、と手ぶらで思ったけれど、市街地にはちらほらコンビニがあるから、いざとなればそこで傘くらい買えばいい。そうやって増えてばかりのビニール傘は邪魔だけれど。
 いつもとは違ったルートを行く。彼女の行動範囲は狭いからとそこをずっとめぐっていたけれど、こんなにも会えないのだから場所を変えたほうがいいだろう。そうしてふと、ある墓地の前を通った。身近にある唯一の墓地。空が重い。空気が濁っている。俺はなぜだか吸い寄せられた。ひとつ、ふたつ、彫られた文字を追っていく。みっつ、よっつ、淀んだ空気が肺を満たす。春も終わるというのに背筋を寒気がのぼる。彼女がくれたマフラーを握り締めた。いつつ、むっつ、

「……みつけた」

 最愛のひと、ようやく見つけた。ようやく、みつけた。



「ならば」

 声に男が振り返る前に、一振りで首を刎ねる。吹き飛んで頬にかかった不快なそれを指で拭い、ハンカチに擦りつけた。

 哀れな男だ、同情しないこともない。が、千秋のための組織より大切なものはない。仕方のないことだ。
 こういう時ばかりはあの出来損ないも役に立つ。そろそろアキは限界だろう、と、昨日奴がそう言ったばかりでこれなのだから。

 橘アキという男は、自身の恋人が既に死んでいることを知っていた。
 その女が自殺するところを、その目ではっきりと見たらしい。麻木が誰にでもするように等しく傷を抉ったようで、そのときは奴が嬉しくなるほど大層精神を乱したらしいが、次の日にはそのやりとりすら記憶から消していたという。つまらないと俺に愚痴を垂れていたのはいつの事だったか。女の後を追おうにも自ら命を絶つ恐怖に勝てず、誰かに殺してもらおうとあのフェンスを越えたのに、それでもまた生にしがみつく自分を受け入れられず、女を「死んでいないことにした」。けれどそんな暗示もいつまでもは続かない。
 ああいう手合いは錯乱してなにをしでかすか分からないから、男が墓を見つけたなら始末しろと、それが麻木の、組織の代表からの命令だ。不服ではあったがそれは正しい選択であろうし、奴は千秋の脅威となり得る可能性をひとつも許したくないだけで、その点だけは利害が一致する。

 この男は、橘アキという人間は、この3年を一体なんのために生きたというのだろう。虚ろに開かれたままの瞳を閉じてやることもなく、異能でもって灰すら残らぬよう焼き払った。

#27


 正義を示す深く青い制服。それは彼女にとって幸福の象徴だった。

 千ヶ崎あずさ。それは死んだ兄の名前。
 千ヶ崎は自分の持つ異能が嫌いではなかった。両親は千ヶ崎を忌み暴力をふるったが、いつも助けてくれる兄が、ヒーローのようにかっこよかったから。少しだって苦しくなかったといったら嘘になるけれど、兄が助けてくれる自分を、自分が憎めないと思ったのだ。かっこよくて中性的で、すっと鼻の通ったきれいな顔をして、足が長くて、背が高くて、成績も良くて、優しくて。そんな兄は千ヶ崎の自慢だった。彼が笑いかけてくれるのだから、自分が不必要な存在だなんて思わなかった。不幸だと感じたことも、一度だってなかった。

 千ヶ崎の家は、今暮らしているスラムからは遠い市街地にあった。市街地ではごく一般的な家庭で、特殊なことといえば千ヶ崎が異能を持っていたことくらいだった。
 小学校では異能であることを隠して、いつも一人でいた。声をかけてくれるクラスメイトはいたけれど、異能であることが知られたら嫌われるのだから、窮屈な関係を持ちたくなくて、自分から一人になっていた。だから放課後はいつも真っ先に家へ帰って、鍵をあけて部屋へあがり、荷物を置いて、誰もいない小さな公園で遊ぶのが決まりだった。夕焼けが綺麗な時間になると、中学校の終わった兄が自転車を押しながらその公園に千ヶ崎を迎えにきて、2人で並んで帰る。時々、兄がコンビニでお菓子やホットスナックを買ってきてくれる時があって、そういう日は2人で古いブランコに腰かけて、一緒に食べてから帰ったりもしていた。千ヶ崎は、そんなささやかで緩やかに時間が流れていくひとときがとても好きで、今でも兄のことを思い出すとき、後ろには必ず綺麗な夕焼けが浮かんでいる。彼は夕焼けがよく似合うひとだった。

