今度また、あの国へ行くだろう。ふいにシャルルがそう落とした。そうだったなと、スケルツァンドが食べられるかたちにしてくれたリンゴを齧りながら返す。シャルルは頬杖をついて、春の風に揺れるカーテンを眺めていた。
「千秋の甥がいるだろう」
「ああ、あの生意気なチビ」
「…、彼に嫌われてしまったらしい」
嫌われた?あの男は人間がひとしく嫌いそうだし、あと俺だって多分嫌われている。そう思って眉を僅かに寄せて首を傾げると、シャルルは視線を俺に寄越して、いやな、とひとつ置いてから、また口を開いた。
「名前を呼ばれるのがものすごく嫌いだったらしいんだ」
「名前ぇ?」
「そう、苗字で呼んだほうがいいと、千夏がこっそり教えてくれたのだが」
「千夏ぅ?」
「…実子のほうだ」
首がどんどん傾いていく俺を見て、シャルルは呆れたように目を細めながら、一口だけカフェラテを啜った。喫茶店の新作として出したいらしい、りんごが乗っただけのそれ。
でもだったら、なんて呼べというのだろう。シャルルの言葉を反芻する。名前なんて個人を判別するための記号に過ぎないというのに、面倒な男だ。第一、城の中に同じ苗字の人間なんてたくさんいるだろう。皿に乗ったリンゴの、最後の一切れを飲み込んだ。
「やあ、遠いところわざわざありがとう」
本当にあれと血が繋がっているのだろうかと思うほど、この王は気さくだ。あいにくの天気だったけれど、濡れてはいないかい。そう続けて、本当に心配そうな顔で俺たちを見つめる。
「痛み入ります、大丈夫ですよ」
「よかった、ひとまず部屋で休んでおいで。僕は少し、人を捜さなければならなくてね」
「王自らですか?」
「甥が、ひとりで出て行ってしまって」
千秋は困ったように苦く笑う。過保護なのだろうか、もういい歳で、ひとりで出かけるくらいわけはないだろうに。確かにこの国は治安があまり良くはないけれど、だからこそひとりで城下をうろつくならば、ある程度護身はできるということではないのか。そんな風に思って言葉に詰まってしまった俺を見かねたシャルルが、それは心配だな、なんて返している。
その時だ、玄関のドアが重い音を立てながら開いて、使用人がざわついた。ぱっと顔を上げた千秋につられてそちらを振り返れば、ずぶ濡れになった男がふたり。華美な衣装に身を包んだ長髪の男がドアを支えて道を開き、もうひとりはなにかを両手で抱えながら俯いている。
「鳴海くん!」
千秋の声に驚いて、もう一度その二人を眺めた。呼ばれた男は一拍おいてからゆるゆると顔をあげ、昏い瞳を一度まばたかせる。そうして、そのひたりと冷たい瞳で使用人たちへ視線を投げると、それだけで水を打ったように静まり返った。
よく見ればその男は確かに例の麻木鳴海だったのだが、纏っている空気が以前のものとまるで違い、一瞬そうと認識できなかった。あんなにも陰気な人間だっただろうか、どうしようもなく意地の悪い笑みばかりしか記憶にはないのだが。
「…、ねこ?」
シャルルが横でぽつりと小さく呟いた。麻木が抱えていたのは猫だったようで、長い尻尾が腕からはみ出し揺れている。
駆け寄った千秋は、麻木が玄関をくぐるとその両肩をすぐに掴んで、大丈夫かいと声をかけた。その背に遮られ、麻木の表情は見えない。玄関のドアを支えていた男が、使用人が麻木に差し出していたタオルを勝手に受け取って、がしがしと麻木の髪を掻き混ぜている。
「カオルくんがいてくれたみたいで良かったけど、忽然と消えるものだから焦ったよ」
「叔父上は大袈裟です、私などよりご自分のことを優先なさってください」
「ああもう本当に、君はそういうところがいつになっても直らないね、心配したんだよ」
「千秋さんご無沙汰してます、ところであちらはご来客で?」
「ん、ああそうだった!」
ご無沙汰、ということは、あの男は麻木の付き人というわけではないのか。そんなことを思いながらぼんやりと眺めていたものだから、突然矛先を向けられ面食らってしまった。こちらを認めた麻木は、そばに立って髪を拭いていた男の耳へ顔を寄せなにかを告げると、抱えていた猫をそっとそいつへ渡して、ねこ?と首を傾げる千秋の横を通り過ぎ、貼り付けたような笑顔でこちらへ歩み寄ってくる。