 幸せが終わるのは突然だった。
 ある夜、いつも通り会話のなかった静かな食卓に、突如銃声が響き渡った。その直後に家の壁が一面まるまるおもちゃのように剥がれ落ちて、家がおかしな音をたてて歪む。拳銃を持っていた男が、なにかを奇声交じりに叫びながらその拳銃を父に向けていて、ああ、きっと異能犯罪者なのだと思った。市街地では珍しいけれど、全くないことじゃない。まさか自分が被害者になるなんて想像もしなかったけれど。
 それから恐らく近所のひとが呼んだのであろう警察官が駆けつけて、リビングが丸見えになったおかしな家を囲んでいた。その男は千ヶ崎たちを人質とし、警察となにか叫び合いながらやりとりをしていた。金銭なり逃走用の車なりの要求をしていたけれど、警官が突然発砲をはじめ、当然犯人は人質にその銃口を向けた。
 そこからの記憶は曖昧だ。兄が千ヶ崎を庇うように覆いかぶさったことは覚えている。真っ暗な視界に悲鳴だけが劈いて、幼かった千ヶ崎は耐え切れず意識を手放した。意識が浮上したときにはもうすべて終わっていて、兄が庇ってくれたおかげで男からは見えなかったのか、怪我ひとつしていなかった。警官に保護されている、と状況を理解した千ヶ崎のなかには様々な感情が溢れかえって、ひどく喧しかった脳内が、けれど一周回って冷めた。

 千ヶ崎の異能は「物質干渉」。触れたものを好きな形に、好きな素材に変えてしまえる異能だった。
 地面に座りこんでいた千ヶ崎は、ついていた両の手のひらに意識を集中させて、コンクリートからマシンガンを生成すると、現場にいた警官を、全員撃ち殺した。
 涙ひとつ流せなかった。最後に千ヶ崎のなかに残ったのは、怒りと憎しみのふたつだけだったのだ。さっさと男の要求を飲んでいれば兄が殺されることはなかったはずなのに。異能を野に放つくらいならたった4人の家族くらい見捨ててしまおうと、そう思ったに違いない。そんな意識しか持ち合わせていない警察という組織も、それを良しとするように富裕層だけを隔離しはじめた国も。すべてがただ許せなかった。いとおしいひとを返してほしいと、いくら叫んで抗っても、もうあの温もりは永遠にかえってなんかこない。世界にひとり取り残されてしまった。

 そうして行き場をなくし、身を隠すためスラムに流れついた千ヶ崎を拾ったのが――鏡見四季という男だった。
 彼は楽しそうに下卑た笑みを浮かべて、地面に座り込んでいた千ヶ崎を見下ろしていた。隠されてもいない殺気をひしひしと感じたけれど、千ヶ崎にはどうしようという気もなく、ただじっと、昏い目で男を見上げた。綺麗な夕焼けを背負って立っていた。
 なにを思ったのか、男は千ヶ崎を殺さなかった。気安く名を訊ねた。答える義理などないと思って、ただじっと男の、そのくすんだ灰色の目を見ているばかりだった。すると彼は不思議そうな表情をしたあと、屈み込んで千ヶ崎と目線を合わせると、ピンと一度千ヶ崎の額を指で弾く。