「まさかいらっしゃっているとは思わず、このような見苦しい姿で申し訳ありません」
「いや、気にしないでくれ。千秋がずいぶんと心配していたが、大丈夫だったか?」
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね、叔父上は心配性なんですよ」
がらりと空気が切り替わり、勝気な表情でシャルルを見ている。人のことは言えないが器用なものだと感心した。城へ入ってきたときはひどく頼りない表情をしていたように見えたのだが、今は足取りも堂々としたもので、本当に同一人物なのかと再び思ってしまうほどの変わりようだ。お二人ともお変わりないようで、などとのたまったあと、「お二人を部屋へお通ししろ」と、静かな低い声で指示を出す。
養子って意外と肩身狭くねえのかな、なんて思いながら千秋に軽く挨拶をして、案内に従って一歩踏み出すと、
「んじゃ鳴海も休むぞ、フラッフラになっちまってまぁ」
「…うっせぇよ、バカ」
長髪の男が名前を呼ぶ声と、弱々しく鳴った音だけが、薄らと聞こえた。
「あの男、麻木の友人だったのだな」
「え?誰が?」
「記憶力~…!」
「あ」
「あ。」
扉があいた、と気付いたときには遅かった。ひょっこり現れた頭は、そのまま俺の右手を凝視する。どうせ誰も来ないと高をくくって吸っていたパーラメントのロング。あーこりゃまた停学だな、と思いながらもまた口をつけた。
けれど意外なことにそのひょっこり現れた頭はそのまま俺の隣に移動してきて、「火くれない?」なんて無表情で聞いていた。
「なんだ、お前もか」
「まぁそんなとこ」
ライターを取り出してカチ、と火をつけると、そいつもタバコを取り出してライターに近づき、一度吸って、はぁ、と煙を吐いた。
「これないとイライラして」
「あ~俺の知り合いもそうだわ、俺はそこまでじゃねェけど。…お前名前は?」
「ルイ」
「へえ、俺の知り合いにもいるわ」
「どうでもいい」
「ま、そうだわな」
そのまま二人で無言でタバコを吸っていた。俺のほうが先に吸い終わって、ひどく短くなったタバコを床に押し付け火を消した。ルイと名乗った男はまだ吸っている。
特に何を話すでもないこの空間は、まったりしていてなんだか落ち着いた。そのままだらだらと、足を投げて壁に寄りかかり空を眺める。もう夏が近い。雲もまるで入道雲のようだった。ああ、あいつの嫌いな季節がくる。そうすると普段とは立場が逆転して、俺があいつを起こさなければならなくなる。寝起きが悪いくせに起こさなかったら起こさなかったで「起こせよな」なんて、面倒くさいことを言いわれるのだ。でも普段はあいつの寝顔なんて見られないから、夏はべつに嫌いじゃない。
「お前、夏は好きか?」
「どっちかっていうと嫌い」
「ふゥん」
それからも意味のない短いやりとりを数回して、何度目かの会話の終わりにルイもタバコを消して、立ち上がった。たぶんまだ煙の匂いがするだろうからもうちょっとここにいたらどうだ、と提案すると、思ったよりあっさりそいつは腰をおろした。それからも数回、やっぱり意味のない言葉のやりとりを静かに交わして、あぁこれが喫煙所コミュニケーションってやつか、なんてぼんやり思った。
本当に腕が生えてきて、綺麗にもとの形に戻った夜。ロンドに連れられ、初めて屋敷の風呂に入った。
プールのような、浅くて広い、綺麗なバスタブ。おそるおそる足をいれて、暖かさにじわりとした足を一度引っ込めた。見ていたみたいにロンドがドア越しに「先にシャワーを浴びろよ」と言って、「着替えをここに置いておくから」と続けたあといなくなった。気配が遠ざかったのを感じてから、言われたとおりシャワーを浴びて、もう一度浴槽へ。ゆっくり腰をおろして、じんわりと広がる暖かさにどっと眠気がきた。ずっと気を張り詰めていたから、その疲れが雪崩れのように瞼に重くのしかかる。このままでは寝てしまう。だるがる体に鞭を打って浴槽から出て、頭を何度もかくんと落としながら身を清めた。