「ねえキミ、名前は?」

 そして再び、気安く名前を訊ねた。
 彼が、鏡見がなにを考えていたのかは分からない。けれどぼんやりとした千ヶ崎の瞳に、夕焼けを背負い立つ鏡見は兄の面影と重なって、悲しみに追いつかれたような気分になって、額を弾いたその手を掴んで、ぽたぽたと涙を流した。
 ああ、兄は、死んだのか。もうどこにもいない、二度と会えはしない。最後までやはり、わたしのことを守ってくれた。罪悪感と感謝と寂しさがないまぜになって、混乱する頭をどうすることもできずにただ泣いていた。
 鏡見は困惑しながらも千ヶ崎に付き合って、その隣に腰を下ろした。そうして千ヶ崎がようやく泣きやんだころ、やっぱり名前を訊ねてきた。

「落ち着いた?名前、そろそろこたえてよ」
「わたし、は、あずさ」
「あずさ?」
「千ヶ崎あずさ…」

 そのときなぜ兄の名が口をついて出たのか、千ヶ崎には分からなかった。けれど今も鏡見に対しその名を名乗っていることには理由がある。
 兄に死んでほしくなかったのだ。いつまでも自分のそばにいてほしいと思った、だから鏡見を兄の代わりとしようとした。自分の存在を兄の名前で上書きして、面影を目の前の男に求めて、2人で兄の代わりになって生きたいと思った。だって彼は死んでいいひとではなかったはずだ。誰より優しくて強かった兄が殺される、見捨てられる、そんな間違った世界は認められない。ならば彼を愛した自分がやるべきことはひとつしかない。
 反逆だ。

 だから「千ヶ崎ひな」と名乗り神田いおりに近付いた。彼女を利用して組織内部に潜入することが目的だったのだ。そうして得た情報を上神マキを通じて鏡見に流し、彼になるべくたくさんの命を奪ってもらうことが、国そのものへの反逆のはじまりだ。開戦の合図の狼煙のように、なるべく派手に、広範囲で。幸い鏡見は楽しく暴れられればそれでいいというひとだったし、なぜだか自分が頼めば笑って頷いてくれていた。ただ自分の好きなことができるから、でしかないのかもしれないけれど。
 本当に鏡見は、兄とは似ても似つかない。それでも感謝していた。同志、と呼ぶのはすこし違うかもしれなくても、それでも戦闘が得意なわけではない自分にとって、彼の存在は有り難かった。けれどもっと強くなってもらわなければ。もっと、誰にも負けないように、もっと、兄のように。だから今日も暴れてもらおう、場数を踏んでもらおうと、警察の動きを彼に伝えるため、上神を介さず鏡見のもとへ来ていた。上神は所詮弱みを握られているたけに過ぎず、信用に値しない。できるだけ頼りたくはないのだ。

「わかってます、言われなくたって。私は兄の仇を討つためだけに息をすることを選んだんですから」
「分かってんだけどさあ、上神が注意しろってうっさいの。あずさちゃんとの付き合いは俺のが長いってのにねえ」
「情報屋は信用ならない生き物ですよ、鏡見。より利をもたらす方に簡単に寝返りますから」
「だーいじょうぶ、妹ちゃん諸共爆破するよ。アイツは俺に勝てないし」
「相変わらずの自信家ですねぇ」
「てかさ、もう新しいおにーさんいるんじゃなかった?」
「また椎葉のことを言ってるんです?気味の悪い冗談はやめてくださいよ、血も繋がっていないのに家族ごっこなんて。兄はたった一人でした、…一人しかいないんですよ、私の兄は」
「あっはは、変わってなくって安心した、その調子でよろしく頼むよ」

 鏡見はそういってけたけたと楽しそうに笑ってみせる。椎葉を指して兄などと言う鏡見の意地の悪さ吐き気を催していたころが懐かしい。

 いつの日か、神田との触れ合いが安らぎへとかたちを変えて、千ヶ崎のこころを蝕みはじめた。
 自分を犠牲にしてがむしゃらに人々を助けようとする後姿、組織の道具を扱うような態度もものともせず己の正義を貫くつよい瞳。彼女のきれいすぎるすがたに、千ヶ崎は兄の面影を見た。いつも自分を守るために駆けつけてくれる背中。自分を見て優しく細まるひとみ。暖かくて力強いてのひら。泣きたくなるほど、苦しくなるほど、悲しすぎるほどに、彼女は美しかった。ただまっさらだった。
 ひな、と、もう捨てたはずの昔の名前で自分を呼ぶその声が響くたび、どうしようもない罪悪感に襲われた。彼女には泣いてほしくない、寂しい思いなどしてほしくない。いつかいなくなるであろう自分を、まるで本当の家族のように、宝物のように大切にしてくれる彼女を、これから自分は悲しませてしまうのだろうか。胸が痛んで張り裂けそうでも、それでももう後戻りもできない。できるわけがなかった。

 彼女のことは裏切れない。鏡見のことも裏切れない。
 だからこそ、千ヶ崎はより強く誓ったのだ、この国の壊滅を。彼女がもう、国のために危険なことをしなくて済むように。残った大切なひとたちと穏やかに生きていけるように。この国の中枢は、たったひとつしかない都市部に全てが集まっている。そこを叩いて滅茶苦茶にできれば、きっとひどい混乱が起きて、そうして彼女を攫ってしまえる。どこか遠いところで、もう二度と国なんかに操られない場所で、ただ幸せになってほしいだけだ。罪はすべて自分が背負っていなくなる。それで全てがうまくいく。神田いおりの幸せは、間違いなく千ヶ崎ひなの幸福だ。彼女の光を受けると宝石のようにきらめく髪を目に焼き付けて、日々を生きていた。
 それが「だれかを大事にする」うえで正しい方法なのかは分からない。それでもずるくて臆病な自分では、もうこんな道しか歩けはしないのだ。大丈夫、わたしの本当の気持ちは、彼女だけがきっと知っている。

「ねぇ鏡見、それで」

 話があるんです。
 それは声になることはなかった。
 路地から飛び出した影が、千ヶ崎の喉を攫って、ちいさな頭が宙へ飛ぶ。鮮烈な赤が飛び散って空間を濡らした。

 6月21日、朝焼ける路地でのこと。

#28


 千ヶ崎はその瞬間も、神田いおりのことを考えていた。

 きっとばちがあたったのだと思った。
 なんであれ彼女を騙していたことに違いはない。宙を舞う頭が意識を途絶えさせる寸前、痛みすら感知しない脳が考えていたのは、神田のことだった。

 彼女はきっと寂しがってしまう。こんな自分でもあんなに愛してくれたひとだから、真実を知ってもきっと悲しがる。千ヶ崎ひながそうさせるのではなく、神田いおりだからこそそうなってしまうのだ。優しいばかりでなく芯の通った強さを持っているから、寂しいことから目をそらさないで生きていくに違いない。

 彼女は彼女の母と自分が似ているといっていた。話に聞くそのひとは、わたしのように子供っぽく感情的なんかじゃなかったけれど、神田のなかでは「大切な家族である」という一点で関連付けられているようだった。だったら家族を二度も失う彼女はどうなってしまうだろう。わたしは兄を一度失っただけで済んだ。鏡見も椎葉も生きている。鏡見がわたしを引っ張ってくれる手つきは兄より乱暴だったし、椎葉の背はあのころ幼かった兄よりずっと広い。けれども2人ともまだ生きている。あの日わたしを庇い死んだのは千ヶ崎あずさただひとりだ。
 なんて後悔の残る人生だったのだろう。自分ばかり暖かい空間のなかでぬくぬくと守られて、そこで一番優しかったひとに裏切りと寂しさだけ置いて死ななければならないなんて。彼女を騙したことはきっと許されないのだ。だから打ち明けることも、彼女のために生きることもできず、彼女に許してもらえない私のまま死んでいく。兄の仇も討てなかった。わたしの手に2人分の人生は大きすぎたのだ。兄として国に逆らうことも、わたしとしてやさしいひとと時を共有して生きることも。この身は小さすぎた。なにもできなかった。すべてこの手から滑り落ちていった。兄の人生もやっと終わった。彼は死んだ。わたしと共に死ぬのだ。



 勢いよく飛び出し千ヶ崎の首を攫った影は、空中で回転し足をビル壁につけ、すぐさま鏡見に飛び掛ろうとする。赤茶の髪を朝焼けに鈍く尖らせながら、ぎらついた群青の瞳で鏡見を射抜いていた。右手に握りこんだナイフを構える。鏡見は唖然としていた。ただ千ヶ崎の頭があったところを見ていた。彼女はいま自分になにを言おうとしていた?