すべてすませてドアをあけると、なめらかな肌触りの生地で作られた上等な部屋着がたたんでおいてあった。さっき言っていた着替えだろう。こんな良いものをあてがわれるとは思わなかった。けれど広げて見てみると、自分にはかなり大きいであろうことが分かる。急だったから、自分に合うサイズの服がなかったのだろう。けれど小ささを強調するようなこの格好はよろしくない。非常によろしくない。むくれても仕方がないので袖を通すが、やっぱりよろしくなかった。ぶかぶかで胸元が大きく開いているし、袖も何度も折らなければならないくらい余ってしまっている。やっぱりむくれながら部屋へ戻った。ふわりと良い香りまで漂ってきて、ますます自分には似合っていない気がした。
「戻ったか」
タオルで顔を隠すようにしながら戻れば、部屋の前にはロンドがいて、けれど目が合うなり彼はむっとした。なんだ、と身構える。
「こっちへ来なさい」
「…なんで」
「髪をちゃんと拭かないとダメだろ」
「いいだろ、このくらい」
「ベッドが濡れる」
「細かいこというな、ケチ」
「ケチとかじゃない」
距離を保って睨んだまま応じれば、ロンドがはあと溜息をつく。呆れたような仕草に少しだけ肩が揺れた。攻防の末諦めたらしいロンドは、聖の姿を一度、頭から足までを流すように見たあとで、よかった、と言った。
「俺のものだが、なんとか着れるみたいだな。今日はそれで休みなさい」
それだけ残して、踵を返す。聖は呆然としていた。
余った袖、ぶかぶかの胸元、みっともなく長い裾、それから透明感のある香水の香り。
(…なんか、)
なんか、落ち着かない。なんでだ。でもなんか、やっぱり、へんだ。意識している俺も。
よく分からないまま、けれどやっぱりほとんど眠れない夜だった。
スラムにひとり、青い衣装を身に纏った少年が降り立った。
「…どこだ、ここは」
ぽつん。
そんな音がこれ以上ないほど似合う佇まいをしている少年は、荒んだスラムには不釣合いな上品なものを纏い、クリーム色の背中でひとつにされている髪は癖ひとつなく艶やかだ。
見慣れた路地ではない、訪れたことのない余所の土地か、或いは。思考しながらも、路地を抜けられないか、少年は前へ前へ、どちらが前と分からずとも足を運んでいく。折れた雨水パイプ、抉られたような跡のあるコンクリート、血痕が染み付いたビル壁。これほどまでに治安の悪い国があるとは聞いたことがない。第一そんな国があったとして、なぜ自分はわけも分からぬままここに立っているのか。
ふ、とまたひとつ角を曲がる。その先で殺気が蠢いた。咄嗟に身構えて右手を腰にやったが、身につけていたはずの剣がない。しまった、と思ったと同時に魔法を展開しようとした瞬間、
スパン、軽快な音が響く。目の前で棚引く柔い若苗色と、鮮血、そして青い制服。殺気の正体を、その胸を深く切り上げたそれを左手に持ったまま、それは振り向いた。
「困りますよおにーさん、丸腰な上そんな格好でうろちょろされちゃあ。仕事増やさないでくださーい」
返り血を頬と首に浴びながらもへらりと掴み所なく笑った彼は、狩る者に相応しいような、激しいビビットピンクの瞳で、波打つことなく少年を射抜いた。
ピッ、と一度血を払った日本刀を鞘へ納めた彼は、少年へ改めて向き直り口を開いた。
「…どっから抜け出してきたんだか知らねーすけど、…都市部市民ってそんなに世間知らずなわけ?そんな立派な格好でスラム歩いてたら、そりゃ襲われますって」
「都市部?…なんのことか分からんが、この格好がまずいということは…やっぱり城下町なのか」
「へあ?城下町?」
「俺はフェローチェ…フェローチェ・ツベルクだ。どこか城に通じる道はないか?案内を頼みたいんだが…」
「…これはこれは…」
フェローチェと同じく青い制服を纏った彼は、困ったというように額に手をあて、緩く首を振った。
意味が通じないとは、はて、フェローチェもまた、困ってしまった。やはり違う国、違う土地であるようだ。自分がどうしてそんなところにいるのかも知らないが、とりあえずかなり遠くまできてると見たほうがいいだろう。名乗っても誰と分かってもらえないような、そんな遠い遠い国…。