 瞬間、間に割り込むように爆音が轟いた。衝撃波となってビル壁を抉り骨格を歪め、あたりは煙と巻き上がった埃で視界が悪くなる。途端鏡見は左から腕を引かれた。細い指に、上神だ、と思った、この衝撃波は彼の異能だったことに気付く。そうか、あの男から逃げなければならない、あの殺意すら発さないいきもの、獣のように鋭くて、機械のように理性的な目の、あの男、赤が強く滲む茶髪と鈍い金色のメッシュを揺らす、千ヶ崎を――

「…あずさ、」

 千ヶ崎を正確に歪みなく殺した男。きっとあれから逃がされている、自分は。
 足がどう動いているのかも分からないまま走っていた。殺し合いで負けるなんて思っていないけれど、いまは頭が混乱して、身体をどう動かせばいいかが分からない。多分、撤退が正しい。上神に命令されるのは癪だったが、まだあの光景の意味を、心臓が理解できていない。千ヶ崎は死んだ。首をはねられ死んだ。馬鹿みたいに心臓が激しく脈打って壊れそうだ。拒むみたいに。


 去っていく鏡見の背を追おうと踏み込んだ、千ヶ崎を殺したその男は、しかし硬直する。

「おーい、そこで何してる」

 間延びしたやる気のない声に、群青の瞳がぐらつく。全身に痺れが走り力が抜けてナイフを落とした。血が飛び散る。
 りん、と、陽が低くまだ光の差さない薄暗い路地に、その声は、あまりにもはっきり響いた。

 聞き逃すはずがない。間違えるはずがない。

「って…鳴海?何して、」

 こつん、アスファルトを踏む音。
 柔らかな若苗色を揺らす椎葉は、血を浴びた麻木の――足元を見た。

#29


 彼のことを愛していた。どんな風にでも。

 母は自分と決して目を合わせることがなく、そばへ近付くと劈くように怒鳴り、声を発するだけで「異能を使うな」と叫んだ。彼女は怯えていたし、憎んでいた。異能を産んだ自身のことも、異能を宿した俺のことも。
 母の前で俺は、決して声を鳴らさず、決してなにも悲しまない自分でいた。俺が悲しむとまるで母が加害者であるように錯覚させるから、それは自分が許さなかったし、寂しがることもそうだ。彼女のすべてを壊してしまった自分にできることは、これ以上彼女の人生に介入しないことだけだった。だから俺は、異能を使わない俺に成った。声を、鳴らしてはいけなかった。

 千秋は良い人だ。異能である俺を快く受け入れてくれ、数年前まで一緒に暮らしていた。けれど彼が俺を迎え入れてくれたのは、俺が異能だったからだ。千秋は、異能という不条理のルールや成り立ちを解き明かすことに没頭していて、さまざまな異能がそばにいることを利益とする人だった。
 だから彼の前で俺は、どんな仕事も完璧にこなせて、その「完璧」を絶対とするために納得がいくまで訓練を積み重ねる、責任感の強い自分でいた。千秋の首を守る組織を完璧に取りまとめるため、粗暴な暴君としてそこに存在し、威圧して制圧して、制御した。すべては千秋という恩人の命を守るため。そのために俺はすべてを使ったし、そうすることに躊躇いもなかった。俺は、異能という千秋にとっての価値を失わないよう、異能を受け入れられる俺に成った。

 しかしそれは両立なんてできるわけもないことだ。母への贖罪は終わることなく、けれど千秋が必要としてくれた異能は千秋のために役立てなければならない。
 ぐらついていた。意志が定まらない。俺、という存在が、その意味が、もうとっくに見失ってしまって、手も届かない。次第に手を伸ばすことさえやめようかと思うようになった。

 その手を掴んだのが椎葉だった。
 なにに成らなくてもいいと、そう言ってくれた彼は、けれど冷たいひとなのだろう。俺は役割がなければ存在がぐらついて安定しないことを知っているくせに、なんのかたちも求めないなんて、そんなのは、耐えられそうにない。彼に嫌われないようにするにはどう振舞えばいいのかを教えてくれない。だから今日も俺は不安定なままで、でも隣には変わらず彼がいる。
 嬉しかった。利益や成果ではなく、俺という存在そのものを必要とされているような感覚がして。ばかみたいなことを言い合って笑うことがとても楽しかった。彼といるときだけは嬉しいことばかりがあった。悲しいことなんてひとつもなかった。彼の前でだけは、なにひとつ完璧でなくてよかったのだ。目を見て、声を聞いて、そばにいてくれる。彼となら寂しいと感じることだって間違いじゃなかった。俺は彼にとってのなににも成れなかったけれど、それでいいと言ってくれる椎葉から、幼少期に取り逃した愛情を取り戻しているような感覚があった。

 だから絶対に許すことができなかった。彼がずっと焦がれて、ようやく手に入れた柔らかな家族というものを、穢されることが。
 瀬東史織のことを詳しく知っているわけではない。神田や千ヶ崎という少女のことだって。時々椎葉の口から出てくるその名前を覚えていただけで、それでもその瞳のゆらぎや声色から、ひどくいとしいものだったのだろうことが知れて、だから記憶によく残っていた。
 なにごとにも決して執着しない彼が、あの椎葉が、唯一背負った「恩人の死」と、「恩人の宝を守りとおす」という重荷。それを侮辱されることだけは、許せなかった。麻木鳴海が許して良いわけがなかった。
 あたたかな家庭を手にいれて、それを彼が大事に思っているということが、どれだけの奇跡であることか。それを分かっているのはもう世界に自分だけだ、だからこそ俺だけは、彼がいま守っているものを貶されることを、許せるはずがなかったのだ。



「……鳴海」
「カオル、なんで、」

 逃げる鏡見四季を追うため踏み出した足は、しかしそれより先に進むことはなかった。ゆっくり振り返れば、椎葉が呆然と立っていて、ただ少女だったものを見ていた。
 どっとわけの分からない感情がこみ上げ、脳がなにを目的としたものかも分からない警鐘を鳴らしている。なぜ、どうして彼がここに。ああ彼は、俺を責めるだろうか、憤るだろうか。あの少女を椎葉が「大切なもの」、「必要なもの」と認識していたのは知っている。言葉にされなくとも、少女らの話を聞かすその目を見れば容易く分かることだった。けれど、でも、だからといって。椎葉がようやく得た居場所を貶されることなど、許されるべきではないはずで、けれどゆるやかに視線を上げた椎葉の目に宿っていたのは、

「お前が、殺したのか」
「カオル、こいつは」
「質問に答えろ。それだけでいい」

 視線が絡む。そのひとみには、確かに俺への拒絶が浮かんでいて、瞬間、脳が凍りついたようだった。思考が壊れるような音。

 やめてくれ、そんな目で。お前も俺を、そんな目で見るというのか。

「カオル、ちがう、」
「早く答えろ、鳴海、お前が、千ヶ崎を殺したのか」

 こつん、アスファルトを踏む音。指先からちりちりと痺れが這い上がってくる。心臓が狂ったように脈打って爆ぜそうだった。声が掠れる。うまく喉が、鳴らせない、じわり、じわりと椎葉からゆっくり殺気が放たれて、まるで俺の首を絞めつけているみたいだった。

「ちがう、こいつは、お前のこと裏切ってたんだ、」
「もう一度言う。お前が殺したのか」
「っ家族ごっこだと切って捨てたんだ、そんなの俺が、許せるわけねェだろ?」
「…そうだな、俺も許せない」