顎に手をあて思案していたところに、目の前の彼の胸ポケットがけたたましく劈くように騒ぎ立てはじめた。
『椎葉さあん!!あなた一体どこふらついてるんですか!?まったくいっつもいっつも…あっ!』
『椎葉ァ!てめ持ち場離れんなっつったろうが!!』
「げっ署長ォ!あー…いやね、いまこっちに252が…それも重度の記憶障害と中二病持ちの都市部市民の迷子で…」
「おい待て、俺は記憶障害でもないしその都市部とやらの市民でも、」
「とりあえず面倒そうなんで一旦署まで送りますわ。なんで署長がどうにかしてください。どうぞ」
『どうぞじゃねえ丸投げすんなボケ』
「俺は忙しいんでこれで。オーバー」
『オイ椎』
ブツッ。
「…俺は記憶障害でもなければ中二病でもないし都市部市民とやらでもない。ツベルク家の者だ」
「はいはい、そんなこと言ってたらスラムじゃ平気で死ねますからね、おにーさんに大人しくついてきて下さいね」
「おい人の話を…」
椎葉は、日本刀を握っていたその手でフェローチェの手を掴み、そのまま歩き出した。路地を左へ、右へ。どこから来たかもう分からなくなるような、複雑なビル地帯。困惑しながら手を引かれるフェローチェが異世界へ飛ばされたのだと気付くまで、あと少し。
うちよそマフィアパロ。
佐々木さんちのお子さんをお借りしています
「ねえ、この間の話、どこまで本当なの」
暖房がゆっくり、ゆっくりと暖めていく車内で、助手席に座る佐々木の声はあまりに静かに響いた。落ちていくような声。運転している村井はちらり、と横目で何事かを伺うように佐々木を見遣ったが、なんのことかとは追及するわけでもなく、しかし確かに会話に耳を傾けたまま、視線を前へ戻してハンドルを握っていた。
雨が車窓を叩く。問われた椎葉は運転席側の後部座席に深く、だらしなくとも見えるようにして腰掛けている。ゆらり、ものだるげに目だけを佐々木にやって、からかうように口角をあげた。
「なにが?」
そうきたかと佐々木は思った。なんのことかという何ともとぼけた返答に、一瞬つい舌を打ちそうになる。まさか話をはぐらかすところからスタートするとは欠片ほどしか予想していなくて、それもできれば的中しないでくれと思いながら問いかけたくらいだったものだから、呆れに頭が眩みそうだった。なんにせよこの男は1からすべてが面倒くさい。目的地まであと10分程度しかない帰路、この男から肝心な部分を聞きだせるか甚だ疑問であった。あちらへこちらへ"蛇行させられる"会話というものが佐々木は特別嫌いである、彼の我慢がもつかどうかもまた分からなかった。人を振り回すのは大好きだが、そもそも掴むところのない、のらりくらりとした椎葉との会話は、まさに暖簾に腕押し。無駄を嫌う佐々木にとって時には苦行にすらなる。
「分かってるだろ、はぐらかさないでもらえる」
またちらりと、村井が佐々木に一瞬視線を寄越す。佐々木が腹を立てそうな予感を、本人同様感じたのだろう。赤信号に車が停まる。
椎葉は相変わらず、なにを考えているのか、はたまたなにも考えていないのか判断のつかない笑みを浮かべていた。
「あぁ、なに、昨日の?」
間延びした、やる気のない声で、合点がいったというような台詞を吐いた。強い牡丹色の瞳が遊ぶように揺れている。だらしなく投げ出されていた足を組んで、あんなの、別に気になるような話じゃないでしょ、と続けた。佐々木がまたひとつ目を細める。気になるような話じゃなかったら、わざわざ人がいない時間を作ってまで問い質したりしない。そんなこと分かりきっているだろうに、隠したい強い理由があるわけでもないのにはぐらかそうとする椎葉の態度が気に障る。
信号が変わって、車はまた帰路を行く。
「なに、睨むなよ」
「もっかい言うけど、どこまで本当なわけ」
「どこまでって、俺がお前に嘘なんか吐いたことある?」
「…ほんと、食えないね、アンタ」
最後にじとりと横目で軽く睨んで、もう呆れたと言う代わりに椎葉から視線を外した。村井がそっと息を吐く。佐々木がミラー越しに見た椎葉は、呑気な顔で窓を叩く雨をだるそうに眺めていて、それを認めたとき今度こそ舌を打った。