 お前のこと。

 椎葉はすらり、刀を抜いて、真っ直ぐに罪人の喉を捉えた。眩しい牡丹色が強すぎて頭が眩む。血の気がひいて、自分が立っているのかどうかさえ一瞬で分からなくなった。どうして、どうして俺のはなしを聞いてくれない、どうしてお前が、俺を拒むんだ。
 言ってしまえば簡単なことだと、それはお前が俺に教えたことではなかったのか。

 椎葉がひとつ跳んで距離を詰める。咄嗟にナイフを取り出して態勢を整えたが、当然こんな壊れた思考ではろくに戦えやしない。次の一手も重心も、何もかもが分からず、何度も椎葉の振り払った剣先が体を斬りつけていった。

「なにがあっても、お前が殺したそいつは、あの人の宝物にとっては唯一だった」
「だから、それも…!全部嘘だったんだ!なんでだよ、分かれよ、」
「ひとがひとり死ぬことで、どれだけ人生が狂うか、知らないわけねえよな、お前が」

 容赦のない斬撃が叩きつけられる。一撃が憎しみを表すように重く、ナイフでは受け止めるのもぎりぎりで、弾かれないよう受け流すのがやっとだった。頭がぐちゃぐちゃで体が動かない、いつものように自分の身体を制御できていない。当たり前だ、俺を操作していたはずの思考は、まったくどうにかなってしまったのだから。獣のような怒涛の攻めに押される一方で、じわじわ追い詰められていく。

「カオル、俺の話を聞けって、なあ…!」
「お前が俺を裏切るなんて思ってもなかったよ、失望した」
「――っ!ン、だよ、それ…っ」

 失望、と、彼はいま、そう言ったのか、俺に。
 頭が真っ白になる。膝が笑っている。最適解を見失って混乱する。体がどう動いているのかさっぱり分かっていないまま、俺はナイフを突くように椎葉へ向けたようだった。
 途端、彼が笑った、ような気がした、

「っカオル!」

 簡単に受け流されるはずの、正面へ突き出されただけのなんてことはない軌道を描いただけだったナイフは、迷いなく彼のうなじを深く切り裂いた。血が飛び散る、椎葉の制服が、髪が、赤く濡れていく。後ろへ倒れていく彼をほとんど無意識で追いかけて、肩を抱いたまま一緒に崩れ落ちた。

「っはは…ほんと、ばか、お前」
「なんで、いまの、わざとだろ、なんで!」
「…お前は、もう許されない、誰かに許されたら世界が狂うような、ことを、仕出かしたんだから、いちばん…重い罰を、俺が下してやる」
「あ、なん、で」
「ばかだなあ、はは、俺のいない世界で、生きろよ、それがお前にとって、一番重い罰だ、…鳴海、最後まで生き抜いたら、許してやる」
「なに、を、いやだ、いや、だ、カオル、おれは」
「は…俺も、だめなやつだな、最初はちゃんと、殺す、つもりだったのに、…やっぱお前のこと、嫌いじゃねえから、こんなことで、騙されんのかな」

 椎葉の頭を支える手が震える。身体が奥底から冷える。頭が真っ白でなんの言葉も出てこない。声が鳴らない。ただ彼の喉を抉った、俺がつけたその傷口からどくどくと溢れ出る血液を、黙って眺めることしかできない。
 そっと、呆れたように笑う椎葉の左手が、俺の頬へ伸びて、

「なあ…泣くなよ、鳴海」

 罰なんていらなかった。許してくれなくてよかった。世界に、椎葉に恨まれていようと、彼が生きているならばそれだけで、そう、どれだけ憎まれていたとしたって、俺は絶対に罪を背負いきれたはずだった。
 それでも椎葉は俺に罰を与えて償わせた。今更、償ったってもう遅い、のに、それでも彼は。さいご、まで、どんな俺でも手を引いてくれた。昔となにも変わらない冷たい手で、いつから流れ落ちていたかも分からない俺の涙をひとつ拭って、その手は、二度と。



 どんな風にでも好きだった。椎葉カオルという、唯一の、理解者のこと。彼のためなら、彼にかたちを求められたなら、なんにでも成れたのに。